気がつけば思い出Ⅱ

日々の忙しさの中でフッと気がついた時はもう
そのまま流れていってしまう思い出!
それを一瞬でも残せたらと...。

英連邦横浜戦死者墓地へ行ってみました。

2021年05月11日 | 日記

 

この頃お使いがてら時々行くようになったこども植物園には児童遊園地が隣接していますが、

さらに隣接する場所があります。それは【英連邦横浜戦死者墓地】です。

何でも英国では戦死者の遺体は現地で埋葬するという原則があるらしく、

その墓地に眠っているのは英連邦(イギリスとその植民地の国)の日本で亡くなった戦没者だそうです。

横浜で外人墓地として有名なのは港が見える丘公園にある【山手外人墓地】ですが、そこは観光地にもなっています。

私も何回か行きました。

でもこの【英連邦横浜戦死者墓地】は自宅から歩いてでも行ける所なのに、

しかも横浜に住むようになってもうじき50年になるというのに、一度も入ったことがありませんでした。

1975年にはエリザベス女王が、1995年には故ダイアナ妃が、2015年にはウィリアム王子が訪れています。

 

郷里も一緒で子育て(学校も野球チーム)も一緒だった近くに住む友人と道でぱったり会い(コロナ禍なので近くでもあまり会わない)

彼女も子供が幼い時一度しか行ったことがないので、あそこなら全く密ではないし・・・行ってみようかということになり、

昨日、その友人と二人して行ってきました。

  

 緑に包まれ、ひっそりとした入口

 入るとすぐこの光景でした。二人とも「わぁ~」としか言葉が出ませんでした。見出し写真

一つ、一つのお墓にバラの花が咲いていました。

 木陰の先に鳥が居る(拡大→)

 少し登ったところからの風景。
イギリス区、オーストラリア区、カナダ区、ニュージーランド区、インド・パキスタン区の5区に分けられています。

 さらに歩き階段を登って行くと、また真ん中に十字架のあるお墓がありました。

緑と静寂に包まれた異国の地で眠る御霊(1873柱あるそうです。)

異国に眠る戦士達、さぞ無念だったことでしょう。しかも母国に帰れないなんて・・・。

墓石には和訳すると、

「決してあなたのことを忘れない」「平和の休息」「最愛の息子よ」「安らかに」「あなたはいつも私たちの心の中にいます」

などの家族からのメッセージが刻まれています。

黙祷です。

その風景とともに心が浄化されたような気分になりました。

友人と二人「なぜ今まで来なかったのか…」とため息だけの時間でした。

それにしても約8ヘクタールあるという広大な敷地なのに、雑草もなく、塵はもちろん落ち葉すらなく、隅々まで美しい。

帰りの道すがら、「また来ようね…」「それにしても綺麗だった…どんだけお掃除しているのでしょう」と、

その清掃、管理に感嘆する主婦に戻った友人と私でした。

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はじめての俳句🖊9~フリージア

2021年05月10日 | 喜代の俳句

切りたてのフリージアあるお仏壇

季語:フリージア(春)

【フリージア】南アフリカ原産のアヤメ科の多年草の花。細い葉の間から茎が伸び花を連ねる。

花色は黄・白・紫など。切り花として好まれ、高い芳香をはなつ。※歳時記

作品の背景:お仏壇に庭から切ってきたフリージアを飾ったところ、お仏壇がまるでお線香のように香った。

提出した句:フリージャの香りも載せてお仏壇

先生の添削:「フリージア」と「お仏壇」の組み合わせが意外でいいですね。季語は「フリージア」と記すのが一般的のようです。

また、上五が上六となっているのが少し気になります。そこで添削例では、作品の背景にお書き下さった「切ってきた」を活かしました。

【切りたてのフリージアあるお仏壇】

フリージアは香りも含めて私の一番好きな花です。特に黄色、花言葉は「無邪気」。

今年は沢山咲き、何回も仏壇に飾ることができました。

5月は義母の亡くなった月で、母の日もあります。

義母が亡くなったのは5月1日(平成10年西暦1998年)68歳でした。

もう20年以上経ち、昔と言っていいくらいの時が過ぎました。

でも亡くなった日はとても忘れられない一日になっています。

  ここからは自分の記憶のためにもと書いたので、少し長いです。もしお時間がありましたらで・・・

義母は4月27日ころから始まった体調不良(おもに吐き気)がなかなか収まらず、GWが明けたらお医者さんに行くと言っていました。

しかし29日になっても吐き気が治まらず(救急車は嫌だと言うので)

30日に、夫と私で少し前に義母が帯状疱疹で入院した病院で見て下さるというのでその病院に連れて行きました。

義母はその4年前ほどからリウマチを患い、ほとんど家事もできず歩行も困難になっていました。

リウマチの痛さに、帯状疱疹の痛さが重なって、病気前は50キロ以上あった体重が38キロほどになっていました。

その日は、即入院となったけれど、いろいろと検査し「食欲が戻ったら退院できるでしょう」という担当医の話なので、夫と私は帰りました。

帰りがげに義母が「夕餉の支度が出来なくなってごめん、これでコロッケでも買って…」とお財布を私に預けました。

それが私と義母の最期の会話になろうとはその時は露程にも思いませんでした。

 

よく日5月1日、私は千葉の友人と会うために横浜駅近くのデパートで12時の待ち合わせ予定でした。

病院から「お義母さんの様態が急変しているのですぐ来て下さい」と連絡があったのは11時ごろ、さあ出かけようとした時でした。

夫も息子達もおらず義父は気力、体力が落ちていて行くのは無理なのは見てわかるし、

約束した友人に電話をしたけれど家を出た後なのか連絡がつかず(当時は携帯も持っていない)仕方ないのでそのまま病院へ向かいました。
(結局友人は待ち合わせ場所に来てしまい、私の自宅に電話して事情が分かりそのまま千葉に帰ったのでした。

病院に着くと義母は個室に移されており、私がその病室に着くと「今、血圧が50です。上がれば良いのですが…」と言って看護師さんは出て行ってしまいました。

その時義母は大きないびき状態で、血圧も上がる気配もなく、私は一人ではどうしようもないと思い担当医のところへ状況を聞きに行きました。

すると今夜を通り越せばと…まだみんなを呼ぶような事態ではないような返事でした。

でもどう見ても義母の様子はおかしい・・・やはり一人では耐えられないと・・

「すみません、私は嫁です。血のつながりのある人達を呼んでもいいですか?」と訴えてしまいました。

変な訴えでしたがなんとか了解を得て夫に連絡し、夫の弟妹、義母の妹夫婦にそして息子達にも連絡をしてもらいました。

3時間ほど経ったころに、皆次々と駆け付けて来てきましたが、最後になった義弟が来たころにはもう心臓マッサージを施していました。

そして6時、結局誰とも会話せず、末子の到着を待っていたように、義母は息を引き取りました。

急性腎不全でした。痛め止め薬などの副作用で稀にあるそうです。その(まれ)になってしまったのです。

  

私が夫と結婚したのは24歳、その時義母は44歳でした。

若いうえに、横浜生まれの横浜育ち、生粋のハマッ子で、埼玉の田舎で育った私は、自分とのギャップに圧倒されていました。

よく笑い、よく泣く、喜怒哀楽のはっきりしていた義母。

「実母と一緒に暮らしたのは18年、お義母さんとは倍の付き合いになるでしょう」と言った私に、

「私を80歳で殺さないでよ!」と返した義母がそんな早く亡くなるとは思いませんでした。

しかも10歳も年上の義父を残して!

    

当時18歳だった義母が、イケメンだったお義父さんをゲットする際に、下駄の鼻緒をわざと切って目の前でこけてみたという…。

それをすげ替えてあげてまんまとゲットされてしまったお義父さんとの結婚のいきさつを聞きました。

まるで面白いドラマのようです。

今ならヒール👠を折るのでしょうか?何やってんだか?と通り過ぎられたりして・・・。

若いのに嫁にしてしまったからとお裁縫やお料理を習うようにと、お義父さんがあげたお小遣いを、

「あの時は観たわ、観たわ!洋画!(カサブランカ)なんか良かった!」と言って映画鑑賞に使ってしまったという義母。

20歳になった次の月に夫の母になった、今でいうヤンママだった義母、先妻のお子さんですか?とよく言われたと笑っていた。

フリージアの花言葉【無邪気】が似合いそうな人でした・・・。

今日の仏花(アスター紫)です。

花言葉:恋の勝利、私の愛はあなたの愛より深い、信じる恋・・・これもお義母さんに似合いそうです。

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母さんへ~電話ができないから手紙を書くね(^.^)/✉20

2021年05月05日 | 母への手紙

ゆすら梅の実 ※ヤユヨさん/写真AC

母さん、もう5月です。(もうって…先月も同じようなことを言いましたね。)

そして5月と言えば母の日ですね。

母さんは「大変だから要らないよ。気持ちだけでいいよ。」っていつも言っていたので、

私は真に受けて、母さんに余りプレゼントしませんでした。🙇

息子達はそう言っても何か贈ってくれます。偉いなと思います。

から母の日のプレゼントは何欲しい?とメールがありました。

そこで「いいよ気を遣わないで」と言おうと思ったのだけれど、甘んじて「山桜桃(ゆすら梅)の木が欲しいって」返事しました。

通っていた会社の近くのお宅にあったその木を見るたびに、「実家にあったなぁ、あんなのが欲しいな」っていつも思っていました。

退職してから(コロナ禍のせいもあるかもしれませんが)ほとんど出かけることもなく、

服もバックも装飾品も要らないので…カーネーションの代わりにゆすら梅なんて…いいと思うのだけれど、どうでしょうか?

仕事のない今なら、時間も取れて世話もできるのではないかと思います。

実のなる木を一度は育ててみたかったのです。花も桜や梅に似ていてとても綺麗です。

ユスラウメのことを漢字で【山桜桃梅】と書いたものもありました。

桜、桃、梅・・・なんて贅沢な名前ですね。

ゆすら梅の花 ※ぷぅさん/写真AC

        

2月に始めた俳句は少しずつですが、続けています。

【遅き日のつもりて遠き昔かな与謝蕪村

※日の暮れの遅い春の日は、こんな日も…こんな日も過ぎて行ったと・・・自然と思いは過去に向う。

蕪村が60歳の時詠ったとされる有名な句で、もしかしたら教科書で習ったかもしれません?

4月25日放送のNHK俳句でこの句を聞きました。

その日のお題は(遅日)(日永):季語は春

この句、今の私の心境にピッタリです。流石に蕪村様です。

私のブログタイトル「気がつけば思い出」にも似た響きを感じます。

いろんな日があったけれども過ぎて行きました…みんな思い出となって。

コロナ籠りに加え、日照時間が長くなり、出歩けないことは少し辛いかなと感じています。

何処かへ行きたい…特にちゃんに会いたい…友達にも会いたい。

本当は退職したら、ずっと会えなかった人にも会いに行こうと思っていました。

でもそんな意欲ややる気も、こう長くなってくると、だんだん失せてくるようです。

そんな動けない長い時間があるので、この句のように遠い昔を思い出すことが多くなったのでしょう。

(歳のせいもあるかもしれませんが

この季語(遅日)や(日永)なのですが、一年で一番昼の長い日は夏至なので【夏】なのかと思いきや【春】なのですね。

また(日永)の逆は(短夜)だと思うのですが、この(短夜)は【夏】です。難しいですねぇ…母さん。

去年の6月にブログに載せた母さんの(短夜)をお題にした句があります。

【短夜の明けずに欲しき母の夢】伊代 

これも詠み人を私(喜代)にしてもいいくらいに、自分に重なって、ちょっぴり涙ぐんでしまうのですが…

蕪村の句もそうですが、時代や年代にかかわらず同じような情景や気持ちを持つ人にすっと入ることができるのが、

五七五の短い言葉で表現する俳句のいいところで、早い話(自分流の解釈でいい)ということでしょうか?

こちらも余り意気込まないで、木を育て実がなるのを楽しみにするのと同じように楽しくやっていこうと思っています。母さん。

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幟をお題にした母の句〜初幟(のぼり)

2021年05月01日 | 伊代の俳句

蒼天の風賜るや初幟(のぼり)

真っ青な空のなか 天から吹いているような風を受けて 初のぼり(鯉のぼり)が泳いでいる

季語:初幟(夏)

幟(のぼり)江戸時代には、定紋や鐘馗(しょうき)の絵を染め抜いた幟を兜・長刀・吹流しなどとともに家の前に立てた。
古くは紙製であったが、これが小さくなって座敷幟となっていった。
武家の幟に対して、町人は、滝をも登るとする鯉を出世の象徴として鯉幟をたて、男子の成長を祈った。
これもはじめは紙製であり、五色の吹流しとともに立てる。※俳句歳時記

初幟となっているので、多分この句は弟の息子(甥)の初節句の時に立てた鯉のぼりを詠った句だと思う。

実家は田舎なので、庭に設置され、見上げるような鯉のぼりだった。

少子化のせいもあるのだろうけれど、このごろ鯉のぼりをあげる家も少なくなってきた。

マンションの多いこの辺ではベランダ鯉のぼりをチラホラと見かけるけれど、実家に立てられていたような鯉のぼりはほとんど見かけない。

見出し画像は我が家のベランダ鯉のぼり

母がこの句を詠んだと思われる時に初節句だった甥も、もう30歳を過ぎた。

時の経つのは早いなぁ・・・とつくづく思う。

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