たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

石川一(啄木)の雅号・ペンネーム

2012-03-24 | 啄木歌碑
歌人石川一の雅号・ペンネームは「翠江」、「麦洋子」、「白蘋」、「啄木」となっていますが、これらの雅号はいつごろ使ったのでしょうか。投稿雑誌・新聞、石川啄木全集(筑摩書房)等をみると、次のようになっています。

翠江(明治34年9月~明治35年1月1日) 

翠江(すいこう)は啄木の盛岡中学時代の雅号で、盛岡中学4年の時に友人と回覧雑誌「爾伎多麻」(明治34年9月号)を編集し「秋草」の題で歌30首を発表している。その後、翠江の署名で岩手日報などで発表している。

 
    「爾伎多麻」      明治34年 9月       翠江
    岩手日報       明治34年12月3日    翠江
    岩手毎日新聞    明治34年12月21日   翠江 
    岩手日報       明治35年 1月 1日   翠江





啄木であい道の歌碑(盛岡)



        
花ひとつさけて流れてまたあひて白くなりたる夕ぐれの夢   石川翠江



この歌は、「爾伎多麻」の中の一首で、現存する啄木の作品中最も古い歌です。


 
麦洋子(明治34年12月31日~明治35年1月1日)

啄木は中学時代、麦羊子(ばくようじ)の雅号も使用したが、これは明治34年12月末から35年の正月にかけて書簡で用いただけのようです。


      書簡   野村長一宛     明治34年12月31日    麦洋子
      書簡  金田一京助宛   明治35年 1月 1日    麦洋子



争はむ人もあらずよ新春の春のうたげのかるたの小筐   石川麦羊子
 

この歌は、野村胡堂宛ての書簡(明治34年12月31日)、金田一京助宛の書簡(明治35年1月1日)の歌の中の一首です。





白蘋(明治35年3月~明治36年12月) 

白蘋の署名では、明治35年に発行された「盛岡中学校校友会雑誌」に発表した歌が最初で、その後、雑誌「明星」に白蘋の署名で明治36年12月号まで投稿している。


    盛岡中学校校友会雑誌 明治35年  3月号    白蘋
    明星              明治35年10月号    白蘋
    明星             明治36年12月号    白蘋





啄木であい道の歌碑(盛岡)



血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋  石川白蘋(東京)



この歌は、啄木が盛岡中学を退学する前後に、はじめて中央雑誌「明星」(明治35年10月号)に掲載され、自信を持って?文学で身を立てようと上京した。明星にはその後、白蘋(はくひん)の署名で多くの作品を発表している。


明星の作品には署名の後に出身地が記入されており、次のようになっている。

           明治35年10月号 石川白蘋(東京)
           明治35年11月号 石川白蘋(盛岡)
           明治35年12月号 石川白蘋(東京)
           明治36年 7月号 石川白蘋(盛岡)
           明治36年11月号 石川白蘋(陸中)
           明治37年 3月号 石川啄木(岩手) 
 

啄木が明星に初めて投稿した明治35年10月号の前述の歌は、出身地が東京になっている。啄木が盛岡中学を退学したのは、明治35年10月ですが、同じ月の明星の10月号にこの歌が掲載されている。明星の発行日は1日なので、この歌は、盛岡中学時代の盛岡からの投稿と思われますが、心はすでに盛岡を離れ東京にあり、出身地も東京になっている。
また、啄木は、明治36年2月に体調を崩し明治37年10月まで渋民に帰って来ておりますが、この間に明星に投稿した歌には出身地を、盛岡、陸中、岩手などを用いております。出身地の「渋民」を用いるのは嫌だったのでしょうかね。




啄木(明治36年12月~明治44年9月 )

啄木での署名は、「明星」明治36年12月号の長詩「愁調」があるが、短歌では岩手日報の明治37年1月10日が最初で、雑誌では、明星の37年3月号が最初のようです。


 
    明星           明治36年12月号      啄木(長詩「愁調」)
    岩手日報       明治37年 1月10日    啄木
    明星          明治37年 3月号     啄木
    明星          明治41年11月号     啄木
    詩歌          明治44年9月号      啄木
     血潮          明治44年9月号      啄木



啄木には妻せつ子との共著の歌があり、「明星」明治38年7月号に10首発表しており、その中の一首が次の歌です。



啄木であい道の歌碑(盛岡)



中津川や月に河鹿の啼く夜なり涼風追ひぬ夢見る人と  啄木・せつ子



啄木が数多くの短歌を発表した文芸雑誌「明星」は、明治34年4月に創刊され、100号目の明治41年11月号が終刊号になる。



明星 第1号


明星 終刊号





啄木はこの終刊号に短歌52首を投稿しており、その中の1首に次の歌がある。







港町とろろと鳴きて輪をゑがく鳶を圧せる潮曇りかな  啄木



この歌碑は、宮城県石巻市萩浜「羽山媛神社」境内にあり、2年前の2010年11月に石巻に行った時に撮影したものです。


啄木は新聞・雑誌に多くの短歌を発表してきたが、雑誌「詩歌」(明治44年9月号)に発表した17首、「血潮」(明治44年9月号)に発表した3首、が啄木の最後の公表作品になる。その中の1首が次の歌です。



ただ一人の
をとこの子なる我はかく育てり。
父母も悲しからむ。

石川啄木 (「 詩歌」明治44年9月号)




晴れし日のかなしみのひとつー
病院の窓にもたれて
煙草を味ふ

石川啄木(「血潮」明治44年9月号)













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