第二十三番 光台寺 聖観音 盛岡市名須川町
光台寺は1573年、羽前国(現・山形県)光台寺の住僧故関大和尚が盛岡に移錫、創立した。第27代盛岡藩主南部利直公の妻源秀院殿墓所を建立し現在に至っている。御本尊の阿弥陀如来は盛岡市の重要文化財に指定されている。
聖観音は本堂内に安置されています。この観音様は、城下町であった頃、葺手町にあった浄土宗頓証山菩薩院(廃寺になった)に安置されていた観音様であったと伝えられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/16/22946c607f2334b92d018cf62e10b06f.jpg)
光台寺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/7f/2328023dcf03f5fb3b807f4b8e4509a3.jpg)
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聖観音様
ムカデ姫の墓
蒲生氏郷の叔父、小倉行隆には武姫(お武の方)という娘がいました。彼女は氏郷の養妹となっていたのですが、南部家27代利直のもとに蒲生家の家宝を持参して嫁ぐことになった。この宝物とは「大ムカデ退治」に使われた矢で、その大ムカデを討ち取った時の矢の根(鏃)を南部家に持参したのです。
ところが、お武の方が亡くなったとき、遺体の下の変色した形が、むかでのはいまわる姿に似ていたことから、 「お武の方が持ってきた、むかでを退治した矢の根石の怨念にちがいない」と人々は驚き恐れました。
この奇怪な出来事に利直公は、むかでは水を嫌うことから、堀をめぐらした土手の上に、 石垣でかこまれた墓を建立し、堀にかこまれた墓地に橋が架けました。ところが、 殿様の渡り初めを待つ夜に、不思議なことに一夜のうちにその橋が壊され、大騒ぎとなりました。 その後、何度橋を架けても、むかでが出て壊してしまいました。お武はいつしか、「ムカデ姫」と呼ばれるようになり、墓地を「むかで姫の墓」と呼ぶようになりました。 むかで姫の墓は、光台寺(こうだいじ)の境内にありますが、道路から直接行けるように整備されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/9f/b42a3ea7d90cf3be9b4091c75144ee45.jpg)
ムカデ姫の墓
光台寺は1573年、羽前国(現・山形県)光台寺の住僧故関大和尚が盛岡に移錫、創立した。第27代盛岡藩主南部利直公の妻源秀院殿墓所を建立し現在に至っている。御本尊の阿弥陀如来は盛岡市の重要文化財に指定されている。
聖観音は本堂内に安置されています。この観音様は、城下町であった頃、葺手町にあった浄土宗頓証山菩薩院(廃寺になった)に安置されていた観音様であったと伝えられている。
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光台寺
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聖観音様
ムカデ姫の墓
蒲生氏郷の叔父、小倉行隆には武姫(お武の方)という娘がいました。彼女は氏郷の養妹となっていたのですが、南部家27代利直のもとに蒲生家の家宝を持参して嫁ぐことになった。この宝物とは「大ムカデ退治」に使われた矢で、その大ムカデを討ち取った時の矢の根(鏃)を南部家に持参したのです。
ところが、お武の方が亡くなったとき、遺体の下の変色した形が、むかでのはいまわる姿に似ていたことから、 「お武の方が持ってきた、むかでを退治した矢の根石の怨念にちがいない」と人々は驚き恐れました。
この奇怪な出来事に利直公は、むかでは水を嫌うことから、堀をめぐらした土手の上に、 石垣でかこまれた墓を建立し、堀にかこまれた墓地に橋が架けました。ところが、 殿様の渡り初めを待つ夜に、不思議なことに一夜のうちにその橋が壊され、大騒ぎとなりました。 その後、何度橋を架けても、むかでが出て壊してしまいました。お武はいつしか、「ムカデ姫」と呼ばれるようになり、墓地を「むかで姫の墓」と呼ぶようになりました。 むかで姫の墓は、光台寺(こうだいじ)の境内にありますが、道路から直接行けるように整備されています。
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ムカデ姫の墓
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啄木の盛岡中学時代の歌
ふとさめし瞳とぢてぞ安かりし夢のゆくへの闇をおもひぬ
明星 明治35年12月号に3首(その1) 石川白蘋
啄木は明治35年10月に盛岡中学を退学しましたが、明治36年12月まで、ペンネーム「白蘋」で投稿しています
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啄木の盛岡中学時代の歌
ふとさめし瞳とぢてぞ安かりし夢のゆくへの闇をおもひぬ
明星 明治35年12月号に3首(その1) 石川白蘋
啄木は明治35年10月に盛岡中学を退学しましたが、明治36年12月まで、ペンネーム「白蘋」で投稿しています
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