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快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  天下分け目の戦いは「関ヶ原の戦い」と言うよりも「浅井畷の戦い」と言う考え方

2020-12-18 12:49:10 | 明智光秀
 前回記事の続きです。
 一般には「関ヶ原の戦い」が天下分け目の戦いとされていますが、これについては別の見方をするのも良いと思っています。
 それは「浅井畷の戦い」こそが東軍勝利の大きな要因となった天下分け目の戦いだとする考え方によるものです。
 西軍に属する丹羽長重の軍勢と東軍に属する前田利長の軍勢が衝突したこの戦いはかろうじて前田利長勢の勝利となりました。
 仮にこの戦いで前田勢が敗北していたらどうなったか?
 それはキリシタン武将の代表格である高山右近が西軍に加勢すると言う事になるわけで、だとすると京極高次もまた西軍に加勢する可能性が高かったと思えます。
 すると小西行長、高山右近、京極高次(洗礼前だったが実質キリシタン武将)のキリシタン武将3人が全て西軍側として戦うわけで、これでは東軍はイエズス会を味方にはできず火薬などの調達が十分にできなかった事にならないでしょうか。
 更に京極高次が西軍側として戦うと、戦上手な立花宗茂が大津城で足止めされる事もなく京極高次らと関ヶ原の戦いに加わる事となります。
 家康でさえもが恐れたが故に関ヶ原の戦いの後に再度大きな石高の領主に返り咲いた立花宗茂です。
 関ヶ原の戦いに西軍として加わっていたら東軍はどうなっていたでしょうか。
 家康は明智光秀がキリシタン武将の離反防止を徹底できずに大敗した教訓を十分に生かして西軍に勝利した面も大きいと見ています。
 

仕組みとアプローチ -  関ヶ原の戦いでは高山右近と京極高次が東軍

2020-12-16 20:58:58 | 明智光秀
 関ヶ原の戦いでは京極高次が重要な役割となって東軍勝利の鍵の一つとなったわけですが、キリシタン武将の中核とも言える高山右近もまた東軍でした。
 当時の高山右近は東軍の前田利長の家臣としてキリスト教を棄教せずにいたわけで、だとすると洗礼を受けてはいないとしても実質はキリシタン武将だった京極高次と合わせて東軍はキリシタンの有力武将を2人も抱えていた事になります。
 では西軍はどうだったかと言うと、キリシタン武将である小西行長がその中心の一人だったわけです。
 イエズス会としてはキリシタン武将が敵味方に分かれてしまうのは仕方ないとしても、犠牲者が出るのは避けたかったのかも知れませんが、結果として関ヶ原の戦いの後、小西行長はキリシタンである為に切腹はできず斬首となりました。
 キリシタン武将の中核である高山右近を離反させないようにする事に失敗し、山崎の戦いで大敗した明智光秀の前例をよくわかっていたからこそ、家康はキリシタンの有力武将達を一人でも多く東軍に引き入れていたように思われます。
 何と言っても当時において殆どの火薬の輸入と販売はイエズス会に依存していた商人らが握っていたのですから。

仕組みとアプローチ -  秀吉が没するのを待って家康が行った事

2020-12-16 12:33:25 | 明智光秀
 秀吉は1598年9月の病没します。
 目の上の瘤が無くなった家康ですが、未だ秀吉に親しかった有力武将は多くが健在であり、すぐに天下を取ると言うわけには行きませんでした。
 ただ秀吉がいなくなった事で可能になった事がいくつかありましたが、まだ前田利家が健在であり、徳川家康と前田利家の間で対立が深まります。
 その後、1599年4月に前田利家が病没すると、石田三成らの文治派と加藤清正・福島正則らを中心とする武断派の対立が顕著となりますが、これが家康による分断工作だったのかどうか、と言う点については様々な見方が有るかと思います。
 家康が対立を煽ったのか、それともたまたま自然に発生した対立を利用して家康が更にそれを煽ったのか、と言うのははっきりとはわからない所ですが、少なくとも言えるのは加藤清正と小西行長の仲が悪かった事は以前に記事の中で引用した通りです。
 朝鮮出兵の時に小西行長が加藤清正の居所を敵方に教えたと言う件で、もう加藤清正は小西行長の事など鼻から信用していません。
 それと秀吉が天下統一をほぼ成し遂げた後でろくに戦闘も経験せずに出世した石田三成らを武闘派の武将達は我慢できなかったのかと思います。
 こうした対立が深まって行った時に、家康が抜け目なく行った事が有りました。
 それはイエズス会への接近です。
 秀吉が既にバテレン追放令を発した後だったので、秀吉が存命中は家康がイエズス会に接近する事ができなかったわけですが、秀吉が没するや否やイエズス会の配下であるキリシタン武将に接近したようです。
 それが顕著にわかるのは京極高次の動きです。
 元々両親がキリシタンだったのですが、父の京極高吉が洗礼を受けて間もなく突然死去した為に京極高次は洗礼を受けるのを先延ばししてたと言うのが通説です。
 そして関ヶ原の戦いでは京極高次が大津城に籠城して立花宗茂らの軍勢をこの城周辺に釘付けにしていた為に関ヶ原の戦いでは強豪の立花宗茂らの軍勢がおらず、家康らの東軍が即日決着と言う大勝となりました。
 その京極高次はと言うと、

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E6%AC%A1

イエズス会の「一六〇一年度日本年報」には、高次および正室の初が受洗したとの記事がある[5]。1601年10月から1603年2月までの出来事を報告した「一六〇二年度日本年報」には「本年、我らの大いなる喜びとともに、京極マリア Qeogocu Maria の息子、若狭の殿である宰相殿 Saixodono がキリシタンになった。この日本のキリスト教界は、長年なかったあの平和を保っているので、あの(若狭)国でも、また彼の兄弟でキリシタンでもある修理殿 Xuridono の領する丹後でも、大きなキリスト教界が作られ、神の法が大いに宣べられるように」と高次の受洗を弟・高知の様子とともに明記している[6]。

家康は慶長7年(1602)9月ルソン総督宛朱印状で、外国人が外国の法(キリスト教のこと)を持ち込むことを禁止したが[7]、国内向けにも貴人の入信禁止を断言した。しかし同時期に家康は宣教師を介在させる必要のあるルソン貿易に取り組んでいたため、貴人の入信禁止令は厳格に守られなかった[6]。

京極家の改宗は公にはされていなかったようで、「一六〇三年度日本年報」には、「都の近くに、京極マリア Qiogocudono Mariaの人の息子がいる。各々一国を有し、彼らと彼らの奥方も洗礼を受けているが、公方様(徳川家康)を怒らせるのではないかという不安のためにそのことをあえて公表していない」とある[8]。

引用終了

 と言うわけで家康は暗黙に京極高次の洗礼を容認する代わりに、関ヶ原の戦いでは東軍に入る、と言う事でイエズス会と約束ができていたのだと考えられます。
 これは山崎の戦いと似た構造なのではないでしょうか。
 山崎の戦いでは明智光秀が高山右近を怪しいとも考えていてもあれだけ露骨に急襲して来ると思っていなかった為、これが決め手になって明智勢が即日大敗。
 関ヶ原の戦いではキリシタン武将である京極高次が東軍について重要な役割をこなしたからこそ西軍が即日大敗、となりました。
 

仕組みとアプローチ -  信長が主張した三島暦 これをイエズス会はどう見ていたのか

2020-12-15 08:18:38 | 明智光秀
 信長が三島暦を主張した事については朝廷、特に陰陽頭の賀茂在昌らを中心とする公家衆が良く思っていなかった事については以前の記事にある通りです。
 それではイエズス会はどうだったのでしょうか。
 考えてみるとイエズス会はローマカトリックの組織。
 そして本能寺の変が有った1582年にはそれまでのユリウス暦を改良してグレゴリオ暦と名をつけ、暦をも使って支配を強化しようとしていた時なのでした。
 では三島暦のように京暦よりも優れたものが出て来てしまうとどうなるか。
 やはりグレゴリオ暦を支配の道具として使う方針だったイエズス会には「三島暦は邪魔な存在」だったのではないでしょうか。
 もしかすると、信長はイエズス会がグレゴリオ暦を使って世界支配をする動きを事前に察知して、先手を打って三島暦を主張したのかも知れません。「三島暦を大陸進出のツールにする」、とかを考えていた可能性も有ります。
 この三島暦が仮に国内のみならず海外にまで普及してしまうとどうなるか、ですがおそらくイエズス会がキリスト教を使って各国を支配するのに障害となってしまう可能性すら有ったはずです。
 こうした点でも朝廷からだけでなく、イエズス会からも「信長は消えて欲しい」と思われていた可能性は少なくなかったのかも知れません。
 つまり本能寺の変が起きる直前は毛利氏、上杉氏、長曾我部氏、雑賀衆や伊賀衆の残党、滅亡した武田側の残党、なども含めれば信長の織田勢と敵対する勢力だらけだった事になります。

仕組みとアプローチ -  長篠の戦いでは前田利家でも危なかった

2020-12-12 08:20:20 | 明智光秀
 秀吉の五大老として家康に匹敵する力が有った前田利家ですが、長篠の戦いでは危機一髪だったようです。

引用開始(一部抜粋)

前田利家
(中略)
長篠の合戦では撤退する武田軍を追撃している際に、弓削左衛門なる者に右足を深く切り込まれる重傷を負い、危うく命を獲られそうになった所を家臣の村井長頼に助けられ一命を得た。

引用終了

 結構、危なかったのですね。
 前田利家が生きていた間は家康が思うように動けなかった位に力が有ったようなので、仮に長篠の戦いで戦死していたらその後の日本の歴史もかなり変わっていたかも知れません。
 それから家臣の村井長頼なる人物は特に有名な武人として知られているわけではないのですが、次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E9%95%B7%E9%A0%BC

村井長頼
(中略)
永禄2年(1559年)から永禄4年(1561年)にかけて利久の弟の前田利家が織田家から追放されていた時に長頼も従い、永禄12年(1569年)に織田信長の命により利久に代わって弟の利家が前田家を継ぐと、それに従って利家の家臣となった。
以後、常に戦場でも共にあり幾度もその盾となって救っており、利家からは通称である又左衛門から「又」の字を拝領するほど信頼され、石山本願寺攻め、金ヶ森城攻め、長篠の戦いなどで数多くの軍功をあげる。

引用終了

 もしかすると実践向きの戦闘技術においては前田利家よりも能力が高かったのかも知れません。
 名将の影に主君を超える能力を持った家臣有り、と言うケースも少なくなかったと思われます。
 幸運にも有能な部下を持てた人はその能力を活用さえできれば大成功するケースは多い、と言うのは古今を問はず同じなのでしょう。