「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武士道の言葉 その14 「会津武士道」その1

2014-08-02 23:20:19 | 【連載】武士道の言葉
会津武士道 その一 (『祖国と青年』平成25年7月号掲載)

人間にとって最も大切な事は「節義」を守る事である
死に至るといへども道を失はず節義を守るべし
(松平容頌『日新館童子訓』上)

 NHK大河ドラマで「八重の桜」が放映され、幕末を生きた会津武士の誇り高い真直ぐな姿が良く表現されている。久々に視聴率も良く、東日本大震災被災地の方々にも勇気を与えているようだ。福岡のK君によれば、NHKは当初は「徳川慶喜」を企画していたが、K君も含め全国から抗議の声が殺到して、白虎隊を生んだ会津藩に企画を変更したという。徳川慶喜は才智抜群の人物ではあったが、「頑な迄の真直ぐな道」=「節義」を貫いた会津藩主・松平容保の生き様の方が、日本人の心情には迫るものがある。

 会津藩では「節義を守る」事が藩士及びその家族にまで徹底されていた。会津藩では、第五代藩主松平容頌公の時に、藩独自の道徳教科書『日新館 童子訓』を作成して全ての藩士に配布し、家庭でその精神を育んでいた。

 童子訓の第三十四話で容頌公は「親には孝、兄弟には悌という事を始めとして、昔から正しいと教えられている事を実行し、たとえ死んでも節操を曲げたり、道に外れた事をしてはいけない。」と述べ、戦国末期に福岡の岩屋城を守り玉砕した高橋紹運の話を紹介している。

薩摩の島津義久の大軍に囲まれた紹運は、義久の投降勧告を拒否し、「家運の盛衰次第で、今日はこちら明日はあちらと志を変えるなどは武士の恥、節操のない奴よと、世間の人は爪はじきをするでありましょう。(略)人の命というものは、草の葉にむすぶ露の玉が、朝日の先に消えていくように、まことに儚いもの、世に残るのは人の命ではなくて義勇の名であると覚悟しているからには、岩屋城は決して降参しませんぞ」とその覚悟を述べている。

慶応四年、新政府軍に包囲されて城に籠った会津武士達の心には、高橋紹運の「節義」が思い起こされていたに相違ない。




戊辰戦争から六十年、今ここに会津藩の汚名が雪がれた
いくとせか峰にかかれるむらくものはれてうれしき光をぞ見る
(昭和三年 新島八重)

 平成三年五月、私は家族と共に初めて会津の地を訪れた。空気が澄み渡り、仰ぐ磐梯山がとても印象的だった。白虎隊が眠る飯盛山、昭和四十年に復元された鶴ヶ城、昭和六十一年に復元された藩校・日新館、西郷頼母邸などを回る中で、会津の人々の「魂の叫び」が幾度も聞こえて来た。それは、「会津は決して朝敵に非ず、会津藩こそが朝廷に忠義を貫いたのだ!」との悲痛な叫び声であった。

 幕末激動期、朝廷のある京都守護職の任に堪え得る親藩は会津藩しかなく、藩主松平容保は、朝廷と幕府に忠義を尽くす為に、その任を受けた。全国随一の教育制度を完成させ、文武両道が徹底され、数多の人材を有していたのが会津藩であった。だが、京都の治安維持に当れば当る程、討幕派の志士や対立した長州藩の恨みを買う事となった。

時代の激変の中で、幕府は政権担当能力を失墜し、公武合体の柱だった将軍家茂が急逝、更には松平容保公を最も信任されていた孝明天皇までもが突然崩御されたのである。鳥羽伏見の戦いの結果、朝廷に忠義を尽くしていたはずの会津藩が「朝敵」となり、新政府により征討軍が派遣され会津は一か月の籠城の後、落城した。維新の勝利の上に誕生した明治政府は「勝てば官軍」の「薩長史観」を公的な歴史として普及させた為、会津藩は「朝敵」の烙印を押されてしまったのである。

 わが国人にとって、「朝敵」とされる事程屈辱的なものは無い。明治以降、会津の人々はその汚名を晴らす為に、必死の努力を行って来た。その執念が、会津若松市の至る所に刻まれているのである。

その様な中で、戊辰戦争から六十年の昭和三年、会津の人々の狂喜する慶事が成就した。故松平容保公の四男恒雄氏の長女節子(勢津子)様が、昭和天皇の弟である秩父宮雍仁親王妃に決まったのだ。皇室が「朝敵」の子孫を妃に選ばれるはずがない、会津藩の名誉回復がここに成ったのである。当時、八十二歳の新島八重はその感激をこの歌に詠じた。

 だが、会津藩は「朝敵」だったとの誤解は、未だに根深く残っている。今回の「八重の桜」では、孝明天皇と松平容保との深い絆についてかなり力を込めて描かれていた。戊辰戦争から百四十五年、今漸く会津藩の汚名は雪がれつつある。



赤き誠心を歴史に留めて私は逝く
人生古より誰か死無からむ 丹心を留取して汗青を照さむ 
(文天祥「零丁洋を過ぐ」の最期の二段、白虎隊士達が自刃に際し合吟した)

 私は、会津藩の悲劇を偲びながら、その国難に殉じた生きざまは、沖縄戦に酷似していると思われて仕方がなかった。自らが愛する藩や祖国が滅ぼされんとする時、人々は同一の行動を取る。それが、長い間民族が育んできた文化だと思う。日本人は敵に降参するより徹底して戦い抜く、国に殉じる生き方を選択して来た。

 国難に際し、成人男子は言うまでもなく、少年や婦女子までもが、節義を貫く生き方を選択した。会津戦争での二本松少年隊や会津白虎隊・娘子隊、籠城時の婦女子の献身となって表われ、沖縄戦では鉄血勤皇隊やひめゆり部隊等で少年・少女達は戦い抜いた。会津藩では家老西郷頼母一族二十一人の自刃を始め殉難婦女子は二百三十八名に及んでいる。沖縄戦でも離島の渡嘉敷や座間味などで、追いつめられた住民達は自ら集団自決の道を選んだ(軍の命令では決して無い)。

 白虎隊出身で明治を代表する教育家である山川健次郎は、大正十五年に白虎隊墳墓を拡張した際、「白虎隊士と殉難節婦とは、戊辰当時の会津藩の双璧ともいふべきものにして、同じく教育の資料となるものなれば、特にこれを域内に建設す
ることゝせり。」と述べているが、白虎隊と殉難婦女子の精神は「節義を貫く」生き方として、多くの日本人の心に刻まれ、それが、沖縄戦の際に沖縄県民の生き方に再現されたのである。

 飯盛山で自刃した白虎隊士達は最後に、シナの南宋時代の愛国者・文天祥の漢詩「零丁洋を過ぐ」を合吟した。戦いに敗れ元に護送された文天祥は、最後まで節義を貫いて元に仕える事を拒み処刑された。その護送途上の詩である。「人生いかなる者でも必らず死を迎える。私の念願は赤い誠心を留めて、歴史に残したいものである。」という最後の二段の言葉は節義を貫かんとした白虎隊士の魂の叫びに通じるものだった。

 六月二十三日、「八重の桜」は「白虎隊出陣」と題し、会津を守る為に戦いを決意する八重の姿が描かれていた。その一方でテレビは、沖縄戦終結の日にちなみ戦争の悲惨さばかりを強調していた。会津の人々が藩の危機に立ち向かった姿は、大東亜戦争末期に米軍に立ち向かった沖縄県民の姿と同じではないのか。昭和の時代にも白虎隊は数多誕生したのである。



毎日毎日新生し、生長し続ける
苟に日に新たに、日日に新たに、又た日に新たなり
(大学)

 節義を重んじる会津武士道を生み出したものは、藩祖保科正之以来、脈々と受け継がれてきた精神の継承にある。それを可能にしたのが会津藩の「教育力」である。幕末激動期に政治の中心に登場して鎬を削ったのは、会津・長州・薩摩であった。その何れもが教育を重視し、数多の人材を輩出していた。教育力こそが国家の命運を齎すのである。

 会津藩では、寛文四年(1664)閏五月、会津藩教学の祖といわれる横田俊益が、庶民の為の学問所「稽古堂」を建てて、自らも諸学を講義した。二代藩主保科正経の延宝二年(1674)には藩校が建設され「講所」と名づけられた。だが、講所はいつしか廃れてしまった。三代藩主松平正容の元禄元年(1688)八月に「講所」の再興を命令、十二月には孔子像を安置した。翌年には武士以外の者の為に「町講所」を開設した。

教育が再興したのは、会津中興の祖といわれる第五代藩主松平容頌の時だった。天明七年(1787)家老田中玄宰は藩政改革に着手。玄宰は「保科正之の時代と比較し士民共に品格を失ってしまった事」を指摘し、藩士の子弟を文武両道において鍛えるために教育改革を重視した。新藩校建設の機運が生じ、豪商須田新九郎からの新藩校建設費用全額負担(最終的に三千両)の申し出もあり、享和三年(1803)に新藩校が完成した。敷地は約八千坪、建物も千五百坪ある堂々たる総合教育機関が誕生した。藩士は十歳になると日新館に通い、文武両道の稽古に励む事が義務づけられた。

 藩校は「日新館」と命名された。儒学の経典である大学や易経にある「苟に日に新たに、日日に新たに、又た日に新たなり」に基づく。意味は「今日の行いは昨日よりも新しく良くなり、明日の行いは今日よりも新しく良くなるように修養に心掛けねばならない」(諸橋轍次訳)というものである。無限の修養、無限の新生・生長を求めたものである。

松平容頌は『日新館童子訓』の最後の項で「日新の徳は孜々として怠らず終始一のごとくつとめ行ふにあり」と述べているが、自らの徳=人間性・人格は、日日の心の磨きが自ずと涵養するものである。その意味でも、会津武士道の根幹は日新館での日々の学問の積み重ねにあるといえよう。
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