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快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  明智光秀が(名目上であっても)勝竜寺城を軍事拠点にした理由

2020-12-29 17:59:12 | 明智光秀
 前回記事の続きです。
 あんな立地の勝竜寺城を何で名目上では有っても明智勢の軍事拠点にしたのか? となるとわかって来る事が有ります。
 それは玉(細川ガラシャ)が細川忠興に輿入れしたのが勝竜寺城だった事が有るのではないでしょうか。
 そしてもう一つは筒井順慶の所領に近いのが大山崎だった事。
 つまりは明智光秀は自分から離反した細川氏や筒井氏への牽制、或いはそれを超えた恨みの証として名目上であっても敢えて軍事拠点とし、仮に明智光秀が敗死した事になったとしても「明智光秀から離反した親族達への責任追及材料を敢えて残してやる」と言う確固たる意思がどうも見え隠れしているように見えるのは私だけでしょうか。

仕組みとアプローチ -  愚将ではなかったはずの明智光秀 そして勝龍寺城

2020-12-29 17:29:10 | 明智光秀
 サブタイトルの通りで決して愚将ではなかったはずの明智光秀ですが、何故か山崎の戦いでは勝龍寺城を名目上ではあるものの軍事拠点にします。
 「大山崎の隘路を秀吉の軍勢が通り抜けた所を明智勢が迎撃すると効果的だから」、と言う見方も有るようですが、この考え方には疑問です。
 「そんな事位は秀吉勢もわかるはずなのでそう簡単に罠には落ちないはず」、と言う事位は明智光秀も分かっていたはずではないでしょうか。
 通常ならば明智勢は山(つまり山崎の戦いならば天王山)を背負った陣(つまり茨木城や高槻城やそれに近い位置の陣)を張って、いざ退却となればその山や隘路で退却戦やゲリラ戦をするのが普通なのですが、何故か茨木城や高槻城を明智方の前線基地にしようとした形跡を記す資料が有りません。
 仮に明智光秀が秀吉勢を迎撃するのを考えていたならば、茨木城や高槻城を前線基地として陣取り、退却戦に持ち込んで天王山での迎撃か山崎の隘路に秀吉勢を誘き寄せてから叩き潰す、と言う事を考えたはずだと思えます。
 どうも高山右近と中川清秀が茨木城や高槻城を明智方の前線基地するのを受け入れなかったような感じがしています。
 そして追い詰められた明智光秀は平地の勝龍寺城を拠点にした事はあくまで「見せ玉」に過ぎず、秀吉勢をそこへ誘き寄せておきながらの別の手口や駆け引きを考え、激しい戦闘や退却戦などは天王山や山崎街などから京都へのルート周辺で行われていた、と言う感じもしています。
 いずれにしてもあのような立地の勝龍寺城を明智光秀が’(名目ではなく)実際の軍事拠点にするなどと言うは有り得ない話ではないでしょうか。

  

仕組みとアプローチ -  メルショル(賀茂在昌の息子)を暗殺したのは誰か

2020-12-28 08:28:33 | 明智光秀
 本能寺の変当時、キリシタンでありながら陰陽頭であった賀茂在昌ですが、息子は暗殺されたようです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%9C%A8%E6%98%8C

賀茂在昌
(中略)
在昌は信心の印として、11歳の息子メルショル(Melchior)を「神の奉仕に捧げる」すなわち修道士とする決意をした[28][29][33]。メルショルは在昌の帰洛後も九州に留まり、天正8年(1580年)にイルマン(修道助祭)に叙階されたが、天正13年(1585年)にはイエズス会を退会し、その3~4ヵ月後に天草で何者かによって暗殺された[34][注 10]。
(中略)
没後
在昌の帰洛によって、勘解由小路家の相続問題は一旦は解消したと思われたが、江戸時代初期、在昌の息子と思われる勘解由小路在信[6]の代に至って消息不明となり、賀茂氏勘解由小路家は完全に断絶した。在信に関する記録としては、在昌の記録が途絶えるのと前後して慶長3年(1598年)3月から『御湯殿上日記』に記述がみられ、慶長10年(1605年)10月11日、「勘解由小路修理大夫在信」という人物が堺にいるという『慶長日件録』の記述が最後である[5][6]。

在信の記録が消えた時期と入れ替わるかのように、賀茂氏庶流[注 14]で奈良を拠点とする幸徳井家が勘解由小路家に代わって暦道の家柄として台頭し、元和4年(1618年)には幸徳井友景[注 15]が同家では初の陰陽頭に任ぜられた[46]。

在昌と、その息子に当たると思われる勘解由小路在信については不明な点が多く、在昌の父・在富の代で賀茂氏勘解由小路家は実質絶家したものと見なされることが多い[47]。

引用終了

 メルショルがキリシタンのまま暗殺されたのではなく、イエズス会を退会して間もなく暗殺された、と言う事は反キリシタン勢力による暗殺ではないと言う事になるのでしょうか?
 そして1585年には賀茂在昌も既にキリスト教を棄教していたのか?となるのですが、実際にどうだったのかについては未だ調べ切れていません。

 

仕組みとアプローチ -  中川清秀には信長を討つ要素がまだ有ったと考える理由

2020-12-20 09:01:48 | 明智光秀
 先日に書いた記事の続きになります。
 考えて見ると中川清秀には信長を討つ要素がまだ有ったように思えるのですが、それはあまり難しい話では有りません。
 何の事はない。荒木村重は本能寺の変の当時未だ生きていて毛利氏へ亡命し、尾道で匿われていたと言う説が有力です。
 仮に信長の織田軍が毛利討伐に進軍して来るとどうなるか。当然ですが、荒木村重は織田軍に捕まり、そして信長により尋問を受ける事になります。
 「なぜ謀反を起こしたのか?」と信長は必ず聞くでしょう。
 そしておそらく荒木村重は「実は釈明に信長様の所へ伺おうかと迷ったのですが、中川清秀から『信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする』と聞いたので、もう自分には残された選択肢は乱を起こすしかない、と判断したのです」と言うのではないでしょうか。
 更に「石山本願寺への兵糧横流の件は中川清秀かその家来が勝手の行った事であって、自分は全く知らない内に行われていた」とも釈明するでしょう。
 そうなるとおそらく処刑を免れないのは中川清秀となります。
 なので明智光秀らよりも、個人的に崖っぷちだったのは中川清秀だったのではないか、考えていますが実際にはどうだったのでしょう。
 そしてそんな中川清秀と1580年に内誓紙を作っていた秀吉もまた毛利氏との癒着疑惑も含めてやはり崖っぷちだったのではないか、とも考えられます。

仕組みとアプローチ -  中川清秀が信長を討つ要素は十分に有ったと思う理由

2020-12-19 09:31:27 | 明智光秀
 信長が落命した本能寺の変ですが、信長襲撃をする要素が多かった一人に高山右近がいた事は以前記事にしました。
 仮に高山右近が信長襲撃を実行したとしたらの話ですが、だとすると理論上では中川清秀は高山右近と近縁なので同じく襲撃に参加したはず、となります。
 ただ中川清秀には高山右近との関係とは別に信長を討つ要素が有った、と思っています。
 それは荒木村重が信長に謀反を起こした理由が、「荒木村重の家臣だった中川清秀が、 密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていたため」とする説が多いのがポイントです。
 信長はこの乱を鎮める為に高槻城の高山友照・右近父子らを説得して帰服させ、更に茨木城の中川清秀も説得に応じて帰服した為、荒木村重は孤立して逃亡となりました。
 この史実からだと、普通は「信長は中川清秀の兵糧横流しを許した」と思ってしまいがちです。
 しかし個人的な見方に過ぎませんが、「中川清秀は自分の事を実は信長が疑い続けていて後になって必ず討ちにかかる」と恐れていた、と考えています。
 何故かと言うと、その一つは長篠の戦いで織田・徳川勢としておそらく作戦を練る上で重要な役割を担った水野信元の事を長篠の戦いの翌年である1576年に、信長が水野信元が武田方に内通したとの疑惑で家康の家臣を使って暗殺している事が挙げられます。
 その事を仮に中川清秀が知っていればですが、おそらく「毛利攻めまでは信長は中川清秀を生かしておいて、その後の何かの理由をつけて暗殺するのではないか?」と恐れていた可能性は高いと思われます。
 「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」と中川清秀から進言された荒木村重が謀反を決意した、と言う説は有名です。
 何しろ中川清秀その人自身がそう言っているのですから「自分もやがて討たれるかもしれない」、と考えていたと言うのは可能性としてそう低くはなかったと思っています。