一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

ノースリーブと「現状維持」……TV番組の『プレバト!!』を観ながら考えたこと……

2019年12月22日 | その他

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ノースリーブと「現状維持」という、
なんとも奇妙な取り合わせのタイトルだが、
まずは、ノースリーブと女性の肩(腕)の魅力について語りたいと思う。

高校一年生の夏休みに、バルザックの『谷間のゆり』を読んだ。
(語り手である)青年貴族フェリックスと、
薄幸のモールソーフ伯爵夫人との悲恋を描いた小説で、
新潮文庫『谷間の百合』(石井晴一訳)
岩波文庫『谷間のゆり』(宮崎嶺雄訳)
角川文庫『谷間の百合』(河内清訳)
などの翻訳本があったが、
私は旺文社文庫の石川湧訳で読んだ。
装丁が気に入っていたし、(初期の頃は箱に入っていた)
文章が読みやすく、解説も充実していたからだ。
 

【あらすじ】
家族に疎まれて育った末っ子であるフェリックスは、
舞踏会で、
はるかに年上のモールソーフ伯爵夫人(アンリエート)に一目惚れをする。
アンリエットはプラトニックな関係を望み、
母性的愛情を持って接し、
彼に処世術を教えパリへ送り出す。
フェリックスはパリでダッドレー夫人(アラベル)と出会い、恋愛関係になる。
アンリエットはダッドレー夫人への嫉妬心で死んでしまう。

『クレーヴの奥方』(ラ・ファイェート夫人)や、
『ドミニック』(フロマンタン)などを持ち出すまでもなく、
“青年”と“年上の女性”の恋愛という、
フランスの恋愛小説の古典の典型ともいえる作品なのだが、
青年貴族フェリックスが、
モールソーフ伯爵夫人(アンリエート)と出逢うシーンで、
フェリックスがアンリエートに一目惚れするのが「肩」であったのだ。
「顔」でもなく、「胸」でもなく、「お尻」でもなく、
なぜ「肩」なのか、16歳の少年の私には、さっぱり分らなかった。
旺文社文庫『谷間のゆり』の石川湧訳では、
こう表現してある。

一人の婦人が、わたしの貧弱な体格を感ちがいして、母親の気のむくのを待ちくたびれて眠りかけている子供とでも思い、巣に舞いおりる親鳥のような仕ぐさで、わたしのそばに腰をおろした。たちまち、わたしは自分の魂のなかに輝いた女のにおいを感じた。ちょうど、その後、東方の詩美が輝いたように。わたしは隣に坐った女を見つめ、祝典に眩惑された以上にこの女に眩惑された。この女がわたしの全祝典になった。わたしの以前の生活をよく理解されたら、あなたはわたしの心のなかにわきおこった感情を察してくれるでしょう。わたしの目は、たちまち、丸やかな白い肩にひきつけられ、その上をころげまわりたい気がした。かすかにばら色をおびたその肩は、まるで初めてむきだしになったかのように、赤らむかのかと思われた。そのしとやかな肩は、魂を持っており、しゅすのような皮膚は、光を受けて絹織物のように輝いていた。その肩は一本の線によって分けられ、私の視線は、手よりも大胆に、その線にそって流れた。
(中略)
だれにも見られていないことを確かめたあとで、わたしはまるで母の乳房にとびつく小児のように、その背によりかかり、頭をくねらせながら肩一面に接吻した。

初対面の女性の肩に一目惚れし、
いきなり肩一面に接吻するとは、
現代では言い訳のできない性的犯罪行為なのだが、
なぜここまで“肩”に執着するのか、
人生経験の乏しい当時の私にはまったく理解できなかった。
女性“肩”(や“腕”)の魅力に気づいたのは、
ある程度(いろんな意味で)女性経験を積んだ大人になってからで、
今では、
〈「女性の魅力」をアピールする最大の“武器”なのではないか……〉
とまで考えている。


その“肩”や“腕”の魅力を最大限に引き出すのがノ―スリーブという服装であり、
ノースリーブは、
ポニーテールと同じくらい、
「女性の魅力」をアピールする必須アイテムなのではないかと考える。


ポニーテールの魅力については、かつて、
『あの頃、君を追いかけた』という台湾映画のレビューを書いたときに、
……大抵の男はポニーテールが好きなのだ……
とのサブタイトルを付けて論じた。(そのときのレビューはコチラから)
ノースリーブについても、
……大抵の男はノースリーブが好きなのだ……
とのサブタイトル付きで論じたいくらいなのだが、
「男性の8割以上はノースリーブが好き」
というアンケート結果を見たことがあるし、
いつの日か詳しく論じたいと思う。(コラコラ)
女性の“肩”や“腕”の魅力に気づいて、しばらく経った頃、
マックス・ジャコブの「地平線」(堀口大學訳)という詩を知った。

彼女の白い腕が
私の地平線のすべてでした。


という2行の詩は、
私に衝撃を与えた。
たった、これだけの言葉で、
女性のすべてを語っていると思った。
長編小説を読了したときのようなスケールを感じたし、
宇宙を知ったような気分になった。
ノースリーブの女性を見ると、
いつもマックス・ジャコブの「地平線」という詩を思い出す。


ここから、話は、
木曜日の夜(19:00~20:00)に放送されている『プレバト!!』(TBS系)というTV番組へ移る。
「才能査定ランキング」と称して、
芸能人・著名人が、さまざまな分野での才能を競う番組で、これまで、
俳句、生け花、盛り付け、絵手紙、水彩画、書道、消しゴムはんこ、料理、和紙ちぎり絵など、様々なジャンルで査定が行われている。
出来上がった作品を専門家が判定したうえで、
その内容によって、作者(挑戦者)を、
「才能アリ」、「凡人]」、「才能ナシ」というランクに分けるというもの。


司会は浜田雅功(ダウンタウン)で、
アシスタントは、これまで、枡田絵理奈、豊崎由里絵などが務めており、
現在は玉巻映美。


私は、豊崎由里絵の時代から観ているのだが、
この豊崎由里絵が、『プレバト!!』では、いつもノースリーブだったのだ。


私がこの番組を毎週楽しみにしているのは、
その内容もさることながら、
この豊崎アナのノースリーブ姿もあったような気がする(コラコラ)


豊崎由里絵からアシスタントを引き継いだ玉巻映美も、
豊崎アナほどではないが、ノースリーブ姿の比率が高いのが嬉しい。


『プレバト!!』のアシスタントに何故ノースリーブ姿が多いのか?
Wikipediaで調べたところ、
浜田雅功は、変更当初から黒系色の背広を着用し、
二代目アシスタント・豊崎由里絵が、
2015年4月から9月までは“紺色”の半袖かノースリーブのワンピース、
2015年10月放送分から2017年3月23日放送分までは、
“淡いピンク色”の半袖かノースリーブのワンピース姿で収録に臨んでいた。
(2017年4月以降は、収録のたびにアシスタントの衣装を変えている)
ちなみに、
初代アシスタントの枡田も、もっぱら白色のワンピースを着用していたという。


このように、
司会用の衣装と
アシスタント用の衣装を統一していたのには訳があって、
総合演出を担当する水野雅之氏(毎日放送)によれば、
いずれも当番組専用の衣装で、
視聴者に一瞬で番組を認知してもらう「認知効果」を見越しての工夫だったという。
いつも同じ服装にして「認知効果」を狙ったのは判ったが、
それが何故ノースリーブだったか……までは判らなかった。
考えてみるに、それは、やはり、総合演出を担当する水野雅之氏が、
無意識のうちにノースリーブの魅力にとり憑かれていたからではあるまいか?
いつだったか、『プレバト!!』に査定される側として出演していた光浦靖子が、
アシスタントである豊崎由里絵に対し、
「いつも腕を出してるんじゃねーよ!」
というような意味の暴言を吐いたことがある。
これは、「ノースリーブ姿は男性の気を引く」ということを踏まえた上での発言で、
ノースリーブは女性にとっては“武器”にもなるが、
ノースリーブが似合う女性とライバル関係にある女性にとっては“目障り”にもなるという意味で、
〈さすが勘の鋭い光浦靖子だ!〉
と感心したことであった。


『プレバト!!』を観ていて、
最近、“ノースリーブ”以上に気になるが、
「現状維持」という言葉だ。


先程、『プレバト!!』の内容として、
出来上がった作品を専門家が判定したうえで、
その内容によって、作者(挑戦者)を、
「才能アリ」、「凡人]」、「才能ナシ」というランクに分ける……
と書いたが、
「才能アリ」の中でも特に優れた作品を作った人を「特待生」に昇格させる。
そして、この「特待生」にも昇格試験もあって、
こちらには、
「1ランク昇格」「現状維持」「1ランク降格」などの査定が待っている。
この場合、評価されるのは「1ランク昇格」のみで、
「1ランク降格」はもちろんのこと、
「現状維持」も後ろ向きに捉えられている。
実際、「現状維持」と評価された特待生は、
一様にガッカリした表情を浮かべる。




「現状維持だったら降格で結構です」
という者までいる。(笑)


このように「現状維持」は、この番組ではネガティブに捉えられているのだ。
実際、ビジネス界では、
「現状維持では、後退するばかりである」(ウォルト・ディズニー)
「現状維持は後退の始まり」(松下幸之助)
と、否定的に捉えている人が多いし、
スポーツ界でも、
今年(2019年)の箱根駅伝で惜しくも5連覇を逃した青学の原監督が、
「現状維持は退化でしかない」
と発言していたように、
もはや「現状維持」は“反省の対象”にしかなっていない。
若い人にとっても、
「仮に現状維持の思考で現状維持できたとしても、周りはどんどん進化していくので相対的に見ると後退している」
ということになるのだろう。
「現状維持」は、不安の対象でありこそすれ、安心の根拠にはならないのである。


だが、60代半ばの私にとっては、いろんな意味で「現状維持」自体が難しくなっている。
とくに、体力面では、「現状維持」は目指すべき目標にさえなっている。
60歳を過ぎると、体力は極端に落ちてくる。
まだ、山岳会に所属していた52~53歳の頃、
65歳を過ぎた会員の男性に、
「60歳を過ぎると、やはり体力は落ちてきますか?」
と訊いたことがある。
その人は、

60歳になったときに「ガクッ」とくる。
65歳になると「ガクガクッ」とくる。

と笑いながら答えたのだが、
今、私には、それが実感として解る。
確かに、60歳のときに「ガクッ」ときて、
65歳の今、「ガクガクッ」ときているのだ。(笑)
この体力の低下は、普段、体を動かしている人にしか分らない。
普段、何もしていない人に訊いても、
「体力の低下は感じられない」
と答える人が多い。
なぜなら、何もしていないから(比較するものがないので)感じられないのだ。
たとえば、ある山に休憩を取らずに一気に2時間で登ることができた人がいるとする。
だが、ある年齢から一気に登ることができなくなり、
歩行時間も、2時間半、3時間とかかるようになってくる。
否が応でも体力低下を実感させられるのだ。
なので、体力が低下してくれば、なんとか現状を維持しようと努力する。
今の私が、そういう状態なので、
もはや「昇格」は望めず、「現状維持」のために、日々努力しているのである。
だが、普段、運動をしない人は、
体力低下が感じられず、ある日突然、体が動かなくなっていることに気づき愕然とする。
90歳で亡くなった私の母親が、70代後半くらいからであったろうか、
「何故こうなってしもうたかね~」(なぜ、こんなになってしまったのかね~)
と何度も呟いていたのを思い出す。

定年退職後や、遅くに山登りを始めた人で、
「いやいや、私は日々進化していますよ」
と言う人もいるが、
その人たちは、そもそもスタートの基準値が低いので、進化しているように見えるだけで、
進化している訳ではない。
ある程度の年齢になれば、それは自ずと解る。
永遠に進化し続けることはできないし、
やがて「現状維持」がやっとになり、
その後、後退が始まり、
最後には、体が動かなくなる。
そう考えると、
「現状維持」がいかに大変なものかが判るし、
難しいものかも判る。
年老いた者にとって、「現状維持」が後退だなんてとんでもないことで、
物凄い努力なくして「現状維持」はないのである。


65歳を過ぎると、
体調の良い日と悪い日がはっきり分れるようになり、
体調の悪い日が段々と増えていく。
腰が痛かったり、膝が痛かったり、首が痛かったり、
日々、体のどこかが痛んでいる。
昔、お年寄りたちが、
「体の節々が痛い」
と言っていたが、
それを実感しているのが今現在だ。
まだ日常生活に支障をきたすような段階ではなく、
周囲の人々からは、
「○○さんはいつも元気ですね~」
と言われているし、
表面的には元気に見えているようで、
私自身も深刻には考えていない。
ただ、“体調の悪い日”は、
〈なぜそうなったのか?〉
と原因を考え、
ストレッチや山歩きなどで改善するようにしている。
だから、“体調の悪い日”は、“自分の体へ危険を知らせるシグナル”と捉え、
ポジティブに対処している。
65歳を過ぎると、
体調の良い日ばかりではよくないのだ。
体調の悪い日があってこそ、
人生の大事なものに気づかせてくれるのだし、
慢心にならずに日々努力することを悟らせてくれるのだ。

毎週木曜日、
TV番組の『プレバト!!』を観ながら、私は、こうして、
玉巻映美さんのノースリーブ姿を見て、
女性の肩や腕の魅力を再認識し、
「現状維持」という言葉に、
自分のこれからの生き方を考察しているのである。(ホンマかいな)

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