“ママノリア日記

ママノリアの独り言

もう一人の自分の言葉

2010年03月08日 | アリノママノリアの日々
ここの坂をチャリでゆっくり駆け抜けていくのがたまらなく好き。

そして、下った後に待ってる川で、いつも作詞をするのが僕の日課であり仕事である。


どんな言葉が今日は待ってるんだろう?

昔、辻仁成の本で彼は孤独でなければ詩を書けないと言っていたが、僕もそのタイプ。全てをシャットアウトして、ただ流れる川と対面した時にもう一人の純粋な自分が言葉をくれる。

普段の自分に興味がなくて、それが寂しくもあり、自分の誇りでもあったりして。

たまにはギターも持って行く。

音が言葉を運んでくるのだ。

でもそうすると綺麗な歌ばかりができてしまうから、最近はわけるように心がけている。美しい歌は美しいけど普段美しく生きてるかな。なんて考える。


何かを残そうとか、良い言葉を探したり、変な欲が出てくるとたちまち言葉はどっかに消えていく。
シャボン玉みたい。良い言霊はいつまでも残って空へ飛んで行く。

それが妄想でも想像でも事実でも関係ない。そこにピュアな自分がいることがアーティスティックだ。ピュアな自分は汚れた言葉でも透き通るのだ。単純な美しさではない。


でも普段の自分がいるから生きていけるのだろう。

最近は窮屈でしょうがない。この窮屈感は刑務所の塀の中で空を見てるような、子供服を無理やり着させられてるような。

この窮屈感さえ人は自分で脱ぎ去らなければならない。

いつだって壁は自分が作って自分が壊していくもの。

だとすれば壁など本当はないのだ。
そこにたどり着いたときにようやくもう一つの空と新しい洋服が待っている。

自由なんてものは不自由の中にいつだってあるのである。


言葉でわかっても心で掴めなければいつでも不自由なのだ。

ジャジーに生きたい。今の自分の小さな願いだ。