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Tabi-taroの言葉の旅

何かいい物語があって、語る相手がいる限り、人生捨てたもんじゃない

オクトーバーフェスト

2009年09月19日 | ドイツ
日比谷公園の特設舞台で熱唱するヨーデルクイーン、ベロニカ・レンツさん

ルフトハンザドイツ航空の友人の誘いで、オクトーバーフェストに行ってきました。と言ってもミュンヘンの話ではありません。日比谷公園の噴水広場で開催される日本版オクトーバーフェストです。

本来のオクトーバーフェストとは、ドイツ・ミュンヘンで開催される世界最大のビールの祭典のことです。今年は9月19日から10月4日まで16日間に亘って、連日ビールの祭典が繰り広げられます。期間中の来場者は実に600万人を超えるのだそうです。ミュンヘン市長がビア樽を開けるや、世界中から集まった人々がバイエルンの陽気な民族音楽に合わせて、「マース」と呼ばれるバイエルン地方特有の1リットルの巨大ジョッキ片手に歌い踊りながら、本場のビールを堪能します。

日本版のオクトーバーフェストは、この本場のビール祭りの熱気を日本でも再現しよう!と、2005年よりアサヒビールの協賛、ルフトハンザドイツ航空の協力により実施されている秋の一大イベントです。

会場では見知らぬ人と方を組んで、ドイツの乾杯の歌を歌っては、Eins、Zwei、Drei、Prosit!と大いに盛り上がってまいりました。バイエルンのヨーデルは本当に聞いているだけで自然と身体が揺れてしまいます。

ウンターデンリンデン

2009年08月24日 | ドイツ
2009年8月23日、日曜日、日本時間19時~、ドイツ連邦共和国の首都ベルリン。第12回世界陸上選手権ベルリン大会最終日に行われた女子マラソン。尾崎好美選手は2時間25分25秒の2位でゴールし、銀メダルを獲得しました。優勝は中国の白雪で、中国勢として初の金メダル獲得でした。ブランデンブルグ門を出て、ポツダム広場、ティーアガルテン(戦勝記念塔)、連邦議事堂、ミッテ地区をひた走り、博物館島、ウンター・デン・リンデンを走り、ブランデンブルグ門に入るという"ベルリン観光スポットてんこもり"のコースでした。

ヨーロッパの大通りには見事な街路樹が植えられております。マロニエは西洋栃。プラタナスは鈴掛でその名のとおり、鈴のような茶色の実をつけます。そしてリンデンは菩提樹です。

ウンターとはアンダーのこと。まさに「菩提樹の木の下」という素敵な名前の大通りです。前日の男子マラソン、そして昨日の女子マラソンともかつてのドイツ帝国が誇る、ベルリン“観光スポットてんこもり”のコースでしたね。

ブランデンブルク門から今回のマラソンコースに沿って南へ徒歩10分。ベルリン・マリオットホテルに宿泊したのは2005年10月5日のことでした。翌朝、朝食までの時間を利用して、東西ドイツ統一のシンボル、ブランデンブルク門まで散歩したことを思い出しました。

オーストリーが生んだ大作曲家シューベルトの名曲、菩提樹を口ずさみながら今週も頑張りましょう。
♪泉に沿いて 茂る菩提樹♪


Look up!元気を出して!

2008年05月03日 | ドイツ
ワーグナーの聖地、バイロイト祝祭劇場


「みんな、聞こえるかい? ごらん、雲が晴れて光が差してくるよ。
人類は憎しみを乗り越えて、もっとやさしさに満ちた世界に入っていくんだ。
だから元気を出して、みんな。 Look up, Minnah. Look up!・・・」

これは映画「独裁者」でのラストシーン。
失意に打ちひしがれるヒロインに対して、チャップリン演じる床屋の亭主が語りかけるせりふですが、敢えてヒロインの名=ハンナを‘みんな’に置き換えてみました。

Look up! 元気を出して!
その声に誘われるようにハンナは目に希望をたたえて空を見上げます。
その時、背後から流れてきた曲がローエングリン第1幕前奏曲でした。

ヒトラーが熱烈なワグネリアンであり、歌劇「ローエングリン」を特に好んでいたことは良く知られています。チャップリンはあえてこの曲をラストに用いることによって、ローエングリンはナチスのものではなく、平和を愛する人類すべてにとって神聖な音楽であることを示したのです。

「独裁者」が公開された1940年はナチス全盛時でした。
チャップリンは、その最中にヒトラーに反旗を翻し、映画を通して命がけのメッセージを伝えたのです。


OH!脳!

2007年04月19日 | ドイツ
昨夜はドイツから里帰り帰国したガイドさんと嬉しい再会でした。彼女は1999年のドイツ旅行の際にフランクフルトで出会いました。フライブルクに住む遠い親戚の所在捜索に協力してくれた恩人でもあります。

ドイツ企業が安い労働力を求めてポーランドに工場進出する一方、職を求めてドイツに移り住むポーランド人が増えているというお話。決めるまでは議論を尽くすが、一旦決まればたとえ反対意見だった人でも「公」に従うドイツ人のお話・・・など、語りつくせないほど話題豊富な夜でした。中でも印象に残ったのは・・・日本とは逆に「内側に開く」ドイツのドアの謎のお話です。こちらはいつか機会があればご披露することといたしましょう。

そんな中、もうひとつ面白かったのは・・・ケータイでメールを作る際には人間の脳は動いていない!との研究結果のお話でした。手書きで文章を書くとき、あるいはキーボードで文字入力する際にフル回転している「脳」はケータイでは働かないのだそうです。事務連絡には一番便利で早いケータイですが、行間に美しい情緒が漂う「お手紙」を書くにはケータイよりもパソコンの方が勝っているのかも知れませんね!

通話の延長線上の携帯メールと、手紙の延長線上のパソコンメール。あなたはどっち派ですか?


バルトの楽園

2006年09月22日 | ドイツ
映画「バルトの楽園」を見た。

青島で日本軍に敗れたドイツ兵は、日本国内の多くの捕虜収容所に送られた。捕虜の数は日に日に増加。やがて収容し切れなくなったドイツ兵の多くは徳島県の坂東収容所に送られた。あの坂東英二の出身地であると同時に私のワイフのふるさとである。

この映画はその坂東の地に収容されたドイツ兵と、地元の人々との心の交流を見事に描いた映画である。思えば徳島はお遍路さんの起点の地である。長い人を迎え入れる文化が他国の人に心を開く、今風に言えば「国際人」を育てていたのだろう。

坂東捕虜収容所の松江所長は、青島で見事に戦ったドイツ兵を同じ軍人として敬意を持って接した。その松江所長の人間的魅力の前に、かたくなだったドイツ兵たちも次第に心を開いてゆく。そんな坂東の人々にせめてものお礼にと、ドイツ兵たちは音楽会を開くことを決めた。演目はドイツ人の魂とも言えるベートーベンの「第九」である。

ひとつ問題があった。天才ベートーベンの第九は第四楽章に大掛かりな混声合唱が欠かせない。収容所の捕虜たちは・・・全て男性だった。音楽隊の隊長は直ちに混声合唱を「男性だけの第九」に編曲し直した。収容所の広場に集まった坂東の人々は、我が国で初めて第九を聞いた日本人となった。

後世に偉大な作品を残すための試練として、神はベートーベンに苛酷な運命を与えた。その耳の聞こえない作曲家が作った楽曲が日本の心を揺さぶった瞬間だった。

ベートーヴェン

2003年03月26日 | ドイツ
青藍で熱演の久元さん

青藍でのピアノコンサートのおりに、久本祐子さんから著作にご署名をいただきました。「世紀末の音楽風景」ー夢の喪失と演奏の現在ーその本を読み始めたところです。期せずして今日3月26日はベートーベンの命日です。私の「歴史の日」の中でも一番好きな文章をご紹介させてください。25歳のころ「運命」のレコードジャケットに書かれていた文章です。

ベ-ト-ベン没。五十六才 =1827年、ドイツ=
1827年3月26日、「喝采せよ、友よ、喜劇は終わった」と言い残して、ベートーベンはこの世を去った。一旦、ヴェーリング墓地に埋められた彼の遺骸は後に、1888年になってウィーン中央墓地に葬られた。

もちろんナポレオンという一人の英雄の出現が時代の要請であったように、19世紀初頭の音楽界もまた、18世紀の貴族中心型から市民中心型へ移行しようという変革の時代であった。18世紀の音楽愛好者にして芸術の保護者であった王候貴族の没落は、もはやすぐれた作曲家を雇い、彼等に命じて用途に応じた作品を作曲させるだけの財力と権力を失いかけていた。

こうした時代背景から見ると、ベートーベンの出現は、どこかナポレオンのそれに似ていなくない。しかしナポレオンは必ずしもボナパルトである必要はなかったが、ベートーベンはルードヴィッヒでなければならなかった。政治上の英雄は、時を隔てて見れば、時代を回転させた一つの歯車として観察し得るものであるが、芸術上の英雄は時代を超越して生きるその作品と共に、永遠の光彩を放っているのである。


天才に触れる日

2001年12月05日 | ドイツ
青藍、夢塾にて久元裕子さん

いつの日にか久元さんのモーツァルトのクラヴィーアを聞くのが夢でした。 年も押し迫った24日、その夢が実現するとは、私にとりまして何にも勝るクリスマスプレゼントです。

先週の12月16日はベートーベンの誕生日でした。余りにも有名な小曲、「エリーゼのために」 この曲を演奏したいと願ってピアノを習い始めた人も沢山いると聞いています。「エリーゼのために」がピアノ人口を増やしたと言っ ても決して過言ではありません。でもベートーベンの周囲にはエリーゼと名のつく女性 はいなかったそうです。エリーゼとは一体誰のことなのだろう・・・。

ベートーベンは32才の時に耳が聞こえなくなり、自殺を決意。そして一晩かけて遺書を書きました。 ところが夜明けの光の中で、心に鳴り響く音楽を聞き、自殺をやめて生きる道を選択したと言われています。その後38才の時に「運命」「田園」を作曲。40才の時に「エリーゼのために」を作曲。54才の時に「交響曲第九」を作曲。そしてその3年後、この世を去りました。

つまり、もし32歳の時に自殺していたら、これらの 偉大な曲はこの世に存在しなかったということです。ベートーべンはまさに曲を作るために生まれてきた人間なんですね。久元さんとピアノとの出会いも、もしかしたら、「エリーゼのために」だったのかなぁ、などと 勝手に想像してしまいました。

べートーベンが苦悩・努力の音楽家なら、モ-ツァルトはまさしく神がこの世に遣わした天才です。2001年、クリスマス・イブ。久元さんを通じてこの天才に触れる事のできる私は何と幸せ者でしょう。


お城

2001年04月29日 | ドイツ
まず欧州が地続きであるという地形上の特徴と、次にゲルマン民族の移動、ローマ帝国の支配という時間経過(歴史上の)特性を頭に入れる必要があります。世界中どこでもそうですが、まず表記された文字よりも会話(発音)する言葉の方がずっと先だという、あたり前の事も頭に入れて下さい。そこにキリスト教の布教が、これも文字ではなく、言葉と絵画を使って長い時間をかけて浸透してゆく。

それでも殴州の地形的・歴史的特徴は言語の統一を拒んだのです。それは、あんな狭い欧州に幾つの国語があるかをみれば明らかです。人々は大昔からあの山を指さして、「べルク」と叫んでいたことをイメージしてみて下さい。そして、それぞれの地方の方言が国語として完成した後ですら、つい近年まで欧州のあらゆる国の国境は、その時々の侵略者と供に変化し続けたのです。

さてこの侵略者が「城」の疑問を解くキーワードです。
日本にも戦国時代はありましたが、欧州の侵略者の蛮行に比べれば日本はまだまだ平和だったのです。600年も掛けて教会を作り続けるエネルギーは平和な民族には理解しにくいのです。

ブルクは、日本の城下町とは少しニュアンスの違う、むしろ外敵から守りの自衛共同体とした方が、特にドイツでは理解しやすいでしょう。さらにドイツのでは長子相続法ではなく分割相続法でしたので、国家の統一はビスマルクを待つ程時間が掛かったのです。ブルクがドイツ中に存在する所以です。

質問の要約は次の通りです。
> Schloss Nymphenburg。
> 新白鳥城はNeuschwansteun でSchlossはつかない。
> プファルツ城も Pfalzgrafenstein と言ってSchloss がつかない。
> シュターレック城はBurg Stahlechと言ってBurg がつく。
> 英語だと castle だけ。この3つの違いは何でしょう ?

まずberg(べルク)は山です。am bergで山麓となります。burg(ブルク)が城ですが、避難所という意もあります。先程書いたように、城壁に囲まれた自衛共同体です。ローテンブルクのイメージで解りやすいかな?burgerで市民となります。Schlossは鍵です。鍵も身を守るものです。そこから城、邸宅、宮殿に発展します。steinはstone岩です。塊まりとなって城壁を作り人々を守ります。

さてまとめです。
人々は身を守るため山(berg)のような城(burg)を作った。領主は領民の身の安全を守るかわりに税金を徴収し、堅固な岩(stein)で城(burg)の中心に壮大な館(Schloss)を建てた。
ドイツのburgにはSchlossがない場合も多いですがkircheとplatzは必ずあります。
そこで人々は集まりmeet、ミサmesseをあげます。このmeは人の集まりとか集合を意味します。幕張メッセのメッセも、元は平和への祈りのミサが語源です。

もうひとつcastleの生みの親はスペインです。カステラの語源でもあるカステーリャ王国の話はまた次回の楽しみという事にいたしましょう。


ミュンヘン

2001年04月27日 | ドイツ
白鳥城として知られるノイシュバンシュタイン城。
ノイはNEW、アルテブリュッケのアルテはOLD。 ミュンヘンにはこの新旧の名を冠した美術館が並んでいます。どちらかに行くなら、僕は迷わずアルテ・ピナコテークです。アルトドルファーの「アレクサンダ-大王の戦い」が大好きです。全く宇宙を見ているようです。

ミュンヘンって、古くはムニヘンと発音しました。ムニへンの名の由来は「僧侶たちの里」(dei den monchen)からきたそうです。だから市の紋章には右手にビールのジョッキを持った僧侶が描かれています。修道院の町だったんです。

欧州はラインとドナウの二大河で語れます。
ハイデルベルクのアルテブリュッケはネッカー川に掛かっていますが、マンハイムでラインの本流と合流。
ローテンブルクのタウバー川はマイン川となってマインツで合流。
更にコブレンツでモーゼル川を加えて最後はロッテルダムに注ぎます。
ところがミュンヘンを流れるイザール川はライン川ではなく、ドナウなんです。

ドナウ川の源流はドナウエッチンゲン。アウグスブルク辺りでフュッセンから流れ出たレッヒ川と合流、更にこのイザールと合流した後、ウイーン、ブタペストを経てはるか黒海に注ぎます。全長2860Km。

ロマンチック街道の名だたる都市がこの欧州の二大河川で語れてしまいます。この欧州一のドナウ川の長さは世界では20番目。一位は6690Kmのナイル川です。


誰が地球を救う。ヨハネの黙示録

2000年06月03日 | ドイツ
分別されたゴミ、ゴミ、ゴミ・・・

そして私は、海から一匹の野獣がやって来るのを見た。それは、10の角と7つの頭を持ち、それぞれの頭には神を侮辱する名前があった。(中略)竜がその権力を野獣に与えたため、すべての人々は竜を崇拝した。人々はその野獣をも崇拝し、そして言った。
「誰がこの野獣のようになれるのか。誰が野獣に逆らって戦うことができるのか」 〈ヨハネの黙示録 第13章1-4〉

ケルン郊外の家電リサイクル工場を訪問いたしました。大規模ではない分、大まかに分別された部品が所狭しと山積みされておりました。(添付写真) そして分別されたゴミ箱の中は、誇らしくも?日本製の部品と日本語がギッシリ。

でも、つくづく考えてしまいました。大体、アルミもプラスチックも水銀も、一体どこから来たのでしょう。恐らくこれからも人間はもっともっと便利なものを作り続けるに違いありません。そして物を大事する暇もない程、ハイテク製品を買い求め続けるのでしょうか?夢敗れて山河ありどころではありません。便利の後はゴミだらけです。快適って何ですか?

2050年、地下水の中に、前世紀末の人々が埋めたゴミの中から有害成分が交ったというショッキングなニュースが流れた時になってやっと、人類は、遠い昔小供の項、運動会の前に、家の前の小川の水の冷たさに、手を真っ赤にして運動靴を真っ白に洗ってくれた母のぬくもりの記憶を思い出すのでしょうか?


三つ子の魂、百まで

2000年06月02日 | ドイツ
フライグルクの幼稚園

ドイツ、フライブルクで幼稚園を訪ねました。どうやらドイツ人の環境保護に対する関心の高さは、幼児の項からの教育の仕方によるところが大きいのではないか、ということで訪問のはこびとなりました。

この幼稚園では、何より子供の自主性を優先し、自分の行動に責任の持てる子供を育てようと、やさしい保母さん・保父さんが生き生きと頑張っていました。そのためか欠席する子供はなく、子供達は毎日楽しみに幼稚園に通って来るのだそうです。誕生日のお祝いも、手作りのお菓子などを持ち込んで、必ず一人一人を祝います。その日ばかりは、その子が主役。人に祝ってもらう事の喜びを通じて、人にはどうしてもらうと嬉しいのか、またどうしてあげると喜ばれるのかを自然と理解してゆきます。
自分がされたらイヤな事は人にはしない。そんな思いやりの心や社会性が幼稚園の頃から育ってゆきます。自然に対する思いやりも、その延長線なのです。よい小学校へ入れるために、幼稚園を選び、そんな小さなうちから九九や英語を教えているどこかの国とは大違いです。写真のようにグループに別れて工作したり、お絵かきしたり。グループは年齢別に分けたりしません。自発的に年長園児が年下の子供の面倒をみます。

これならいじけていじめられる子も、ゆがんでいじめる子も、ここには無縁のように感じたというお話でした。


夢の実現

2000年06月01日 | ドイツ
ミラさんの母ツネ、祖母ヤス、祖父グロッセ


「大逆転」
と題し、ドイツの又いとこ=ミラさんの捜索について書かせていただきましたのは、昨年の10月のことでございました。お陰様で、それ以来、この遠隔地の親戚との交流は復活し、手紙のやりとりをしております。

昨年の「あの時」、「またの訪独と更に今世紀中の再会を約束して」長い電話を切ったのですが、実際に約束が果たせるのはせいぜい定年後のことであろうと思っておりました。それがなんと僅か半年でその夢が実現しようとは、思いもよりませんでした。昨夜、私は彼女達家族が住む町、フライブルクに宿泊しました。そして、激しい雨の中、彼女の家を訪ねたのです。

フライブルク市内を一望できる丘の上に立つ彼女の家には、日本人である彼女の祖母や母親の思い出が大切に保管されておりました。とりわけ、祖母=私の祖父の姉=ヤスが遥かドイツに嫁ぐ際、はるばる日本から運んだ和だんすが、百年の時を超え、なお堂々とその輝きを失っていないのを見て、私は言葉を失いました。

更に、第一次世界大戦の戦禍の拡がる中、一人娘のツネ=ミラさんの母を連れて日本ヘ避難しようとしたその前日、爆撃により旅券を消失し帰国が果たせなかったという話を聞き、教科書で学んだ歴史が急に現実味を帯びてきて、身震いをいたしました。

ヤス、グロッセ、そしてツネの写真が複写出来ましたので添付させていただきました。まさにセピア色をした歴史の証明に、皆様それぞれのこの100年の時の流れを重ねていただければ幸いです。

大逆転

1999年10月26日 | ドイツ
私の父方の祖父、政三の姉ヤスはフライブルグ大学教授、エルンスト・グロッセと国際結婚しました。ヤスの孫は二人姉妹で、姉がフライブルクに、妹はベルリンに住んでいました。今を去る事15年前、二人の姉妹は自分達のルーツを探る為、はるばる日本を訪れました。そして伊豆、河津町の自分達の祖母が遠い昔生まれ育った家で、異国の従兄弟達との対面を果たしたのでした。

その時私は34才、東京都内の案内役を引き受けました。それから今日まで15年という長い年月が流れました。ところが、せっかく果した「異国の家族」との出会いも、ドイツと日本の余りに遠い距離と言葉の壁とにより、再び疎遠になっていったのです。

私が、その昔不安いっぱいに異国へ嫁いだ「おじいちゃんのお姉さん」の気持ちを・・・そしてそんなルーツを共有する「異国の又いとこ」の気持ちを・・・思うにつけ、この家族交流のきづなを途切らせてはならないと思うようになったのは、自分自身も人の親となり、家族を意識するようになったからなのでしょうか。ところが姉妹共に居を変え電話番号も変ってしまい、二人の、その後の足取りは全く分からなくしまったのです。

今回、ドイツ、フライブルクを訪れる機会を得て、私なりの「捜索」が始まりました。ドイツ語ができない私にとって、名前と昔住んでいた住所だけが手掛かりの「捜索ゲーム」でした。しかし、苦労の揚げ句、ついに姉=ミラさんの新しい電話番号を突き止めました。今、思えば、ドイツ語の分かる友人に頼めばもっと簡単だったのかも知れません。でもヘタな英語を使って、私は「ゲーム」に勝ったのです。

電話の向うで「貴方に案内していただいた東京タワーの事は忘れるものではありません」と言う彼女の声は、突然の電話に驚いたというよりは、むしろ涙ぐんでいるように聞こえました。皮肉にも、彼女の住む町フライブルクに滞在中にはどうしても解らなかった電話番号は、次の訪問地バーデンバーデンを去る晩になってやっと解ったのです。

今は、再び復活するかも知れない「家族のきづな」を、子供達がより発展させてくれることを期待しながら、捜索ゲームに勝利した喜びを噛み締めています。再度の訪独と、更に今世紀中の再会を約束して、長い電話を切ったのでした。

再会=夢の実現

ドイツ最終レポート

1999年10月26日 | ドイツ
地下のごみ処理場

フランクフルトにて最終日の朝を迎えました。

昨日は大変貴重な視察をしました。何と地下220mまで潜って、2億年前の地層部分に行ってきました。そこは岩塩の採掘場です。直堀りで何と純度92%の良質な塩が採れるのです。しかし驚くのはその後です。ドイツ人はその塩を掘った後の穴をゴミ捨て場にしたのです。ゴミを再生し、極力再利用したあと、どうしても残ってしまう化学的なゴミ、いわゆる有害とされるゴミを薬品で処理した後、地表深くに埋めているのです。

写真は、これまで掘られた区画とゴミを埋めた区画とをコンピュータで一括管理している表です。埋めた後は岩塩を精製した後のカスでシールドします。あとは巨大な岩塩層が完璧に地上への影響を永遠に遮断してくれるという訳です。ここでもドイツ人の「地球を守る」姿勢を見せつけられました。