歌人石川一の雅号・ペンネームは「翠江」、「麦洋子」、「白蘋」、「啄木」となっていますが、これらの雅号はいつごろ使ったのでしょうか。投稿雑誌・新聞、石川啄木全集(筑摩書房)等をみると、次のようになっています。
翠江(明治34年9月~明治35年1月1日)
翠江(すいこう)は啄木の盛岡中学時代の雅号で、盛岡中学4年の時に友人と回覧雑誌「爾伎多麻」(明治34年9月号)を編集し「秋草」の題で歌30首を発表している。その後、翠江の署名で岩手日報などで発表している。
「爾伎多麻」 明治34年 9月 翠江
岩手日報 明治34年12月3日 翠江
岩手毎日新聞 明治34年12月21日 翠江
岩手日報 明治35年 1月 1日 翠江
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啄木であい道の歌碑(盛岡)
この歌は、「爾伎多麻」の中の一首で、現存する啄木の作品中最も古い歌です。
麦洋子(明治34年12月31日~明治35年1月1日)
啄木は中学時代、麦羊子(ばくようじ)の雅号も使用したが、これは明治34年12月末から35年の正月にかけて書簡で用いただけのようです。
書簡 野村長一宛 明治34年12月31日 麦洋子
書簡 金田一京助宛 明治35年 1月 1日 麦洋子
この歌は、野村胡堂宛ての書簡(明治34年12月31日)、金田一京助宛の書簡(明治35年1月1日)の歌の中の一首です。
白蘋(明治35年3月~明治36年12月)
白蘋の署名では、明治35年に発行された「盛岡中学校校友会雑誌」に発表した歌が最初で、その後、雑誌「明星」に白蘋の署名で明治36年12月号まで投稿している。
盛岡中学校校友会雑誌 明治35年 3月号 白蘋
明星 明治35年10月号 白蘋
明星 明治36年12月号 白蘋
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啄木であい道の歌碑(盛岡)
血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋 石川白蘋(東京)
この歌は、啄木が盛岡中学を退学する前後に、はじめて中央雑誌「明星」(明治35年10月号)に掲載され、自信を持って?文学で身を立てようと上京した。明星にはその後、白蘋(はくひん)の署名で多くの作品を発表している。
明星の作品には署名の後に出身地が記入されており、次のようになっている。
明治35年10月号 石川白蘋(東京)
明治35年11月号 石川白蘋(盛岡)
明治35年12月号 石川白蘋(東京)
明治36年 7月号 石川白蘋(盛岡)
明治36年11月号 石川白蘋(陸中)
明治37年 3月号 石川啄木(岩手)
啄木が明星に初めて投稿した明治35年10月号の前述の歌は、出身地が東京になっている。啄木が盛岡中学を退学したのは、明治35年10月ですが、同じ月の明星の10月号にこの歌が掲載されている。明星の発行日は1日なので、この歌は、盛岡中学時代の盛岡からの投稿と思われますが、心はすでに盛岡を離れ東京にあり、出身地も東京になっている。
また、啄木は、明治36年2月に体調を崩し明治37年10月まで渋民に帰って来ておりますが、この間に明星に投稿した歌には出身地を、盛岡、陸中、岩手などを用いております。出身地の「渋民」を用いるのは嫌だったのでしょうかね。
啄木(明治36年12月~明治44年9月 )
啄木での署名は、「明星」明治36年12月号の長詩「愁調」があるが、短歌では岩手日報の明治37年1月10日が最初で、雑誌では、明星の37年3月号が最初のようです。
明星 明治36年12月号 啄木(長詩「愁調」)
岩手日報 明治37年 1月10日 啄木
明星 明治37年 3月号 啄木
明星 明治41年11月号 啄木
詩歌 明治44年9月号 啄木
血潮 明治44年9月号 啄木
啄木には妻せつ子との共著の歌があり、「明星」明治38年7月号に10首発表しており、その中の一首が次の歌です。
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啄木であい道の歌碑(盛岡)
啄木が数多くの短歌を発表した文芸雑誌「明星」は、明治34年4月に創刊され、100号目の明治41年11月号が終刊号になる。
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明星 第1号
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/ed/5b50cfcb339bcbcb783ef7ea082625a8.jpg)
明星 終刊号
啄木はこの終刊号に短歌52首を投稿しており、その中の1首に次の歌がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/c3/a18efb5d906a95650a34b62a65a7360c.jpg)
翠江(明治34年9月~明治35年1月1日)
翠江(すいこう)は啄木の盛岡中学時代の雅号で、盛岡中学4年の時に友人と回覧雑誌「爾伎多麻」(明治34年9月号)を編集し「秋草」の題で歌30首を発表している。その後、翠江の署名で岩手日報などで発表している。
「爾伎多麻」 明治34年 9月 翠江
岩手日報 明治34年12月3日 翠江
岩手毎日新聞 明治34年12月21日 翠江
岩手日報 明治35年 1月 1日 翠江
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/cf/b5a398814ae9f8a0696d63cab042b310.jpg)
啄木であい道の歌碑(盛岡)
花ひとつさけて流れてまたあひて白くなりたる夕ぐれの夢 石川翠江
この歌は、「爾伎多麻」の中の一首で、現存する啄木の作品中最も古い歌です。
麦洋子(明治34年12月31日~明治35年1月1日)
啄木は中学時代、麦羊子(ばくようじ)の雅号も使用したが、これは明治34年12月末から35年の正月にかけて書簡で用いただけのようです。
書簡 野村長一宛 明治34年12月31日 麦洋子
書簡 金田一京助宛 明治35年 1月 1日 麦洋子
争はむ人もあらずよ新春の春のうたげのかるたの小筐 石川麦羊子
この歌は、野村胡堂宛ての書簡(明治34年12月31日)、金田一京助宛の書簡(明治35年1月1日)の歌の中の一首です。
白蘋(明治35年3月~明治36年12月)
白蘋の署名では、明治35年に発行された「盛岡中学校校友会雑誌」に発表した歌が最初で、その後、雑誌「明星」に白蘋の署名で明治36年12月号まで投稿している。
盛岡中学校校友会雑誌 明治35年 3月号 白蘋
明星 明治35年10月号 白蘋
明星 明治36年12月号 白蘋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/9e/a5fd609f41d166d854fbf92e23ac5ba1.jpg)
啄木であい道の歌碑(盛岡)
血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋 石川白蘋(東京)
この歌は、啄木が盛岡中学を退学する前後に、はじめて中央雑誌「明星」(明治35年10月号)に掲載され、自信を持って?文学で身を立てようと上京した。明星にはその後、白蘋(はくひん)の署名で多くの作品を発表している。
明星の作品には署名の後に出身地が記入されており、次のようになっている。
明治35年10月号 石川白蘋(東京)
明治35年11月号 石川白蘋(盛岡)
明治35年12月号 石川白蘋(東京)
明治36年 7月号 石川白蘋(盛岡)
明治36年11月号 石川白蘋(陸中)
明治37年 3月号 石川啄木(岩手)
啄木が明星に初めて投稿した明治35年10月号の前述の歌は、出身地が東京になっている。啄木が盛岡中学を退学したのは、明治35年10月ですが、同じ月の明星の10月号にこの歌が掲載されている。明星の発行日は1日なので、この歌は、盛岡中学時代の盛岡からの投稿と思われますが、心はすでに盛岡を離れ東京にあり、出身地も東京になっている。
また、啄木は、明治36年2月に体調を崩し明治37年10月まで渋民に帰って来ておりますが、この間に明星に投稿した歌には出身地を、盛岡、陸中、岩手などを用いております。出身地の「渋民」を用いるのは嫌だったのでしょうかね。
啄木(明治36年12月~明治44年9月 )
啄木での署名は、「明星」明治36年12月号の長詩「愁調」があるが、短歌では岩手日報の明治37年1月10日が最初で、雑誌では、明星の37年3月号が最初のようです。
明星 明治36年12月号 啄木(長詩「愁調」)
岩手日報 明治37年 1月10日 啄木
明星 明治37年 3月号 啄木
明星 明治41年11月号 啄木
詩歌 明治44年9月号 啄木
血潮 明治44年9月号 啄木
啄木には妻せつ子との共著の歌があり、「明星」明治38年7月号に10首発表しており、その中の一首が次の歌です。
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啄木であい道の歌碑(盛岡)
中津川や月に河鹿の啼く夜なり涼風追ひぬ夢見る人と 啄木・せつ子
啄木が数多くの短歌を発表した文芸雑誌「明星」は、明治34年4月に創刊され、100号目の明治41年11月号が終刊号になる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/57/7b3128d29ec5367a96b20aed6121398b.jpg)
明星 第1号
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明星 終刊号
啄木はこの終刊号に短歌52首を投稿しており、その中の1首に次の歌がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/c3/a18efb5d906a95650a34b62a65a7360c.jpg)
港町とろろと鳴きて輪をゑがく鳶を圧せる潮曇りかな 啄木
この歌碑は、宮城県石巻市萩浜「羽山媛神社」境内にあり、2年前の2010年11月に石巻に行った時に撮影したものです。
啄木は新聞・雑誌に多くの短歌を発表してきたが、雑誌「詩歌」(明治44年9月号)に発表した17首、「血潮」(明治44年9月号)に発表した3首、が啄木の最後の公表作品になる。その中の1首が次の歌です。
ただ一人の
をとこの子なる我はかく育てり。
父母も悲しからむ。
石川啄木 (「 詩歌」明治44年9月号)
この歌碑は、宮城県石巻市萩浜「羽山媛神社」境内にあり、2年前の2010年11月に石巻に行った時に撮影したものです。
啄木は新聞・雑誌に多くの短歌を発表してきたが、雑誌「詩歌」(明治44年9月号)に発表した17首、「血潮」(明治44年9月号)に発表した3首、が啄木の最後の公表作品になる。その中の1首が次の歌です。
ただ一人の
をとこの子なる我はかく育てり。
父母も悲しからむ。
石川啄木 (「 詩歌」明治44年9月号)
晴れし日のかなしみのひとつー
病院の窓にもたれて
煙草を味ふ
石川啄木(「血潮」明治44年9月号)
病院の窓にもたれて
煙草を味ふ
石川啄木(「血潮」明治44年9月号)