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Tabi-taroの言葉の旅

何かいい物語があって、語る相手がいる限り、人生捨てたもんじゃない

神聖ローマ、運命の日

2014年04月23日 | トルコ

1683年9月11日、トルコ軍のウィーン包囲。この日歴史は動いた。

いまでこそヨーロッパの食卓に欠かせないクロワッサン(三日月)は、この時にトルコ軍により伝えられたものなのだ。

金の三日月をあしらった緑の軍旗を掲げるトルコ軍30万がウィーンに迫っていた。迎えるウィーンの兵力はわずか1万5千。若き勇将オイゲン公率いる槍騎兵やザクセン、バイエルンなどの援軍を含めても5万足らずだ。さらに名将の誉れ高いポーランド王ヤン3世ソビエスキが4万の援軍を従えてウィーンを目指していた。

果たして、キリスト教勢力は神聖同盟として一致団結し、ウィーンを守り抜くことができるのか。絶体絶命の淵で、神聖ローマ帝国皇帝レオポルド1世が呼び寄せたのは軌跡の修道士マルコ・ダヴィアーノだった。

イスラム教勢力の脅威が頂点に達した1683年9月11日。ついにヨーロッパの運命を賭けた世紀の大決戦の火蓋が切って落とされる。

運命の決戦当日。マルコは全兵士を前に高らかに宣言する。
「諸君はウィーンだけでなく、信仰と伝統を守っているのだ。
子供たちが、家族が、自由に神を称賛し、キリストを愛するために。
この自由は諸君の戦いによってもたらされる。」


ハプスブルク家、レオポルド1世の家計図はこちら

【小さな歴史の物語】 エルトゥールル号の遭難 ~生命の光から~

2001年10月15日 | トルコ
和歌山県の南端に大島がある。その東には灯台がある。明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。今も断崖の上に立っている。
   びゅわーん びゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。
   どどどーん どどどーん、波が激しく断崖を打つ。

台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。午後九時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。灯台守(通信技手)ははっきりとその爆発音を聞いた。
   「何か大変なことが起こらなければいいが」 灯台守は胸騒ぎした。

しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。 このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波の力でどんどん近づいてくる。あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には岩がにょきにょき出ている。
   ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。

船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。この爆発音を灯台守が聞いたのだった。乗組員は海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打ち上げられた。
   「息子よ、起きなさい」  懐かしい母が耳元で囁いているようだった。
   「お母さん」という自分の声で意識がもどった。真っ暗な中で、灯台の光が見えた。
   「あそこに行けば、人がいるに違いない」 そう思うと、急に力が湧いてきた。

四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。
   「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。
   「あなたのお国はどこですか」
   「・・・・・・」 言葉が通じなかった。

それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、身振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。
   「この乗組員たちを救うには人手が要る」  傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。
   「樫野の人たちに知らせよう」

灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。

だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。村の男たちは泣いた。遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。
   「一人でも多く救ってあげたい」 しかし、大多数は動かなかった。 一人の男が叫ぶ。
   「息があるぞ!」

だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。自分の体温で彼らを温めはじめた。
   「死ぬな!」 「元気を出せ!」 「生きるんだ!」

村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。この船の名はエルトゥールル号である。助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。 サツマイモやみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。 このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。

島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。
   「もう食べさせてあげるものがない」「どうしよう!」  一人の婦人が言う。
   「にわとりが残っている」 「でも、これを食べてしまったら・・・・・」
   「お天とうさまが、守ってくださるよ」

女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。 こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。

このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。

次のような後日物語がある。
イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセインが、「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人二百十五名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの一時間十五分前であった。

なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」文・のぶひろ としもり

以上、エルトゥールル号の話は111年前の真実で、16年前のイラン・イラク戦争時には、多くの日本人がトルコの人によって救われました。決して、多くに知られてはいない真実。あなたはどう思いましたか?
辛いニュースが多い世の中にほんの少しやさしさを取り戻せる、この『小さな歴史の物語』が、また、あなたに何かを思い出させてくれることを・・・・