10月10日の記事の続きです。
公家の一部、毛利氏、イエズス会、茶人には共通点が有ると筆者は見ています。
それは「石見銀山の利権か、或いはそれに関連した密貿易に少なからず関連している」、と言う事です。
最初に「朝廷の御料所としての石見銀山」に関連したデータです。
引用開始 3件(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%96%99%E6%89%80
御料所
御料所(ごりょうしょ)は、天皇(皇室)及び幕府などのいわゆる「公儀」と称される公権力が直接支配した土地(直轄地)である。料所(りょうしょ)・料(りょう)・御料(ごりょう)・料地(りょうち)・御料地(ごりょうち)等とも呼ばれる。家臣に与えられた所領(知行地)に対する概念でもある。
(中略)
中世戦国期における毛利氏の場合、石見銀山を名目上“禁裏御料”とすること(もちろん朝廷への経済的援助を伴う。上杉氏と毛利氏は、戦国期の皇室援助の2大功労者である。)で、時の政権(豊臣氏)の干渉を免れていた様である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%A6%8B%E9%8A%80%E5%B1%B1
石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めたとされる[1]。
(中略)
銀山争奪
1537年(天文6年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が石見小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。大内義隆の死後は、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、1556年(弘治2年)忍原崩れ、1559年(永禄2年)降露坂の戦い、1561年(永禄4年)~1562年(永禄5年)の雲芸和議をへて最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた[9]。同年12月には石見銀山を朝廷の御料所として献呈する。その後、1584年(天正12年)に毛利氏が豊臣秀吉に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた[10]。 1591年(天正19年)、毛利輝元は豊臣秀吉の命により石見銀山を始めとする領国の銀山を治めるため林就長および柳沢元政を奉行に任命した。1597年(慶長2年)には輝元より秀吉に銀3000枚(129貫、約480キログラム)が、関ヶ原の戦い直後の1600年(慶長5年)の割当では毛利家と徳川家の折半となり各々銀13000枚づつが、それぞれ運上されている[11][12]。
商業への影響
石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。このため、製錬された灰吹銀はソーマ銀と呼ばれ、そのまま日本産銀の銘柄のひとつとして商取引に利用され、またこの灰吹銀を譲葉状に打ち伸ばし加工された石州丁銀およびその後の徳川幕府による慶長丁銀は基本通貨として広く国内(主に西日本、東日本の高額貨幣は金)で流通したばかりでなく、明(中国)、16世紀以降に来航するようになったポルトガル、オランダなどとの間の交易で銀が持ち出された。特に明は大口の商取引、兵士への給与などのため広く秤量銀貨が使用され、その経済規模の為に銀需要は大きかった[13]。また、私貿易を禁止する明の海禁政策にもかかわらず、日明間の密貿易が活発となった。当時の日本の銀産出量は世界全体の三分の一(その生産量の平均は年間200トン程度、内石見銀山が38トン(10000貫)程度であったと推測されている[11])に達し、スペイン王国ペルー副王領ポトシ(現ボリビア)のセロ・リコと並ぶ銀産出地として西洋でも有名になった
(中略)
その殷賑ぶりは、当時のポルトラーノ地図にも記載されている。スペイン国王はイスラム圏から入手した地図を大量に持っており、自らも地図を作成した。銀山を手中にした大名家(大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣氏、徳川氏)の利益は大きく銀10000貫は米に換算すれば100万石を下らない収入となる。なお、イギリス船やオランダ船は日本で産出される銀を「ソモSomo」あるいは「ソーマSoma」と呼んでいたといわれるが、これは銀鉱のある大森地区の旧名である「佐摩」に由来するとされる[15]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1#.E6.9C.9D.E5.BB.B7.E3.83.BB.E5.B9.95.E5.BA.9C.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82
毛利元就
朝廷・幕府との関係
毛利氏は小豪族ではあったが、朝廷との結びつきが強い大内氏と同盟関係にあったことから、元就が当主となる以前から既に中央との政治的な繋がりを持っていたようである。大内氏の滅亡後、1557年に即位した正親町天皇に即位料・御服費用として総額二千五十九貫四百文を進献し[22]、その即位式を実現させたことにより、以後の毛利氏は更に中央との繋がりを強くすることとなる(同時期の元就の陸奥守就任、隆元の安芸守護就任などは全てこれら中央政界に対する工作が背景にある。また、これら政治工作の資金源となったのが石見銀山である)。
また、その後の尼子氏や大友氏との戦いでは、幕府の仲裁を利用して有利に事を進めている。尼子氏との戦いでは石見銀山を巡って激戦を繰り広げるが、幕府による和平調停を利用して有利な形で和睦。尼子氏が石見銀山に手を出せない状況を作り出して、その支配権を得た(雲芸和議)[23]。また、大友氏との戦いでも幕府は毛利氏に和平を命じているが、これに対して元就は一時黙殺し、状況が有利になってからそれに応じるという機転を見せた[24][25]。
引用終了
毛利氏は元就が当主となる以前から既に朝廷との政治的な強い繋がりを持っていた上、石見銀山を朝廷の御料所として差出し、それによって毛利氏の地位を高くしていた点が重要です。
最盛期には100万石相当の利益という点を忘れてはいけません。
この石見銀山を信長は光秀を使って奪い取ろうと言うのが、光秀への命令だったようですが、果たして信長は朝廷の御料所としての石見銀山をどのように財産配置しようとしていたのでしょうか?
従来の毛利氏の位置付け通り、朝廷の御料所として同じ利益分割を考えていたのか?それとも信長の取り分が多くなるように考えていたのか?
信長とて朝廷を無視はできないので、天皇とその近い親族、公家には従来通りの豊かさを保障しようとした可能性は有るのかも知れませんが、少なくとも言えるのは「天皇と血縁の遠い、或いは全く無い公家、特に毛利氏と関係の深い公家には従来通りの豊かさを保障する事はどう見ても考えられなかった」と言う事かと筆者は見ています。
本能寺の変の前日に公家と茶人を招いて茶会を開いた時、石見銀山の利権に関連する危機感が有ったこのグループの公家、そして石見銀山に直接間接で関連する商人と繋がりも深い茶人の内の誰か一人でも、斉藤利三にホンモノの信長がほぼ無防備で本能寺に宿泊している、と情報提供すれば、既に切腹命令、実質死刑宣告されていた斉藤利三が必然的に本能寺で変を起こす、と言う事になったのではないでしょうか。
そして仮に斉藤利三が信長を討ち損じても、情報提供程度なら疑われる事も無い、と言う位、信長の方も大勢に情報開示してしまっていたのかも知れません。
本能寺の変は地震の発生と同様、多くの要素の合算で発生したのかも知れません。
公家の一部、毛利氏、イエズス会、茶人には共通点が有ると筆者は見ています。
それは「石見銀山の利権か、或いはそれに関連した密貿易に少なからず関連している」、と言う事です。
最初に「朝廷の御料所としての石見銀山」に関連したデータです。
引用開始 3件(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%96%99%E6%89%80
御料所
御料所(ごりょうしょ)は、天皇(皇室)及び幕府などのいわゆる「公儀」と称される公権力が直接支配した土地(直轄地)である。料所(りょうしょ)・料(りょう)・御料(ごりょう)・料地(りょうち)・御料地(ごりょうち)等とも呼ばれる。家臣に与えられた所領(知行地)に対する概念でもある。
(中略)
中世戦国期における毛利氏の場合、石見銀山を名目上“禁裏御料”とすること(もちろん朝廷への経済的援助を伴う。上杉氏と毛利氏は、戦国期の皇室援助の2大功労者である。)で、時の政権(豊臣氏)の干渉を免れていた様である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%A6%8B%E9%8A%80%E5%B1%B1
石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めたとされる[1]。
(中略)
銀山争奪
1537年(天文6年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が石見小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。大内義隆の死後は、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、1556年(弘治2年)忍原崩れ、1559年(永禄2年)降露坂の戦い、1561年(永禄4年)~1562年(永禄5年)の雲芸和議をへて最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた[9]。同年12月には石見銀山を朝廷の御料所として献呈する。その後、1584年(天正12年)に毛利氏が豊臣秀吉に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた[10]。 1591年(天正19年)、毛利輝元は豊臣秀吉の命により石見銀山を始めとする領国の銀山を治めるため林就長および柳沢元政を奉行に任命した。1597年(慶長2年)には輝元より秀吉に銀3000枚(129貫、約480キログラム)が、関ヶ原の戦い直後の1600年(慶長5年)の割当では毛利家と徳川家の折半となり各々銀13000枚づつが、それぞれ運上されている[11][12]。
商業への影響
石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。このため、製錬された灰吹銀はソーマ銀と呼ばれ、そのまま日本産銀の銘柄のひとつとして商取引に利用され、またこの灰吹銀を譲葉状に打ち伸ばし加工された石州丁銀およびその後の徳川幕府による慶長丁銀は基本通貨として広く国内(主に西日本、東日本の高額貨幣は金)で流通したばかりでなく、明(中国)、16世紀以降に来航するようになったポルトガル、オランダなどとの間の交易で銀が持ち出された。特に明は大口の商取引、兵士への給与などのため広く秤量銀貨が使用され、その経済規模の為に銀需要は大きかった[13]。また、私貿易を禁止する明の海禁政策にもかかわらず、日明間の密貿易が活発となった。当時の日本の銀産出量は世界全体の三分の一(その生産量の平均は年間200トン程度、内石見銀山が38トン(10000貫)程度であったと推測されている[11])に達し、スペイン王国ペルー副王領ポトシ(現ボリビア)のセロ・リコと並ぶ銀産出地として西洋でも有名になった
(中略)
その殷賑ぶりは、当時のポルトラーノ地図にも記載されている。スペイン国王はイスラム圏から入手した地図を大量に持っており、自らも地図を作成した。銀山を手中にした大名家(大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣氏、徳川氏)の利益は大きく銀10000貫は米に換算すれば100万石を下らない収入となる。なお、イギリス船やオランダ船は日本で産出される銀を「ソモSomo」あるいは「ソーマSoma」と呼んでいたといわれるが、これは銀鉱のある大森地区の旧名である「佐摩」に由来するとされる[15]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1#.E6.9C.9D.E5.BB.B7.E3.83.BB.E5.B9.95.E5.BA.9C.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82
毛利元就
朝廷・幕府との関係
毛利氏は小豪族ではあったが、朝廷との結びつきが強い大内氏と同盟関係にあったことから、元就が当主となる以前から既に中央との政治的な繋がりを持っていたようである。大内氏の滅亡後、1557年に即位した正親町天皇に即位料・御服費用として総額二千五十九貫四百文を進献し[22]、その即位式を実現させたことにより、以後の毛利氏は更に中央との繋がりを強くすることとなる(同時期の元就の陸奥守就任、隆元の安芸守護就任などは全てこれら中央政界に対する工作が背景にある。また、これら政治工作の資金源となったのが石見銀山である)。
また、その後の尼子氏や大友氏との戦いでは、幕府の仲裁を利用して有利に事を進めている。尼子氏との戦いでは石見銀山を巡って激戦を繰り広げるが、幕府による和平調停を利用して有利な形で和睦。尼子氏が石見銀山に手を出せない状況を作り出して、その支配権を得た(雲芸和議)[23]。また、大友氏との戦いでも幕府は毛利氏に和平を命じているが、これに対して元就は一時黙殺し、状況が有利になってからそれに応じるという機転を見せた[24][25]。
引用終了
毛利氏は元就が当主となる以前から既に朝廷との政治的な強い繋がりを持っていた上、石見銀山を朝廷の御料所として差出し、それによって毛利氏の地位を高くしていた点が重要です。
最盛期には100万石相当の利益という点を忘れてはいけません。
この石見銀山を信長は光秀を使って奪い取ろうと言うのが、光秀への命令だったようですが、果たして信長は朝廷の御料所としての石見銀山をどのように財産配置しようとしていたのでしょうか?
従来の毛利氏の位置付け通り、朝廷の御料所として同じ利益分割を考えていたのか?それとも信長の取り分が多くなるように考えていたのか?
信長とて朝廷を無視はできないので、天皇とその近い親族、公家には従来通りの豊かさを保障しようとした可能性は有るのかも知れませんが、少なくとも言えるのは「天皇と血縁の遠い、或いは全く無い公家、特に毛利氏と関係の深い公家には従来通りの豊かさを保障する事はどう見ても考えられなかった」と言う事かと筆者は見ています。
本能寺の変の前日に公家と茶人を招いて茶会を開いた時、石見銀山の利権に関連する危機感が有ったこのグループの公家、そして石見銀山に直接間接で関連する商人と繋がりも深い茶人の内の誰か一人でも、斉藤利三にホンモノの信長がほぼ無防備で本能寺に宿泊している、と情報提供すれば、既に切腹命令、実質死刑宣告されていた斉藤利三が必然的に本能寺で変を起こす、と言う事になったのではないでしょうか。
そして仮に斉藤利三が信長を討ち損じても、情報提供程度なら疑われる事も無い、と言う位、信長の方も大勢に情報開示してしまっていたのかも知れません。
本能寺の変は地震の発生と同様、多くの要素の合算で発生したのかも知れません。