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快気分析

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仕組みとアプローチ -   高台院と小早川秀秋 そして土岐一族になりきれなかった秀吉

2019-01-29 00:30:09 | 明智光秀
 以前の記事で書いた通り浅野長政の浅野氏が土岐氏の庶流であり、土岐一族だったわけですが、実は「広義には土岐一族」と見ても良い人物が秀吉の近くには更に2人います。
 1人は秀吉の正室である高台院、もう一人はあの関ヶ原で東軍に突然(?)与した小早川秀秋です。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%B0%E9%99%A2

高台院(こうだいいん、生年は諸説あり[注釈 1] - 寛永元年9月6日(1624年10月17日))は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。

引用終了

 浅野氏が遠くではあっても土岐一族の庶流であり、そこへ養女として入ったのが後の高台院、そして小早川秀秋はその甥にあたるわけで、関ヶ原の戦いで小早川秀秋が東軍に突然与した(寝返ったとする見方も多い)かは、この関ヶ原の戦いが「土岐一族と非土岐一族の戦い」と言う観点で見て良いのであれば当然の動きであり、何も寝返りと言う程に意外性の有るものではない事は明らかと考えています。
 秀吉と高台院(ねね、北政所)との間には嫡男が出来ませんでした。
 なので秀吉の死後、広義には土岐一族である高台院は豊臣一族や豊臣氏に与したグループとは離れて行き、浅野長政と共に土岐一族とその縁戚者達のグループ(例えば徳川秀忠の正室である西郷局が土岐一族)に組み込まれて行ったと見て良いように思えます。
 秀吉を始めとする豊臣氏は高台院(ねね、北政所)に嫡男が生まれず、土岐一族になりきれなかったのでした。