Tabi-taroの言葉の旅

何かいい物語があって、語る相手がいる限り、人生捨てたもんじゃない

素晴らしき旅の仲間たち

2007年10月21日 | 日記
群馬県宝川温泉 汪泉閣玄関にて集合写真

旅の仲間が集まった。
かつてスイスの三大名峰をハイキングして歩いた仲間である。知り会ったのがスイスだから、会のネーミングも「スイス会」。以来、どこに行っても「スイス会の旅」とは面白い。

国内ではメンバー在住のご当地を訪ねて、浜松~京都~横浜~東京・・・・。そして海外でもニュージーランド~ペルー、マチュピチュへ。そんな素敵な仲間たちが、今回は群馬、宝川温泉に集まって、汪泉閣自慢の大露天風呂と、雄大な谷川岳の日本の紅葉を満喫した。

気の合った仲間との旅行ほど楽しいものはない。分かりきった当たり前のことなのに、お互いが忙し過ぎるのか、なかなか旅行に誘える仲間が見当たらない。やむなく夫婦で「今度は俺も連れてって!」が現実なのかも知れない。だからこそ、この旅の仲間の存在が際立って素晴らしいものに思えてくる。出身も、職業も、年齢も、趣味・趣向もそれぞれなのに・・・一緒にいて楽しい、また会いたい・・・不思議な旅の仲間がいたものである。

大露天風呂での裸のお付き合いで更に親しみを増したこの素晴らしい仲間たちと・・・来年は「よ~し、ロシアへ行こう!」ということになった。素晴らしき旅の仲間よ、永遠なれ!

秋に寄せるいにしえの楽の音

2007年10月16日 | 雑学
今回の演奏会で筒井さんが弾いたチェンバロ

筒井一貴さんのチェンバロリサイタルに行ってまいりました。プログラムのサブタイトルが素敵です。 ~秋に寄せるいにしえの楽の音~ 鈴虫の声を連想するような、まさに可憐で繊細な「いにしえの音」の世界を堪能してきました。

古典鍵盤楽器演奏の大家である筒井さんとは青藍の夢塾(ムジーク)にてお会いしました。鍵盤楽器の上を滑るような華麗なる指さばきを見せてくれる筒井さんが、東京大学大学院で農学を学ばれたのだと聞いて二度ビックリ。機知に富んだジョークを織り交ぜてのトークもお上手な、何とも素敵な音楽家なのであります。

古典鍵盤楽器とはおよそ現在の形のピアノが発明される以前の鍵盤楽器で、チェンバロ(英語ではハープシコード)、クラヴィコード、そしてオルガンの三種類を指すのだそうです。今回のプログラムの中で特に気に入った曲はフローベルガーの組曲 ハ長調でした。「皇帝フェルディナント三世陛下の痛切な極みなる死に捧げる哀歌1657年」が挿入されたこの曲の最後の上昇音階が印象的でした。チェンバロの最高音に達した音符の先には天使の絵が描かれていたのだという逸話からは「昇天」を連想し、何とも心に残る一曲となりました。

筒井さん、ありがとう! ロマンチックな秋の午後のひと時でした。

オーストリア系ハプスブルク
フェルディナンド三世(1637-1657)
レオポルド一世(1657-1705)
=スペイン、フェリペ4世の長女マルガリータ(ラス・メニーナスに描かれた)と結婚
1643年:ルイ14世がフランス国王即位

ロックガーデン

2007年10月14日 | 名言
自身の作品について解説する山岳写真家岩橋崇至先生

池内さんからご案内を頂き、岩橋崇至先生の写真展「ロックガーデン」に行ってまいりました。岩橋先生は日本山岳会の重鎮であり、かつ山と写真を愛する人なら知らない人はいないという、日本を代表する山岳写真家です。昨日はその岩橋先生からじきじきのギャラリートークが聞けるというので、楽しみな遠足を待つ子供の如く、開催時間の30分も前に開場に入りました。そんな早い時間から、会場となった品川のキャノンギャラリーには既に多くの山岳写真ファンが集まっておりました。

山男特有の褐色に日焼けした優しい風貌の岩橋崇至先生は、会場に現れるや否や、こう口火を切ってギャラリーに詰め掛けたファンを笑わせました。「今朝まで涸沢にいました。涸沢の紅葉は今日・明日が最高のピークです。従って本当なら戻って来たくなかったのですが、本日のこのイベントのために止む山を降りてまいりました。」

会場には先生がアメリカ、コロラド高原を撮り収めた40枚ほどの作品が展示されておりました。その作品の一つ一つを撮影者自らが解説してくださるという何とも嬉しくも得難い、貴重な体験でした。今回のコロラドの大自然をカメラに収めるに際し、先生はデジタルカメラを使用したのだそうです。参加者からの質問に答えてこう言った先生の言葉が心に残りました。
「シャッタースピードと露出・・・光をどう取り込むか・・・それが今までの写真家に求められた技量でした。しかし、今ではそれらはカメラが自動的にやってくれるのです。人間がすることは構図を考えることです。『絵になる構図』が重要です」

さて、先生の奥様と最近では助手を務める息子さんとにご挨拶も終え、そろそろおいとま・・・と思ったところに、何と懐かしの夢さんが登場しました。それなら、もう一度二人で会場を!と、今度は私が即興のギャラリートークという一幕でした。

夢さん、変らずお元気でありがとう!
池内さん、素敵な感激の機会をご案内してくれてありがとう!!

職人魂が放つ「王者」の輝き

2007年10月13日 | フランス
パリ16区、バカラ美術館に展示される「ニコライ二世の大燭台」


「パリの東約400㌔、ドイツ国境にほど近いロレーヌ地方の山間に、豊かな森林資源と清らかな皮の流れる村があります。その名はバカラ・・・・酒神バッカスに由来する人口5千人にも満たない小村から世界に冠たるクリスタルは生まれた」

1764年誕生以来、三世紀にわたり社交界、王侯貴族たちの間で、その美しい姿を称えられたバカラは、クリスタルの代名詞とまで言われ、神秘の輝きは時代とともに煌きました。バカラの光の芸術は、19世紀から20世紀初頭にかけて世界を舞台に華開きました。顧客リストに名を連ねた人々を見ると、そのままそこに激動の世界史があります。ルイ18世、ロシア皇帝と皇后、トルコの皇帝、インド歴代の大君、ポルトガル、ギリシャ、イタリア、スペイン、エジプトなどの国王・・・。いつしかバカラは「王者たちのクリスタル」と呼ばれるようになりました。

1831年、パリ、パラディ通りに開設されたショールームには、今も語り継がれる王者のエピソードが秘められています。1897年、バカラのショールームを訪れたロシア皇帝ニコライ二世は、そこに漂う芸術性と香りあふれる気品に胸を打たれ、早速ペテルブルグ宮殿に飾る電飾大燭台を始め7mの高さの噴水などを次々と注文し、パリ中の話題になりました。ロバの隊商が高価なクリスタルグラスを背負って、バカラ社とペテルブルグ宮殿の間を往復しました。

バカラ社が、その12基にも及ぶニコライ皇帝注文の大燭台を全て作り終えたのは1914年---あの忌まわしい第一次世界大戦勃発の年でした。そして、1917年ロシア革命---ニコライ二世は家族とともに刑場の露と消えました。戦火ゆえに旅立たなかった燭台が二基、今、パリ、バカラ美術館にあります。

人の世の栄枯と盛衰。生あるものの貴さとはかなさ。「王者たちのクリスタル」の言葉通り、研ぎすまされ、永遠の煌きを放つバカラのクリスタルには、一片と言えども作り手たちの愛と誇りが刻まれないことはありません。


エディット・ピアフ

2007年10月08日 | フランス
映画、「エディット・ピアフ」を観てきました。素晴らしい感動の名作です。

ピアフ役を演じたマリオン・コティヤールの名演技が輝いています。恋人、マルセルが飛行機事故に遭った晩の半狂乱の演技は、もう演技を通り超えたすざましい迫力です。ピアフの歌に感激したマレーネ・デートリッヒがピアフに声を掛ける場面もとても感動的です。天才シャンソン歌手の生涯を描いた映画だけあって、「音」の処理テクニックには本当に驚かされます。

晩年のピアフがオランピア劇場で「私は後悔しない」を熱唱します。日本語字幕で流れる歌詞を目で追い、まさにこの歌こそ彼女の人生そのものだと感じたその瞬間、思わず涙が流れてしまいました。

♪水に流して~私は後悔しない~♪

いいえ、ぜんぜん
いいえ、私は何も後悔していない
私に人がした良いことも 悪いことも
何もかも、私にとってはどうでもいい

私は代償を払った、清算した、忘れた
過去なんてどうでもいい

私のいろいろな過去を束にして
火をつけて焼いてしまった
私は過去の恋を清算した

私はまたゼロから出発する


遠い昔、今は八戸に住む上野さんと交わした約束・・・「いつかペール・ラシューズの墓地にピアフの墓参りに行こう!」を、そろそろ実行に移したくなりました。

エディット・ピアフの墓:地下鉄3号線東端Gallieni駅から3番目の駅、ペール・ラシューズを降りると、目の前にはパリ最大の墓地・ペール・ラシューズ墓地。ここには、ショパン、オスカーワイルド、ドラクロワ、バルザック、ジム・モリソン、マリア・カラスなど、各界の著名人が眠る。

ジュ・ム・スビアン

2007年10月04日 | カナダ
標語が刻まれたケベック州のナンバープレート

無事、カナダより帰国しました。
僅か二週間がその見ごろと言われるカナダの紅葉・・・・最盛期にタイミングを合わせて、紅葉の名所=ローレンシャン高原、モントランブランの山々が真っ赤に燃え上がる大自然のドラマを堪能してまいりました。その地を案内してくれた息子よりも若いガイドさんから二つの言葉を教わりました。

1.ジュムスビアン(私は忘れない)
ケベックは北米におけるフランス植民地、ヌーヴェルフランスの要衝として発展しました。しかし、その後勃発した英仏7年戦争が植民地にも飛び火し、1759年、ケベックのフランス軍はイギリス軍に敗れ、ヌーヴェルフランスは終焉を迎えました。その結果、イギリスはケベックを獲得こそしたものの、人口の9割を占めるフランス系住民の文化や伝統までも支配することはできませんでした。ケベック州の全ての車のナンバープレートにも刻まれているこの言葉は、自分たちのルーツがフランスであることを忘れまいとするかのように、彼らの公用語は今もフランス語です。

2.ジョアドゥヴィーヴル(人生を楽しもう)
この言葉通りに、人生を楽しむことに長けたケベック人は貯蓄下手で知られています。一般に英語圏の人は独立心に富み、フランス語圏の人は思いやりに溢れているのだとか。連日、我々を安全に運んでくれたバスのドライバーさんもまた、毎日明るくサービス精神旺盛に人生を楽しむ人でした。

最盛期の紅葉を愛でる今回のツアー。山々を染める紅葉の赤さにも増して、ご縁をいただいた全ての方々の暖かさに身も心も赤く染まった9日間でした。