一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

『長い読書』(島田潤一郎) ……本を読み続けることでなにを得られるのか……

2024年07月16日 | 読書・音楽・美術・その他芸術


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図書館の新着コーナーで見かけ、
タイトルに魅かれて手に取った、
島田潤一郎著『長い読書』(みすず書房/2024年4月16日刊)。


裏表紙にはこう記してあった。

「本を読みなさい。
ぼくのまわりに、そんなことをいう人はいなかった。」

小説を読みはじめた子ども時代、音楽に夢中でうまく本が読めなかった青年期から、本を作り、仕事と子育てのあいまに毎日の読書を続ける現在まで。
吉祥寺のひとり出版社「夏葉社」を創業し、文学をこよなく愛する著者が、これまで本と過ごした生活と、いくつかの忘れがたい瞬間について考え、描いた37篇のエッセイ。

本に対する憧れと、こころの疲れ。ようやく薄い文庫本が読めた喜び。小説家から学んだ、長篇を読むコツ。やるせない感情を励ました文体の力。仕事仲間の愛読書に感じた、こころの震え。子育て中に幾度も開いた、大切な本…。
本について語る、あるいは論じるだけではなく、読むひとの時間に寄り添い、振り返ってともに考える、無二の散文集。

「ぼくは学校の帰りや仕事の帰り、本屋や図書館で本を眺め、実際に本を買い、本を読んだあとの自分を想像することで、未来にたいするぼんやりとした広がりを得た。」



島田潤一郎という著者は知らなかった。
略歴を見ると、次のようにあった。

【島田潤一郎】
1976年高知県生まれ、東京育ち。日本大学商学部会計学科卒業。
アルバイトや派遣社員をしながら小説家を目指す。
2009年、出版社「夏葉社」をひとりで設立。
「何度も、読み返される本を。」という理念のもと、文学を中心とした出版活動を行う。
著書に、
『あしたから出版社』(ちくま文庫/2022年)、
『古くてあたらしい仕事』(新潮文庫/2024年)、
『90年代の若者たち』(岬書店/2019)、
『本屋さんしか行きたいとこがない』(岬書店/2020年)、
『父と子の絆』(アルテスパブリッシング/2020年)、
『電車のなかで本を読む』(青春出版社/2023年)、
がある。



著者にも興味があったし、
みすず書房の書籍には信頼性があったので、借りて読んでみることにした。
すると、これが抜群に面白かった。
著者の本に対する愛がひしひしと感じられ、
愚直に読み進む姿勢に感嘆した。

【目次】

■本を読むまで

本を読むまで
大きな書棚から
家に帰れば
『追憶のハイウェイ61』
バーンズ・コレクション
江古田の思い出
遠藤書店と大河堂書店
大学生
『風の歌を聴け』
本を読むコツ
文芸研究会
Iさん
すべての些細な事柄
「アリー、僕の身体を消さないでくれよ」
大学の教室で

■本と仕事

『言葉と物』
『なしくずしの死』
『ユリシーズ』がもたらすもの
沖縄の詩人
リフィ川、サハラ砂漠
遠くの友人たち
『魔の山』
H君
団地と雑誌
本づくりを商売にするということ
「ちいさこべえ」と「ちいさこべ」
アルバイトの秋くん

■本と家族

リーダブルということ
『アンネの日記』
『彼女は頭が悪いから』
子どもたちの世界
宿題
ピカピカの息子

そば屋さん
山の上の家のまわり
長い読書


まず、冒頭の「本を読むまで」に感心した。


本を読み続けることでなにを得られるのか。いちばんわかりやすいこたえは、本を読む体力を得られるということだろう。

この一文に惹きつけられた。
以前、このブログで、
NHKスペシャル「Last Days 坂本龍一 最期の日々」のレビューを書いたとき、私は、
……何を楽しむにも体力が必要……
とのサブタイトルを付し、

やっぱり自分にエネルギーがないときはね
音楽っていうのはなかなか聴けないですよね
音楽って熱量が高いものなので
受け止める体力がないと
なかなか受け止められないですよね


という坂本龍一の言葉を紹介した後、

音楽を愛した、音楽の専門家であっても、
自分にエネルギー、体力がないときには、
音楽を聴けないし、楽しめないというのだ。

これは音楽に限らず、様々なことに当てはまるのではないかと思った。
芸術には、作品そのものに大きなエネルギーが内包されているので、
それを受け止めるには、受け止める側にもエネルギーが必要とされる。
(中略)
今夏、70歳になる私が、今、気を付けていることは、
病気をしないことと、体力の維持だ。
趣味の登山もそうだが、
読書においても体力の必要性を強く感じている。
特に、最近は、名作と言われている長編小説を読んでいるので、特にそう感じる。
長い物語を読むには体力が必要なのだ。


と記した。(全文はコチラから)

「本を読むまで」では、
マラソンをはじめた友人のことを紹介した後、その友人の言葉を記す。

走るのはたのしい? とたずねると、友人は「いや、そんなにはたのしくない」という。ではなんで毎日走るの? と聞くと、「走るのを休んでしまうと、次の日がたいへんだから」とこたえる。一日休んでしまうと、それを取り返すのに倍の力が要る。そのひとのいう「倍の力」とは筋肉のことだけではなく、きっと「意思」のことも指しているのではないか。

そして、走ることと、本を読むことの共通点について論じる。

読書も同じで、本を読むのを一日休むと、続きを読むのがおっくうになる。あらすじを思い出すのに、その著者の論旨を思い出すのに、倍の時間がかかるからだ。休んでいる期間があまりに長いと、自分の記憶のなかから、その本の思い出がきれいそっくり無くなっているということもある。
だから、本を読むコツというのがあるとすれば、それは毎日続けることなのだ。眠くてしかたない日も、仕事が忙しい日も、こころが乱れている日も、すこしでいいから本を開く。それが頭のなかに入ってこなくても、共感できるところがすくなくても、一ページでも、二ページでも読んでおく。そうすると、本を読む体力がつく。



この冒頭に置かれた「本を読むまで」を読んで、
著者の人となりや本に対する姿勢を知ることができたし、著者を信頼することができた。
その後に続く文章も興味深く面白いものであることが想像できた。
事実、面白かったし、感動することができた。


最も美しかったのは、「すべての些細な事柄」という項の文章。


二コラ・フィリペールの『すべての些細な事柄』というドキュメンタリー映画を紹介した後、
人生におけるすべてのことは、
「些細な事柄」であり、語るに値しない小さな記憶なのであるが、
それがあるとき(人の会話のなかで、音楽を聴いているとき、小説を読んでいるときに)、
ふと思い出されることがある……とし、
次のような文章に続ける。

『失われた時を求めて』全一〇巻(ちくま文庫・井上究一郎訳)を読み終えたときの感動を、ぼくは生涯忘れることはないだろう。
この小説のなかには、ぼくが経験したすべての「些細な事柄」が描かれているようであり、それが五〇〇〇ページ以上にわたって途切れずに、連綿と続く。
紅茶に浸したマドレーヌからはじまる「スワンの家のほうへ」(第一篇)や、中盤の見せ場といえる「ソドムとゴモラ」(第四篇)もすばらしいが(I先輩もこの章が好きだといっていた)、ぼくは死んでしまった恋人アルベルチーヌにたいする思いが延々と続く「囚われの女」と「逃げさる女」(第五、六篇)がもっとも好きだ。
ここには、自分が経験し、感じ、想像したすべてのことを、どんな微細なこともひとつ残らず文章にして表現してみせる、というような作家の気魄がある。
文章は美しく、まるで呼吸をしているようで、たとえプルーストがこの世にいなくても、『失われた時を求めて』という書物があるかぎり、作家は永遠の命を保持しているかのようだ。

「人間の存在はただ瞬時の連続を一つにとりあつめたものからしかなりたたないというのは、存在にとってはなるほど大きな弱みである、しかしまた大きな強みでもある、それは存在が記憶に依存するという点なので、ある瞬間の記憶は、そのときからあとで何が起こったかについてはいっさい関知しないが、記憶が記録したその瞬間は、いまなお持続し、おまなお生きつづけるのであり、その瞬間に側面を見せていた存在は、その瞬間とともに持続し、生きつづけるのである。それからまた、存在のこの細分化は、死んだ女を生きつづけさせるばかりでなく、何人もの数にふやすのだ。私が自分でなぐさめをえるには、一人のアルベルチーヌではなくて、無数のアルベルチーヌを忘れなくてはならなかったであろう」(第九篇「逃げさる女」)

若いぼくは何度もため息をつきながら、『失われた時を求めて』を読んだ。
これ以上にすばらしいという小説をぼくはまだ読んだことがないし、これからもきっと、読まないだろう。




この他、「本を読むコツ」「Iさん」「『魔の山』」「『アンネの日記』」「長い読書」など、
何度も読み返したくなる文章が多く収められている。
久しぶりに好い本に巡り合ったと思った。


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