「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

中江藤樹➈「自反慎独の工夫は心のすくみをとろかしすて、いかにもひろびろとして天地万物をいれてつかへざる本体を失はざる様に仕候が専一にて候。」

2020-08-07 17:18:53 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第十二回(令和2年8月7日)

中江藤樹に学ぶ⑨

自反慎独の工夫は心のすくみをとろかしすて、いかにもひろびろとして天地万物をいれてつかへざる本体を失はざる様に仕候が専一にて候。
                          (中江藤樹「佃叔に答ふ」)

 藤樹は、「自反慎独(じはん・しんどく)」という言葉で心法の工夫を語っている。「自反慎独」とは、全ての事を自分に反(かえ)り見て、独りを慎む事である。藤樹はこの手紙で、「自反慎独を実践する場合の工夫は、心に生じる固さや頑なさを溶解させて、いかにも広々として天地万物を容れてつかえる事の無い心の本体を失わない様にする事が肝要である。」と述べている。それが身に付けば『大学』で述べられている「心広体胖(心広く体ゆたか・心が広く身体がゆったりしている大人の姿)」に成る事が出来ると言う。

 「自反」とは、『孟子』公孫丑上篇に出て来る言葉で、有名な「自ら反(かえ)りみて縮(なお)くんば、千万人と雖もわれ往かん」の言葉にも使用されている。藤樹は「自反」の習慣が身に付けば「悪意の人に対しても、心が逆立つ気持ちは自ずと無くなってくる。」「孟子の自反の説は一服の清涼散(清涼剤)である。」と述べている。心を他者によって乱すのではなく、常に自らが心の主人公として確と掴んでいるから動揺しないのである。

 更に藤樹は、自反慎独の工夫について次の様に述べている。「独坐無事の時は心を惺々活発(「惺(せい)」は心が澄み切り静かな状態)にして、意念雑慮(「意」とは私意)の無き様に工夫する事を自反慎独と言う。是は即ち静坐の心法である。」「応事接物の時は、吾が心を省察して一念の微を慎んで違えざる様にする事が自反慎独である。」と。わずかな念さえも慎んで良知に違えない様にする事、心に生じる微かな思いに対処する修行が慎独なのである。藤樹は別の書簡で「総じて心の病は自欺に起こり、自らを欺くのは独りを慎まないからである。」と述べている。独りを慎む事の出来ない者は、自らに嘘をつく様になり、自らの本心を欺く様になる。その事が「心の病」を生み出す。この指摘は、現代に通じる至言である。

 藤樹は「戒懼慎独」と言う言葉も使っている。「戒懼」とは「戒めおそれる事」である。戒懼は常に心を惺々として寂然不動の体に帰す事である。慎独と言うのは、其の邪念が起きる時に直ぐ吟味して克ち去る事を言う。「戒懼は関所の門番、慎独は関所の役人の様なものだ。善念が起こる時、門番はそのまま通し、悪念が出入りする時は役人が吟味して悪を防ぎ善だけが通る様にする。」と譬えている。

 慎独の実践無くして心の学問は成り立たないのである。

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