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Tabi-taroの言葉の旅

何かいい物語があって、語る相手がいる限り、人生捨てたもんじゃない

INSPIRE THE DREAM

2014年09月13日 | 歴史
宙に浮いた不思議な地球儀


アサヒトラベルインターナショナルの福田社長より、なんとも洒落た地球儀を頂いた。
磁力のバランスにより、空中に浮きながら回転し続ける、夢とロマンを掻き立てる地球儀だ。
聞けば、会社創立50周年の記念品だとか。
そんな貴重なものを、「事務局のデスクにも飾っておいて」と、さりげなく・・・
こんな気配りこそが、まさに出来る社長のなせる業なのだろう。

早速に事務所に飾らせていただいた。


地球儀を宙に浮かせる作業に多少は戸惑いつつも、永久自転する地球儀を眺めていると、また旅に出たいという気持ちが湧いてくるから不思議である。

同社の社名入りの紙袋の中にはもう一点、「50th Anniversary」と記された冊子が添えられていた。


それとなく読み始めたら止まらなくなった。
「学ぶ旅行を通じて異文化理解の架け橋に」という社是のもと、同社が一貫して教育旅行に取り組んで来た半世紀の歴史が見事に描かれている。

と、その黎明期のページに目が釘付けとなった。なぜならそこにはこんな記述があったからである。

(1)会社のルーツ・旧アサヒトラベルの誕生
「(発起人=初代社長の任期満了に伴い、波多野武が社長に就任したものの、諸般の事情により)波多野は会社経営を断念することとなりました。その際、譲渡先を相談していたのが、国際旅行業協会(JATAの前身)の役員である吉村光雄氏でした。」(P8)

(4)新生「アサヒトラベルインターナショナル」の誕生へ
(東急観光からの独立した郡司亮一は、新しい会社設立を目指しましたが)当時は旅行業開業のための審査が約半年必要で、教育関係団体旅行を集中的に取り扱う夏休みにとうてい間に合いませんでした。そこで、前出の吉村光雄氏に相談したところ、アサヒトラベルの案件があがり、その継承を考えた方が早道だという結論に達しました。(P10)

いやはや、私が驚いたのはここに記載された二人のお名前でした。
吉村光雄氏は私が22歳で入社した「東京観光」の当時の社長であり、波多野武氏は入社の翌年に常務取締役として着任した、まさにその人だったからです。

今はトラベル懇話会の副会長として日々お世話になっている福田社長の会社が創立50年を迎えられる中、そのルーツとも言える会社設立に、若き日の私の会社役員が二人も関わっていたとは何たる驚き!
冊子に綴られた同社の50年の歴史は、まさに日本の旅行業の、そしてまたその中で私自身が歩んできた歴史そのものでした。

改めて、こんな知られざる歴史と不思議な人のご縁を教えてくださった福田社長に心よりの感謝を申し上げます。

INSPIRE THE DREAM・・・半世紀の間、若者に異文化交流の場を提供し続けてきた㈱アサヒトラベルインターナショナル様の益々のご発展を祈りつつ、トラベル懇話会設立の発起人の一人でもある故吉村光雄氏の墓前にこのご縁を報告に行こうと心に決めました。

英断・命のビザ~杉原千畝物語~

2014年04月27日 | 歴史

なんとも素晴らしい、感動のパフォーマンスでした。
杉原千畝・・・リトアニア大使として、ユダヤ人難民に「命のビザ」を発給し続けたこの人の名前を知らない人はいないでしょう。

俳優水澤心吾さんがこの杉原千畝の心の葛藤を見事に演じてくれました。
内幸町ホールの舞台上には水澤さんただ一人・・・。
一人芝居とは思えない程の圧倒的な迫力でした。
心が震える一人芝居を演じ切った水澤さんの頬には大粒の涙と熱演の汗が
ライトに照らされて輝いてました。

杉原千畝さんが、当時外務省の命令に反して手書きで発行した通過ビザの数は6千通!
彼の英断のビザによって救われた命は、その後脈々と70余年の時を繋ぎ・・・
今では25万人を数えています。

杉原千畝さんの輝かしい人道的行為を決して忘れまいと
リトアニアの首都ヴィルニュスのネリス河畔に植えられた桜の木の脇には「杉原モニュメント」が、
そして、当時日本国大使館が置かれたリトアニア第二の都市カウナスには杉原記念館が建てられ、
彼の偉業を今に語り継いでいます。


カナウスの杉原記念館内部


杉原さんの執務デスクに座る友人トミー


見事な“一人芝居”を演じて下さった水澤心吾さんとの記念ショット


更に昨夜は内幸町ホールの会場に、リトアニア共和国駐日特命全権大使エギディユス・メイルーナス閣下夫妻がお越し下さいました。


希望日本の中村崇さん、感動の会へのご案内と、
素晴らしい皆さまとのご縁をありがとうございました。


JR東日本さんの名コピー

2012年10月17日 | 歴史
びゅうのパンフレット


駅で「びゅう」のパンフレットを手にしました。
「南東北、宮城・山形・福島」版です。
あまりに夢溢れる文章を見つけ、嬉しくなっちゃいました。

<歴史に翻弄された会津藩と共に戦った新島八重の足跡>(パンフ8ページ)
江戸末期、徳川幕府に最後まで忠誠を誓い、新政府軍と戦った会津藩。
この動乱の会津を力強く戦い抜いた一人の女性がいた。
2013年の大河ドラマでその生涯が描かれる新島八重だ。
砲術師範の娘として生を受けた八重は、幼少のころから男まさりな性格で、
裁縫よりも砲術に興味を持っていたという。
鶴ヶ城の篭城戦の際には髪を切って男装し、スペンサー銃を携えて銃撃戦に加わった。

この旅では、“幕末のジャンヌ・ダルク”とも呼ばれた新島八重を中心に、
会津志士の逸話が残る地を旅市ガイドの案内でめぐる。
教科書では知らない歴史の1ページ。
その地に立ち、エピソードに耳を傾ければ、ずっしりとした重みを持って、
胸に迫ってくるだろう。

幕末の歴史の地・会津は、そばの産地としても知られている。
昼食で立ち寄る「香寿庵」では、南会津・荒海産のそば粉を使ったそばを味わえる。
挽きたて・打ちたて・茹でたての十割そばは、旅人の胃をやさしく満たしてくれる。

素晴らしい!一体どなたがこんな素敵な文章を・・・!
左衛子さんじゃないでしょうね?!

いづれにしても、こんな素敵な文章に誘われて・・・
行ってみたくなりました、話題の会津。

東京裁判の真実

2012年06月03日 | 歴史
「おじいちゃん戦争のことを教えて」の著者、中條高徳先生


丸一日を靖国神社で過ごしました。
アサヒビール名誉顧問、中條高徳さんのお話しを聞くため、そして更にひとつの貴重な歴史映像を見るためでした。

この日早朝、東京裁判の真実を知りたいと願う70名を超える人々が、靖国神社「参集殿」に集まりました。
この日のイベントはまず、「本殿」を参拝し、神様に朝食をお供えする「朝御饌祭」(あさみけさい)という神聖な儀式から幕を開けました。

満員の靖国会館会場。全員で国旗に一礼、君が代斉唱の後、いよいよ中條先生の講演が始まりました。
昭和2年生まれ、今年満85歳になられるという中條先生の声は誠に力強く精気に満ち溢れるものでした。

「今日はこの靖国神社で皆様とこうして嬉しいご縁をいただきました。老体に鞭打って出てこなければ、恐らく皆様とは生涯お会いすることがなかったと思うと、この素晴らしい出会いとご縁を心より嬉しく思います。」

「私も先般、心臓手術を受けました。執刀してくれたのは偶然にも陛下と同じ、あの神の手を持つ天野教授でした。私は陸軍士官学校でまさに軍人としての教育を受けました。こうしてまた元気に人前に出られるようになった今、あの戦争を正しく伝えてゆくことが軍人としての教育を受けた者の最後の使命だと思っています。」


中條先生の話は500年前の世界情勢から始まりました。その頃はまだアメリカという国すらなかったのだと。話が「ペリー提督の黒船来航」「ロシアの南下政策」「日露戦争」「満州事変」から「日英同盟の破棄」へと進むに連れて、益々中條先生の弁舌は冴え渡り、次第に熱を帯びてゆきます。まさに目からウロコ・・・中條先生から、正しい歴史を学ぶ大切さを改めて教えていただきました。
講演の最後に、中條先生ご自身からこの日持参した先生の著書に嬉しいご署名を頂戴いたしました。

次のプログラムは「東京裁判」のビデオ上映です。
何と素晴らしい記録映像でしょう!ペンタゴンに3万巻を超える東京裁判の記録フィルムが保管されていたのだそうです。そのフィルムを理想科学の羽山昇氏が5年の歳月を掛けて一本のDVDに編集したのです。その気の遠くなるようなご努力にただただ頭が下がります。極東国際軍事裁判のビデオは、昼食休憩を挟んで上映されました。

東京裁判では、満州事変から支那事変、そして太平洋戦争に至る日本の17年8ヶ月が裁かれました。なぜ、日本があの戦争に突き進んでいったのか、その時、世界の列強はどういう状況に置かれていたのか、初めて見る貴重映像の数々に圧倒されました。4時間37分にも及ぶ長編ビデオにも拘らず誰も眠る人はいません。誰もが画面を食い入るように見つめています。かつての将軍、大臣、首相、皇帝、大統領など世界史の生き証人が続々と登場します。東條英機対キーナン検事の生々しい肉声の論争は圧巻でした。 2年6ヶ月、実に416回にも及んだ公判の判決は、「東條英機以下7人に対して絞首刑」というものでした。捕らえたのは昭和天皇の誕生日、そして首を絞めたのは今生天皇の誕生日という残酷さであったと、中條先生は語りました。

歴史は勝者の手で綴られる・・・・。戦争責任とは?平和に対する罪とは?国家の行為である戦争における個人の責任とは?・・・実にたくさんのことを考えさせられるビデオでした。歳月は忘却の友と言います。でも決して忘れてはいけない、風化させてはいけないことがあることを改めて学びました。

一燈を提げて暗夜を行く。
暗夜を憂うること勿れ。ただ一燈を頼め。

佐藤一斉が問いた「志ある人たちよ、一燈を提げて進もう。やがて万燈になってこの国を照らす日が必ずくる」の言葉が胸に沁みました。

南極大陸

2011年11月08日 | 歴史
国民の夢と希望をのせて出航する南極観測船「宗谷」


TBS開局60周年記念特別番組として「南極大陸」が放送されています。
実話を元にした壮大なスケールの物語が日本中に感動を巻き起こしています。

10月16日に放送された第一話の冒頭で流れたナレーションです。
奈良岡朋子さんの淡々とした語りが胸に迫りました。

 今から56年前・・・戦後と呼ばれた時代
 焼け跡にひざまづく人々の姿があった
 やがて、一人ひとりが立ち上がった
 生きるために働いて、食べ物を分け合い、瓦礫を集め、家を建てた
 新たな命を産み、育てた 生きるために働き続けた

 しかし、焼け跡は消えても、消して振り払えない思いが残った
 私たちは負けた 日本は・・・敗戦国だったんです

 そんな時代に夢を見た男がいた
 自信を失いかけた日本に必要なのは
 戦争でもなく、経済でもなく、夢が必要なんだ・・・・と


9月30日、閉館する海の科学館を訪れた際に、そのすぐ脇に停泊する「宗谷」の館内を見学しました。実物大のぬいぐるみで展示されていた樺太犬、タロとジロの想像以上の大きさに驚いたものでした。

そして、今日、11月8日は、この宗谷が航海に出航した歴史的な日です。

 昭和31年11月8日
 戦後・・・と、呼ばれた時代
 自立した日本を世界に示すため
 南極観測船宗谷は、国民の夢と希望を乗せ
 遥か二万キロの航海に旅立った


骨太て気骨溢れる・・・日本人が日本人であったころの物語です。

第一話での奈良岡さんのナレーションはこちらでお聞きください。

此処より下に家を建てるな

2011年05月15日 | 歴史
巨大地震から早くも二ヶ月が経過しました。岩手県宮古市の姉吉(あねよし)に建つ「大津浪記念碑」のお話しを知りました。その記念碑にはこんな言葉が刻まれています。

高き住居は 児孫の和楽 想へ惨禍の 大津浪
此処より下に 家を建てるな
明治廿九年にも昭和八年にも津浪は此処まで来て
は全滅し生存者僅かにも二人後に四人のみ
幾歳経るとも要心何従

昭和8年の大津波の後、生き残った人たちは津波到達地点の更に上に記念碑を建て、全ての村人は石碑より高い場所で暮らすようになりました。

ご存知の通り、3月11日、宮古市の沿岸部は広域にわたって津波に呑みこまれました。重茂半島東端の姉吉地区では、巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せましたが、大津波は石碑の50メートル手前で止まり、12世帯約40人の全ての家屋が被害を免れました。78年前の教えが生きたのです!!

地区自治会長の木村民茂さん(65)の言葉です。「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」

祝、634メートル到達

2011年03月18日 | 歴史
大地震の発生からちょうど一週間経過した3月18日(金)、東京スカイツリーが、ついに634メートルの高さに到達しました。13時34分、快晴の東京の空に素晴らしいプロポーションの全貌を披露したこの世界一の電波塔は、もうこれ以上伸びることはありません。634メートルは、建設地がかつて「武蔵国」と呼ばれていたことにちなんだ高さです。

この偉業を達成した現場では、震災の被災者に配慮して、634メートル到達のセレモニー開催は行われなかったのだそうです。連日、被災地からの辛く悲しい報道が続く中、嬉しいおめでとう!のニュースでした。

不屈の日本

2011年03月13日 | 歴史
「がんばれ、日本」。日の丸とメッセージを載せた英紙インディペンデント・オン・サンデー

2011年3月11日14時46分、東北三陸海岸を震源とする巨大地震が発生。マグニチュードは本日13日、改めて9.0と修正され、今回の「東日本大震災」は国内の観測史上最大であるばかりか、世界の地震の観測史上でも4番目という想像を超えたものとなりました。この未曾有の大惨事に対して、世界中から励ましの便りが届いています。

日本の皆様も世界が注目しておりますので、日本人の底力を見せてください。アジアの小国が経済大国になったエネルギーを日本人の皆様は持って居られます。南米でも、昨年旅したキューバや中米の方々も、日本人の力や勤勉さ、真面目さを良く知っており尊敬しております。(リマ、Y氏)

地震のニュースはこちらCanadaでも一面トップで報道されています。いくつかのCanadaのテレビ局では、日本に対する救済募金を募っています。かなり早い対応に正直驚きました。世界の垣根が狭く感じられます。本当にありがたいです。(モントリオール、K氏)

現地の壊滅的な状況にはびっくりです。今は原発の状態も心配です。ニュースを見ながら、日本人がほとんどパニックを起こさずに冷静に対処しているさま、ビルなどの倒壊が予想以上に少ないさま、車が整然と脇に停車されていくさまなどに、感嘆しています。一刻も早く事態が収束されるのを願っています。(ローマ、E氏)

米紙ウォールストリート・ジャーナルは12日付紙面に「不屈の日本」と題する社説を掲載し、日本人が如何に過去の大自然災害を乗り越え、それに立ち向かうための備えを身につけているかを賞賛した上で、「間違いなく日本は依然として産業大国であり、この壊滅的な破壊から立ち直り自国を守るであろう」と書きました。

本日までに世界の69の国々から、続々と援助と支援の申し出が寄せられています。嬉しいことです。我々は、今こそ日本中が一丸となって、この国難に立ち向かい、まさにリマのYさんが書き送ってくれたように「日本人の底力を発揮する」ときです。

オバマ米大統領:
「必要なあらゆる支援を行う」
「(両国の)友情と同盟関係は揺るぎなく、日本の国民がこの悲劇を乗り越える上で、立場をともにする決意は強まるのみだ」

ニュージーランドのキー首相:
「クライストチャーチの地震では、日本からの援助隊が我々と一緒に働いてくれた。今度は我々が日本人を救いたい」

英国のエリザベス女王:
「私たちの祈りと思いは被災者すべてと共にある」

シンディー・ローパー:
日本はこれまで世界中の人を助けてきた。だから、今度は私たちが日本を助けたい。

インデペンデントオンサンデー紙:
Don't give up, Japan! Don't give up Tohoku!

韓国の新聞:
最も近い国の私たちが真っ先に駆けつけて支援しよう。


菅総理の国民へのメッセージ~後半~(3月13日)

観國之光

2011年02月08日 | 歴史
私が尊敬する旅行業界の大先輩、大塚さんがご自身の素晴らしい旅のコーディネーター人生を一冊の本にまとめました。その本の名は「観國之光」・・・国の光(優れたもの)を観せることは、王の賓客をもてなすのによい・・・という観光という言葉の語源が本のタイトルです。

いやはや素晴らしい本です。読み始めたら最後、やめられません。一気におしまいまで読み切ってしまうこと請け合いの面白さです。

まえがきの・・・そのまたほんの一部分をご紹介しましょう。

 この本は、海外旅行が自由化されて間もない1965年(昭和40年)から45年余りの間に、一人のトラベル・エージェントが「旅」を通じて学んだこと、体験したこと、出会い、楽しさ、苦しさ、危機感、達成感、醸成された人間関係などを、いくつかの思い出深い「旅の企画」を紹介しながらとりまとめた、成功と失敗のエピソード集です。
「旅に感動を!」
「旅に人生を!」
「旅に思い出を!」
「旅が与える、大きな大きな一週間!」

 時には、地位や身分を賭け、「何でそこまでやるの!?」と冷笑されながらも、とび職よろしく「意地と度胸とやせ我慢」、自分が信じる道を突き進んできました。
 分業化が進む昨今の旅行業界には、こんなトラベル・エージェントも少なくなりましたが、その歩みの中には、旅行業界に限らず、様々なビジネスの場面で通用する企画発想の「種」や「知恵」が、たくさん詰っていると自負しています。
 (後略)

ここまで読んだ方は、例外なくもっと先を読みなくなったことでしょう!
この本は全国どこの書店でも注文が可能です。
書籍番号は ISBN 978-4-904759-31-8 アマゾンのネットからも購入できます。

一人のトラベル・エージェントの痛快人生を、ひたすら前を向いて歩んで来られた貴方自身の人生と重ねてみては如何でしょう!きっと、共感が得られることと信じて疑いません。

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古関裕而生誕100年記念演奏会

2009年10月28日 | 歴史
古関裕而生誕100年記念演奏会に行ってまいりました。

古関裕而さんについての数々のエピソードが紹介されて、改めてその偉大さを知り大変感動いたしました。演奏会はたっぷりと合計三部の構成でした。

第一部:「懐かしの戦後歌謡」
第一部はグリークラブOBで結成された倶楽部グリーが歌う早稲田大学の応援歌「紺碧の空」で幕を開けました。この曲は、上京間もない作曲者の名を世間に知らしめた、まさに古関裕而さんのデビュー作品。「あこがれの郵便馬車」や「とんがり帽子」など、懐かしい戦後のヒット歌謡で構成された第一部の締めくくりは、名曲「長崎の鐘」でした。驚いたことに、この曲を歌ったのは、この日の司会者吉川精一さん自身でした。早稲田大学卒業の吉川さんは紅白歌合戦の総合司会を二度も務めた元NHKの司会者であると同時に自他共に認める“プロ歌手”です。曲の冒頭に紹介されたナレーションによって、私は初めて曲中で歌われるロザリオこそが、この原爆で焼け爛れた永井隆博士の奥様、緑夫人の亡骸に掛かっていた十字架であったことを知りました。悲しみの短調が長調に転調し、♪慰め、励まし♪と、希望を強く歌い上げるこの曲の素晴らしさが、いつもよりもゆっくり目のテンポによっていっそう際立ち、目頭が熱くなりました。

第二部:「心浮き立つマーチ、器楽曲」
第二部は応援部吹奏楽団OBバンドが大活躍。郷愁のラジオ番組のテーマ曲、「ひるのいこい」が紹介されました。この曲が昭和25年に誕生した逸話を知り、更にこの曲に愛着が湧きました。「若鷲の歌」は♪若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨♪と歌われる別名予科練の歌として有名です。

圧巻は「オリンピックマーチ」でした。昭和39年の東京オリンピックのために作られたこの曲も古関作品だったんですねぇ! 曲の最終部には「君が代」の一節が引用されているこの作品は、「日本のスーザ」と称された古関裕而さんならではの名行進曲です。10月10日の開会式。「世界中の青空を全部東京に持ってきたような秋の晴天が広がっています」・・・この歴史的な名アナウンスを、同じNHKの後輩アナウンサー吉川さんが見事に再現してくれました。

第三部:「歌い継がれるスポーツ音楽、応援歌」
第三部は「栄冠は君に輝く」で始まりました。全国高等学校野球大会の歌として、この曲を知らない人はいないでしょう。古関裕而さんの出身地であるJR東北新幹線福島駅では発車ベルの代わりにこのメロディーが流れています。ステージでは倶楽部グリー合唱団、応援部吹奏楽団OBバンドに早稲田大学応援部稲門会、そして更にはこの日の舞台に応援を買って出た慶応義塾大学応援部三田会も加わっての大応援合戦です。阪神タイガーズの歌=「六甲おろし」も、巨人軍の歌=「闘魂こめて」も、慶応の応援歌=「我ぞ覇者」も、早慶戦で両校が同時に歌う「早慶賛歌」も・・・みんな、みんな古関メロディーだったのですネ。

最後は観客席も舞台も一体となって「紺碧の空」の大合唱。感動の余韻に酔いながら、重要文化財「大隈講堂」を出るあの顔・この顔に浮かぶ微笑は、まさに往年の少年そのものでした。

太平洋の架け橋

2009年09月13日 | 歴史
新渡戸稲造の家は南部藩士で、代々荒地の開墾開拓に実績を残した家柄でした。稲造(幼名は稲之助)と命名したのは祖父です。つまり稲という日本国民にとって大事な食料の元をそのまま名に付けたのでした。稲造は16歳のときに札幌農学校に入学しました。稲造と農学校は生まれながらに深い縁で結ばれていたのですね!

クラーク博士は北海道開拓使長官黒田清隆に招かれて、明治9年(1876年)に来日しました。博士は赴任の挨拶で学生たちにこう告げました。「札幌農学校の校則はただ一つ、ビー・ジェントルマンである。ジェントルマンというのは、自分の良心に従って行動することをいう。誰にも負けないような良心を、君たち一人ひとりが持ちたまえ。Be Gentleman!」
新渡戸稲造は内村鑑三と同期の二期生でした。クラーク博士は新渡戸や内村が入学した時には、既に任期満了してアメリカへ帰った後でした。明治10年(1877年)4月16日、クラーク博士は送ってきた教え子の一人ひとりと固い握手を交わしたあと、馬に跨ると、馬上から大声で叫びました。「ボーイス・ビー・アンビシャス!」

新渡戸稲造の名を世界的に高めたのは、彼が英語で書いた『武士道』です。「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」という書き出しで始まるこの本を通して、当時、未開の野蛮国と見られていた日本にも、武士道という優れた精神があることを世界の人々に紹介したのです。

新渡戸稲造が、「私は太平洋の架け橋となる」と言った橋のもう一方の繋ぎ目はアメリカです。それは、クラークがアメリカ人だったからです。稲造は見たことのないクラークを心から尊敬していました。新渡戸稲造は米国・ドイツなどに留学した後、1891年に帰国。札幌農学校教授、東京帝国大学教授、国際連盟事務次長などを歴任、1918年には東京女子大学初代学長になり、女子の教育にも力を尽くしました。

1933年、カナダのバンフで開かれた太平洋会議に出席後、西岸ヴィクトリアで倒れ、愛妻メアリーに看取られつつ永眠しました。71歳でした。1959年には5千円札の肖像に選ばれています。

J-1 J-2 J-3

2009年09月11日 | 歴史
日本時間の9.11は、ドル相場の高騰は気になるものの無事に日付が替わりそうです。ニューヨークではこれからたくさんの追悼儀式が行われることでしょう。あれから8年・・・本当にあっと言う間でしたね。

J-1 J-2 J-3 ってご存知ですか?

それは、私が社会人になった頃の羽田空港の搭乗ゲート名です。その頃の羽田には、ターミナルから航空機に直接蛇腹で搭乗できるゲートはこの3つしかありませんでした。

J-1は日本航空専用、J-2はノースウエスト専用、J-3はパンナム専用でした。その他は全てバスで駐機場まで移動し、タラップを昇って航空機に乗り込んだものでした。

その後、国際線の主流は成田空港に移りました。しかし、その間、夢の世界一周路線を誇っていたパンアメリカン航空は1991年に早々と破産。そして、かの「赤い尾翼」のノースウエスト航空すらも、今ではデルタ航空に吸収されてしまいました。

航空運賃破壊の波は、もともとアメリカからやってきました。どうせ空気を運ぶなら、半額、いえそのまた半額と・・・安売り合戦に明け暮れる航空業界です。消費者にとっては安ければ安いほど良いということなのでしょう。「悪魔のサイクル」です。

押し寄せた価格破壊の波に飲み込まれた巨人=日本航空は本日、ついにデルタ航空と資本提携の道を模索し始めたとの報道が流れました。まさに、日本の航空業界にとって永久に忘れられない9.11となってしまいました。

辻井伸行さんの快挙

2009年06月08日 | 歴史
バン・クライバーンの名前を知ったのは私が中学の時でした。レコード店、「すみや」で買ったレコードジャケットの表紙に、彼の端正な笑顔が載っていました。

1958年にモスクワで開かれた第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝したアメリカのピアニスト、バン・クライバーンさん・・・・。その彼が、昨夜、テキサス州フォートワースで日本の青年と抱き合いました。その日本人の名は辻井伸行さん、二十歳。生まれつきの全盲ピアニストが「バン・クライバーン国際ピアノコンクール」で優勝した瞬間でした。

テレビのニュースでは会場が総立ちになり、拍手が鳴り止まない様子を伝えていました。
 「それは聴く者全てを魅了した!」
 「若干二十歳にして奇跡のピアニストと称される彼は、やがていつの日か神になるであろう。」

感動しました。全盲の人が一般の人に交じって音楽コンクールに挑戦すること自体凄いことなのに、優勝してしまうなんて!!本当に素晴らしい快挙です。

いつか、彼の生の演奏を聞きたいと、心からそう思いました。

近代オリンピックゲームズ

2008年08月24日 | 歴史
北京国家体育場=愛称「鳥巣」


北京オリンピックもいよいよ閉幕です。
ここで戦後のオリンピックの歴史を整理してみました。

1948年7月 ロンドン
  第二次世界大戦後初、ベルリン以来実に12年ぶりに大会復活。
  敗戦国である日本とドイツは参加を認められず。

1952年7月 ヘルシンキ
  日本にとっては戦後初、16年ぶりのオリンピック参加となった。

1956年11月 メルボルン
  オリンピック史上初めての南半球での開催。
  日本は体操の小野、競泳の古川など4つの金メダルを獲得。

1960年8月 ローマ
  裸足の王者アベベがローマコンスタンティヌスの凱旋門に一位でゴールし、
  かつて母国エチオピアを侵攻したイタリアの首都を凱旋した。

1964年10月10日 東京
  アジアで初開催。過去最多の出場国数。開催式の10月10日は後に体育の日。
  カラーテレビ普及、放送技術の向上から「テレビ・オリンピック」の異名。
  シューズを履いたアベベが近代オリンピック史上初のマラソン連覇を達成。
  大松監督率いる東洋の魔女、体操のチャフラフスカ、ヘーシンク等の活躍。
  マラソンの円谷選手はゴール直前でイギリスの選手抜かれ栄光の銅メダル。
  日本陸上が獲得した唯一のメダル故、「日本陸上界を救った男」と言われたが、
  後に挫折~自殺の運命を辿る。(三島由紀夫は美しい自尊心による自殺と円谷を擁護)
  地下鉄やモノレール、新幹線、ホテル、首都高速道路など様々なインフラ整備

1968年10月 メキシコ  
  史上初、女性による最終聖火ランナー誕生。
  南アフリカの参加を拒否することで、55ヶ国もの大量ボイコットを回避した。
  バレーボールは男女共に銀メダル獲得。
  体操では、日本が男子団体で3連覇したほか男子床運動での表彰台独占。

1972年8月 ミュンヘン  
  パレスチナゲリラがイスラエル選手宿舎を襲撃。銃撃戦の大惨事。
  日本男子体操が最も強さを誇った大会。
  鉄棒金メダルの塚原光男が「月面宙返り」を開発。
  日本男子バレーボールが対ブルガリア戦で、奇跡の大逆転劇の末、金メダルを獲得。
  マーク・スピッツ、1大会最多7個の金メダル獲得。

1976年7月 モントリオール  
  ナディア・コマネチ(ルーマニア)が10点満点を連発。
  開催国カナダは金メダル0の不名誉記録。加えてモントリオール市は大赤字。
  日本女子バレー金メダル獲得。開催国カナダは金メダル0に終わった。

1980年7月 モスクワ  
  ソ連のアフガニスタン侵攻を非難し、米カーター大統領が大会ボイコットを決定。
  日本政府もアメリカに同調して大会不参加。
  西側諸国の集団ボイコット(中国を含む50カ国)によりその権威が失墜。
  ソビエトは、次のロサンゼルスを報復ボイコット。
  閉会式では「ロサンゼルスで会いましょう」という電光掲示が一切出なかった。
  ローマ以来続けた日本男子体操団体の5連覇はこの不参加により途絶えた。

1984年7月 ロサンゼルス
  この大会は1セントも税金を使わずに行われた。
  スタジアムも1932年に開催された大会時のものを使っている。
  最終的に400億円の黒字。その後の商業主義の発端となった。
  斎藤仁、山下泰裕、カールルイス等が金メダル獲得。
  日本女子バレーボール(三屋裕子)は銅メダル。

1988年9月 ソウル
  アジアで二度目のオリンピック。名古屋も立候補したがソウルが選出された。
  12年ぶりにアメリカ、ソビエトが揃った大会。
  陸上100mで世界新のカナダ=ベン・ジョンソンにドーピング検査で金メダル剥奪。
  9秒92で2位のカール・ルイスが繰上げで金メダルを獲得。
  前年の1987年11月29日、オリンピックの中止を狙った?大韓航空機爆破事件。

1992年7月 バルセロナ
  中学2年生で14歳の岩崎恭子が200m平泳ぎで金メダルを獲得。
  16歳の田村亮子、悔しさをバネに夢を掴むの銀メダル。
  カタルーニャ生まれテノール歌手のホセ・カレーラスが音楽監督で芸術性の高い開会式。

1996年7月 アトランタ
  近代オリンピック開催100周年記念大会。
  モハメド・アリが震える手で聖火を点火。
  女子マラソンの有森裕子が前回のバルセロナの銀に続いて銅メダルを獲得。

2000年9月 シドニー
  二十世紀最後のそしてサラマンチ会長にとっても最後のオリンピック。
  柔道で田村亮子が悲願の金メダル。野村忠宏2大会連続金メダル。
  井上康生や瀧本誠らも金メダルを獲得。
  マラソンの高橋尚子が日本の女子陸上競技として初の金メダルを獲得。国民栄誉賞。

2004年8月 アテネ
  アテネで開催するのは1896年の第1回大会以来、108年ぶり2回目。
  女子マラソンの野口みずきの優勝など、史上最多の16個の金メダル獲得。
  体操男子団体総合では日本が28年ぶりの金メダルを獲得。

2008年8月8日 北京
  イスタンブール、大阪、パリ、トロントの候補地を破りアジアで3度目の開催。
  オリンピック史上最多の204の国と地域が参加。
  北京国家体育場(9万1000人収容)の愛称は「鳥巣」(Bird's Nest)
  マイケル・ヘルプスが1大会での最多金メダル記録(8個)を達成。
  北島康介、平泳ぎ100㍍、200㍍の二種目を連覇。

2012年7月27日
  予定開催地:ロンドン

2016年
  立候補都市:東京、シカゴ、リオデジャネイロ、マドリード

次回のロンドン、そして更にその次の東京?と、数々の感動のドラマは引き継がれてゆくことでしょう。

美しい国日本

2008年06月15日 | 歴史
日本は有史以来「美しい国」として、外国人から賛美されてきました。かつての日本は自給自足ができており、外国から物資を輸入する必要はありませんでした。国内は戦争もなく、人間が人間らしく支え合って暮らしていたのです。

1.ハインリッヒ・シュリーマン(トロイアの遺跡の発掘の6年前、1865年訪日)
「役人たちの精勤ぶりに驚かされる。彼らに対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら『切腹』を選ぶのである」

2.イザベラ・バード(イギリスの女性旅行家、明治11年来日)
「人びとの礼儀正しい態度、そしてすべてのふるまいに私はただただ感心するばかりだった。私達の国の最も良いマナーも日本人のマナーの気品、親切さには及ばない。世界中で日本ほど、婦人が危険にも不作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと私は信じている」

3.エドワード・S・モース(明治10年、東京大学生物学教授、大森貝塚を発見)
「衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、すべての自然物に対する愛、あっさりしていて魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情についての思いやり・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、この国の最も貧しい人々も持っている特質である」    

4.フランシスコ・ザビエル(日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師)
「この国の人々は今までに出会った国民のなかで最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人は貧しいのですが、武士も、そうでない人びとも、貧しいことを不名誉と思っていません」

5.ヘンリー・ヒュースケン(幕末、アメリカ公使館通訳として活躍したオランダ人)
「いま私がいとしさを覚えはじめている国よ、この進歩はほんとうに進歩なのか?この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑い声を聞き、どこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私には、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終りを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならないのである」

ハリスの通訳として下田にも縁が深いヒュースケンが、当時、既にこれだけの卓見を持っていたことが誇らしく思えます。日本に帰化して小泉八雲と名乗ったラフカディオ・ハーンの次の警告とまさに同じものです。「日本は、古くからの質素で健全な、自然で節度ある誠実な生活様式を捨て去る危険性を持っている。質素さを保つ限りは日本は強いだろう。しかし贅沢な思考を取り入れたら、日本は弱くなっていくと考える」

最後に、ハーンとの交流が深く、万葉集などの詩歌を研究して、東京大学で日本語学教授にもなったイギリス人のバジル・ホール・テェンバレンの言葉を紹介して、明日の「美しい国日本」の復活に夢を繋ぐことにしたいと思います。「過去にしっかりと根をはっている国民のみが、将来において花を咲かせ、果実を結ぶことを期待できるのである」