たかしの啄木歌碑礼賛

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盛岡三十三観音(第十九番教淨寺)

2012-09-22 | ぶらり盛岡
第十九番 教浄寺  聖観世音   盛岡市北山一丁目
聖観世音は教浄寺の観音堂に安置されている。教浄寺は南部氏が居城を三戸から盛岡に移すのにあたり、慶長17年(1612)に現在の地、北山に移転されている。南部家第26代(初代盛岡南部藩主)南部信直公は、盛岡城を中心とした城下町の建設を始め。城から仰ぐ岩手山・早池峰山・姫神山の「南部三山」に大権現を勧請し、城の北に祖霊を祀る聖壽禅寺を建立し、京都にならって、北部丘陵を「北山」と呼んで領内の寺社を集め、聖寿寺、東禅寺、法泉寺、報恩寺、教浄寺を特に「盛岡五山」と定めました。



教淨寺山門




本堂



観音堂




宮澤賢治詩碑
賢治は盛岡中学(現盛岡第一高校)卒業後、盛岡高等農林(現岩手大学農学部)受験の為、大正4年1月~4月、教浄寺本堂の片隅で猛勉強の末、見事首席で入学し、特待生にまでなりました。観音堂の前に、賢治が教浄寺を詠んだ詩碑が建っている。






観音堂前の宮澤賢治「詩碑」






僧の妻面膨れたる 飯盛りし仏器さゝげくる。
雪やみて朝日は青く、 かうかうと僧は看経。
  寄進札そゞろに誦みて、 僧の妻庫裡にしりぞく。
  いまはとて異の銅鼓うち、晨光はみどりとかはる




文語詩   詩碑






時宗無量擁護山教浄寺は、宮澤賢治(1896ー1933)が、盛岡高等農林学校への受験勉強のため、大正4年(1915)1月から4月に入学するまで、本堂西脇の書院に下宿したゆかりの寺である。 詩碑の文語詩は、「文語詩稿 五十篇」のうちの一篇である。 賢治文語詩には、作品題名のないものが多い。したがって、この詩も冒頭詩句「僧の妻面膨れたる」をもって、題名代りによびならわしている。 作中の「僧」は、當山第53世住職の、又重琢眞和尚(1848ー1930)であり、「僧の妻」は陽夫人(1859ー1941)である。 作品は、寺における日常の「看経」(おつとめ)の様子が、朝の清澄さの中で、平静真摯な文体で描かれている。 「かうかうと僧は看経」とあるように、一心不乱な凛とした気迫が堂内に満ち、それを全身に浴び賢治の一日は始まっていたのであろう。 「僧の妻面膨れたる」も、おっとりとして豊頬な人となりが、「さゝげくる」から「しりぞく」に至る恭々しきかしずきの拳措に彷彿とする。 そうした本堂における「看経」のごとく、賢治の日々もくり返されていたにちがいないことがうかがえよう。 やがて、賢治の志望は貫徹され、
4月6日盛岡高等農林学校農学科第二部に、首席入学を果した。
平成9年6月8日
賢治碑建立有志の会 建之
吉見正信 撰文









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