「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

熊澤蕃山⑩「学問の道に文武あり。文武に徳と芸との本末あり。文の徳は仁なり。武の徳は義なり。仁義の本立て後、弓馬書数礼楽詩歌のあそびあり。」

2020-11-06 13:46:55 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第二十五回(令和2年11月6日)
熊澤蕃山に学ぶ⑩
「学問の道に文武あり。文武に徳と芸との本末あり。文の徳は仁なり。武の徳は義なり。仁義の本立て後、弓馬書数礼楽詩歌のあそびあり。」(『集義和書』巻第二)

 蕃山は武士(当時の社会のリーダー)の在り方について次の様に述べている。

「良い武士というのは、あくまでも勇気があって、武道や武芸の心がけが深く、いかなる事が起こっても躓かない様にたしなみ、主君を大切に思い、自分の妻子から始めて天下の老若等の弱者を不憫に思う仁愛の心から、世の中の平穏を好み、それでも不慮の事が生じて来た時には、身を忘れ家を忘れて、大いなる働きをなして軍功を立てる人の事を、例え一字も読めない無学の人であっても、文武二道を修めた立派な士と呼ぶ。世間で、文芸を知り武芸を知る者を文武二道と言うのは適切でない。それは文武二芸というべきである。技芸ばかりで知仁勇の徳がなければ、二道を修めているなどとは言えないのである。」

 蕃山は、文や武には、それぞれ「芸」と「徳」の違いがある事を指摘している。前者はあくまでも技巧であり、後者が人徳・品格を生む。武術の技が幾ら上手でも、日常的な人間性の低俗な指導者もいる。日本人は「武芸」では無く「武道」を求めた。「文芸」では無く「芸道」を求めたのである。それぞれの「芸」の奥に「道」を求めて自らの人格の高みを目指したのである。更に蕃山の言葉に耳を傾けていきたい。

「歌道は我が国の独自の風俗だから、少しは心得がありたいものである。ただし、昔の歌人には根本に(自然の美を感じる事の出来る豊かな)心があって、その枝葉として歌を詠んでいた。根本とは学問の道の事である。学問の道に文武がある。文武にはそれぞれ徳と芸という本と末がある。文の徳は「仁」である。武の徳は「義」である。仁義という根本が立ってこそ弓馬書数礼楽詩歌(弓道・馬術・書道・算術・漢詩・和歌)の嗜みもあり、又、弓馬書数礼楽詩歌は又文武の徳を助けるものなのである。文武の道を能く心得て、武士を導き、民を愛撫して治め、その余力を以て月や花などの自然の美を鑑賞する際に野卑では無く、歌を詠む事が出来るなら、花も実もある好ましい人物となる事が出来るであろう。」

 現代では勉強も出来、スポーツも好成績を収める者を「文武両道」等と称しているが、人格形成と関係ない単なる知識だけの勉強は「文」でも何でもない。又、スポーツは上手くても品性の欠落した者は「武」を修めているなどとは全く言えないのである。蕃山が言う「本末」の別が解らなくなっているのだ。文(勉強)や武(スポーツ)を通して「徳」が磨かれて行く事、日本人としての高潔な品格を備える「本」が確立する教育こそが求められている。

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