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Tabi-taroの言葉の旅

何かいい物語があって、語る相手がいる限り、人生捨てたもんじゃない

家族、祖国のため死ぬ

2015年06月29日 | 下田
祖母、33回忌 海善寺


「語り継ぐ、伊豆の戦争」という特集で伊豆新聞5月24日版に父の手記が掲載されました。
戦後70年の節目の年・・・戦争について、平和について考えさせられます。


嬉しいお言葉に、編集の苦労が吹き飛びました

2014年09月27日 | 下田
IHNS研究会OB会の皆様と


「伊豆下田にて戦争体験を聞く」旅から帰り、
旅の動画を製作・アップいたしましたところ、
同行の大先輩より、身に余るお褒めのお言葉を頂戴いたしました。

感謝を込めて、その全文を原文のまま掲載させていただきます。

 山下監督のいつもながらの安定感のある作品に、まず感嘆しました。
 黒澤明監督、小津安二郎監督それぞれに独自の作風を確立していますが、
 山下監督においても独特の作風を完成させていると思います。
 頭の中に描いた脚本に従って、撮り進め、時に柔軟・臨機応変に目の前の風景・出来事に反応する。
 景色はあくまでも美しく意味深く。
 登場人物はやさしく、万遍なく捉えられ、一瞬の表情を記録しています。
 そして、編集においては適格なスーパーインポーズで見る者を納得させ感動させます。

 また、音楽は否が応でも旅情を高め、心に響く選曲で風景と相まって心に沁みわたります。
 視覚だけでなく聴力にも訴えます。
 終盤に、夕映えあり星座やライトアップされたモニュメントなど、
 定番の設定が現れてエンディングにいたります。
 これらが集大成されて、山下監督の安定感ある作品を生み出します。
 見る側の気持ちを十分配慮した気配り、心配りが見られます。
 こんな作品を数多く作り続けられる機知と発想とバイタリティそして細やかさに、心から敬服しています。
 これからも素晴しい作品を撮り続けていただくことを願っています。
 また、宝物が増えました。有難うございました。


動画前編:日本の夜明け(所要7分40秒)


動画後編:戦争体験を聞く(所要8分30秒)

ルーツもまた旅人

2013年01月14日 | 下田
昭和27年の田植え風景


田植えの写真が撮られた僅か二年前、当時は賀茂郡下田町だったこの家で私は生まれました。
今は下田市となり、道路も広がった生家の傍にこんな慰霊塔が建っています。



昨年の秋、一見お墓のようにも見えるこの慰霊塔を父が補修・移設しました。
慰霊塔の再建を祝して、ご近所の先輩が詠んだ一首が元旦の伊豆新聞に掲載されました。
 「苔むして反る供養塔場を移し真直に立つ新しきかほ」


慰霊塔左側面には発願主の名前が刻まれています。



下田市役所の戸籍簿を辿りました。
文雄(大正12年)~政義(明治36年)~春次郎(明治9年)~福次郎(嘉永2年)~紋助(文政6年)
現存の戸籍簿ではここまでしか辿ることができません。
供養塔にその名を刻んだ山下紋助(1823-1905)は、当家の五代前の祖先でした。


苔むした供養塔、驚いたのは正面に刻された「奉納経 西國、四國、秩父、坂東」の記載でした。




いにしえより日本の代表的な霊場として知られる
西国三十三所、四国八十八箇所、秩父三十四箇所、坂東三十三箇所・・・
祖先紋助は、電車も飛行機もないその時代、既にこれら四大霊場を旅をしていたのです。

明治23年(1893年)3月、70歳にしてこの供養塔を建立し、供養のお経を奉納した紋助は、
その後、更に12年の歳月を生きて82歳で没しました。

五代前の祖先もまた旅人だったと知り、旅を仕事としてきた自分のルーツを見た思いがしました。

歴史の現場証人

2007年03月28日 | 下田
冒頭でご挨拶される東條由布子さん

「ぞめきの消えた夏」というお芝居を観劇したことは、春分の日のブログに書いた通りです。戦時中、徳島市内から、ぞめき=阿波踊りのお囃子=が消えたことをモチーフにした実に感動的なお芝居でした。先日、その舞台の脚本を書かれた草部文子さんよりのお誘いにより、ご出演の役者さんたちを囲んでの「打ち上げの会」に参加させていただきました。
その時のことです・・・・

かつて日本にも徴兵制度が存在しました。それでも、学生だけは、次代の日本を背負う頭脳だから・・・と、徴兵は免除されていたのです。ところが、戦況も益々悪化の一途を辿る中、ついに学生への徴兵猶予停止が発令されました。近代史に名高い「学徒出陣」です。

昭和18年・秋
10月21日、小雨のそぼ降る神宮外苑競技場で壮行学徒の出陣式が挙行された。グランドに整列した、今や凛々しく軍服に身を包んだ、若き学生に向って、時の総理大臣、東條英機は「若き肉体・血潮を捧げ、悠久の大義に生きよ」と訓示した。

平成19年・春
「戦争を語り継ごう!」と頑張っている劇団がある。その心に残るお芝居の打ち上げ会でのことだ。席上、冒頭のご挨拶をされた一人のご婦人の、何とも言えない気品に満ちた横顔に釘付けになった。

そのご婦人の名は東條由布子さん・・・
神宮外苑競技場で、学業半ばにペンを銃に代えた若き学徒を激励した東條英機さんのお孫さんその人でした。「お父様が長生きなさいますように」と、嬉しいお言葉をお掛けいただきました。

その夜、この嬉しくまた感動的なお言葉を伝えるべく田舎の父に報告しました。「色んなご縁が広がって、有難いことだね」そう言って喜ぶ父は、あの日、確かに神宮外苑のグランドであの「演説」を聞いた学徒の一人だったのです。

こうして私は・・・
遠い昔、あの東條英機首相の生の声を聞いた、そして長きを生きてなお戦争を語り継ごうとする「歴史の現場証人」お二人の今の声を、それも同じ日に聞くという奇跡を経験したのです。63年の時は流れ、また桜の季節が巡ってまいります。


ふるさとからの便り

2006年08月08日 | 下田
朝から大雨、またダムが切れました。今年は当番で雨の度にダムを見に行きます。
もう4回目です。随分雨の多い年です。お父さんは大変です。
ご近所で田んぼを作っているうちは、下出、西、長兵衛、市兵衛、新井屋、うち、稲荷、この7軒です。
当番は一年送りで、今年が済めば当分いいか。
何時まで米作りが出来るか。
自分は気付かない中に歳をとっているのです。体力の限界を感じます。
私がはたでハラハラ、だまって見ていられなくてつい、口を出してしまう。
でも、私だって畑仕事はやっていますよ。

この間、墓掃除に行った。びっくりした。
墓のまわりのコンクリートの間から、わんさと草が盛り上がっているではないか。どうしよう。とるしかない。
汗がポタポタ、首に巻いたタオルがぐっしょりだ。疲れた。腰を下ろして一服だ。
ふと前を見る。なんと前が見えない。
梅、椿、山茶花などの木が大きくなって、それにつるがぐるぐる巻きして、クチナシの木は枯れちゃっている。
お父さんの研いでくれた鎌が良く切れるので、頑張って立ち上がった。バリバリバリバリ、、、、
つるを天から引きずり下した。だってしょうがない。やるしかない。もうへとへとだ。12時のチャイムが鳴った。

帰り道、つくづく思った。若い人たちには無理だろう。
せめてお墓のコンクリートを間に詰めたら、草押さえになるだろう。お父さんに相談しよう、と。
それにしてもおばあちゃんは偉いもんだ。一言も愚痴を言わなかった。
こつこつと、黙って働いた。感謝。いつも「仕事が待ってるよ」笑って言った。働き者だったなあ。

おばあちゃんの歳を越えた。80歳になった。しっかりしよう。

年寄りも頑張っています。若い僕たちももっと頑張らなくっちゃ、と、そう思いました。


伝えたいこと・・・伝えたい人・・・

2006年01月05日 | 下田
元旦の初詣では白浜神社に行ってまいりました。生憎と初日の出は見えませんでしたが・・・神社の参道でこんな素敵な「立て札」を見つけ、早速、メモいたしました。

「言葉を大切にし美しい言葉を使っていますか」
「仕事に感謝し世の為人の為に働いていますか」
「目に見えない神様を信ずる勇気がありますか」


情報はどこにでもころがっています。
誰かから、おもしろいメッセージは来ないかなぁ、と待っているよりも・・・
へたでもいい。誤字脱字があってもいい。
タイミング遅れでもいい。電話でもメールでも葉書でもいい。
「何かいいこと」を伝える仲間がいるって、最高ですよね!!

戦後60年の意味

2005年12月18日 | 下田

映画「男たちの大和」を観てきました。戦艦大和の沖縄出撃もまた特攻でした。3000名を超える乗組員の中で生き残った人は270余名・・・そして今なお、その内の20数名がご存命だそうです。それぞれの思いを胸に秘めた乗組員たちが甲板に勢揃いして艦長の訓辞を聞くシーン。感動の域を遥かに超えた素晴らしい作品です。

生きて帰ることの無い出撃の訓辞が終わると、全員が一糸乱れずに艦長に向かって「敬礼」します。そこには、今とは別の日本人がいました。あの「男たち」がいて、今の私たちがあるのだと実感しました。映画館の雰囲気そのものが今までの映画とは違っていました。ポップコーンを食べる人も、おしゃべりをする人もいません。会場中が画面と向き合っていました。そして、周りから聞こえるすすり泣き・・・もう、僕も・・・流れる涙を隠す必要はありませんでした。

この映画のお蔭で、戦後60年の意味が、55歳を越えてやっと私なりに整理できたような気がします。既に半分以上生きてしまいましたが、残りの人生を生きるための「明確な指針」をこの映画からいただきました。ぜひとも皆様にもお勧めしたいと思いメールさせていただきました。それでは皆様、素敵なクリスマスと良いお年をお迎えください。

藤木先生の講演会報告

2005年08月10日 | 下田
「私が出会った偉大な創業者たちの顔」を講演する藤木先生

2005年8月10日、池内氏の講演会報告。

昨日(8月9日)、「藤木相元先生の講演会」を開催しました。参加されました方には、お礼申し上げます。藤木相元先生は、達磨大師の「観相学」を研究して60年の世界的な権威者です。大正12年生まれの「82歳」で、とても元気な方です。今回の講演は「私が出会った偉大な創業者達の顔」のテーマに90分にわたり話がありました。

戦後、沖縄で遺骨収集の作業をしているときに、小林一三(阪急)に出会い、それが縁で「日劇ミュージックホール」に関わりGHQとの話。松下幸之助(松下電器)には、東京工業大学に入れてもらい、ドイツへ留学したときの体験談。盛田昭夫(ソニー)と井深大(ソニー)には、資金提供者として小説家の野村胡堂を推薦したこと。本田宗一郎(ホンダ)は、虎ノ門病院の病室で、外を走るバイクの音を聞いただけで、ホンダのものか、ヤマハのものか、エンジンが壊れているかなどが分かった。というエピソードの話の数々を興味深く聞くことができました。

引き続き開催された「懇談会」では、参加者の半数の方々が出席し、藤木相元先生を囲む懇談のひとときをもちました。今回、藤木相元先生の話をぜひ聞きたいと、静岡県の下田から上京され参加した文雄さん・絹枝さんご夫妻(taroさんのご両親)は、最後まで楽しんでおられました。講演担当の藤木相元先生と佐野生光先生。参加いただきました沢山の方々。進行役を担当してくれたtaroさん。皆様方のご支援で無事終了できましたことをお礼申し上げます。

日本の美、棚田

2005年05月08日 | 下田
動けば動いただけ良いことがあるものですね!土・日は最高の天気に恵まれ、故郷再発見の旅でした。伊豆、西海岸・・・松崎から少し南下したところに石部という集落があります。ご存知の方も多いでしょう。雲見のすぐ北の村です。そこには小さな小学校があって、従姉妹が先生をしています。

その彼女が私の実家にカーネーションを持って立ち寄ってくれました。私が、先生の仕事も大変でしょう?と聞くとこんなお話が返ってきました。

「生徒数が減少して、今は全校生徒40名だよ」
「でも自慢は棚田・・・それは見事なの」
「小学校の教員なんてしていると、海外旅行なんて夢の又夢。
未だに外国はどこにも行ったことはないけど、私の学校のある村の棚田の美しさは世界中どこにも負けないよ」

そこまで言われたんでは!と、パソコン教室は中断。今から行けば、ちょうど夕日が見れるかも、ってんで、親子三人で出掛けて見たんですが・・・・な、なんとビックリ!!伊豆を知らな過ぎました。村人たちが丹精を込めて手入れした100を越える棚田は、折しも美しい夕方の日差しにその水面を輝かせておりました。日本にもこんな美しい景色があったんだ!この村では5月20・21日の両日で、村人こぞって全ての棚田で田植えをするそうです。

雲一つない駿河湾に沈む夕日と、白波の向こうにすっくと聳える霊峰富士。そして、この美しい棚田の画像を「最新の画像」にアップしました。久々の自信作です。

父のページ

2004年10月25日 | 下田
「ふるさとの四季」のサイトに戦争を語り継ぐ父のページを追加しました。

このページで流れるBGMはさだまさしさんの「戦友会」という歌です。歌の一番と二番の間の間奏の時に、歌詞の間にある飛行機をクリックしてみてください。最後の早慶戦で歌われた「海ゆかば」や「学徒壮行大会の実況放送」、さらに「草薙隊の大塚さんの出撃当日の手紙」などの音声メッセージがお聞きいただけます。

元気だと思っていた父も、この4月に一緒にヨーロッパを巡った際に、やっぱりそれなりに年をとったのだなあと随所で実感させられました。そんな父が元気なうちに、父のライフワークとも言える「戦争を語り継ぐ」をテーマにしたサイトを記録し、それを永久に保存することが息子としての義務に思えたのです。

幸運にも、若干20歳の父の軍服姿の画像も入手できましたのでそのページに掲載させていただきました。さだまさしさんが歌う、この哀愁に満ちた歌を背景に特攻機の爆音を聞く度に、国の為に若くして散っていった先人たちに対して、ただただ感謝の念が込み上げてまいります。

近代日本は伊豆から始まった

2003年01月02日 | 下田
下田湾の夜明け

下田湾の日の出を撮影してまいりました。以下、元旦伊豆新聞よりの引用です。

150年前のこの湾はまだ深い眠りの中にあった。1854年3月、ペリー率いる黒船艦隊が伊豆の下田港に次々と入港、長い鎖国が続いた日本に開国の一歩がしるされた。日本に新しい夜明けの到来を告げた記念すべき瞬間だった。来年はその開港から150周年を迎える。

下田開港から明治改元までは14年間であった。日本史上例を見ない疾風怒涛のドラマがこの間に繰り広げられた。それはいわば、時代閉塞の現状を打ち破るために「公」に目覚めた人びとの物語だった。いま日本は外務省騒動にみられた政界の混迷腐敗、さまざまな企業不祥事、不良債権処理が進まない打ち続く不況、さらにグローバリゼーションの世界的な流れの中で、進むべき道を失い、当時と同じような閉塞感の中にある。

下田開港150周年を来年に迎えるにあたり、下田開港が時代突破の象徴となった故事を思い出し、現今の閉塞感を打ち破るメッセージを伊豆から発信したい。

ふるさとからの便り

2002年11月07日 | 下田
どんなに久しぶりでも、どんなに短いメールでも、その行間に無限の周波数を感じることがあります。そんな時、同じ文章を何度も読み返す人間もいるんです。

さて、下田市市長公室から便りが届きました。題して「リメンバー下田」。 ふるさとを離れて頑張る全国各地の下田出身者へ配信されるこの便りも、今回で92号となります。ちょっとだけご紹介させてください。「今はもう秋」と題された石井直樹市長(青学卒)の挨拶の最後の部分です。

あぜ道を赤く染める彼岸花、金色に風に揺れる稲穂、山裾を彩る紅葉、そして路傍に咲く秋の野草。四季の移ろいを実感できる下田。皆さん、久しぶりに静かなふるさとを味わってみませんか。」

今回のトピックスは「天皇陛下ご一家 須崎御用邸でご静養」初めて下田入りした愛子さまの写真が掲載されておりました。

黒船祭り

2002年05月19日 | 下田
黒船祭り式典

ふるさと伊豆下田へ行って参りました。ご縁あって「第63回黒船祭り」記念式典に参列の光栄を得ました。思い返せば、幼少の頃、町に溢れる米軍水兵さんにヨーヨーをプレゼントされたのが、外国に興味を持つきっかけでした。

以来、旅行業を通じ、たくさんの外国の人たちと心の交流を続けてまいりましたが、その原点ともいえる黒船祭りが、あの幼かった頃と同じ形で日米の心の交流の機会を提供し続けていることを目の当たりにして、ふるさとで働く仲間たちが誇らしく、また心から感謝したい気持ちになりました。

たくさんのご来賓のご挨拶の中で、特に印象に残ったお二人(在日米海軍司令官、ニューポート市議会議員=女性)の祝辞の一部をご紹介します。国際交流とは何か? 異文化の理解とは・・・150年前のペリー提督が、今の私たちにまた一つ大切なことを教えてくれました。


在日米海軍司令官 ロバートC、チャップリン少将挨拶(抜粋)

 1854年3月31日、日米和親条約が締結された時、下田はアメリカ人に開放された最初の港になりました。以来、下田はアメリカの船員にとって人気のある港になりました。ペリー提督は、その港の美しさと、街並みが整っていて綺麗であることを称えました。そして選ばれるべくして選ばれた最良の港だと述べました。
 この港は外洋の影響から守られ、出入港が易しく、黒船を停泊させるにも充分な広さがありました。ペリー艦隊の水兵も海兵隊員も下田の人たちが礼儀正しく、心が暖かく、人懐っこいことを知りました。彼らは、後々まで下田と下田に住む人たちの魅力と暖かさを享受した多くの水兵や海兵隊員の第一陣になったのです。
 日米両国の友情をこの下田の地でお祝いできることは、真に尤もなことなのです。なぜなら、この地で最初に日米の誠実な関係が生まれ、この地で地元の人たちが、何度となく、異文化を持つ外国の人たちとも友情の絆を結ぶことが出来るというお手本を見せてくれたからです。



ニューポート市議会議員 ジーンマリー・ナポリターノさんの祝辞(抜粋)

 ニューポート出身のマシュー・ガルブレース・ペリー提督は、優れた国際的な海軍士官であり、1854年の日米和親条約の締結を実現したその先見の明は、今日、誰もが認めるところでございます。
 この条約の締結を記念して1934年に開始された黒船祭りは、以来、私たち相互の敬意と友情を深めるのに大きな役割を果たし続けております。異文化に対する相互理解の重要性を若い人たちにこそ理解していただこうと、ニューポート市と下田市は互いに文化交流を続けてまいりました。
 私たちは、下田市民の皆様がかつて私たちの町出身のペリー提督に下さったと同じ温かなご厚意と敬意とを、今も変わらず私たちにいただいていることに、心から感謝申し上げる次第でございます。



藍綬褒章

2002年04月29日 | 下田
新緑の香りもさわやかなこの頃、去る4月29日はみどりの日でした。
昭和天皇のご誕生日であるこのこのみどりの日に先立って、例年、春の受勲者が発表になりますが、実は、私の父が藍綬褒章をいただくことになりました。静岡の友人が送ってくれた「静岡新聞」と「伊豆新聞」の記事をご紹介させていただきます。

学徒動員による特攻隊の生き残り。敗戦の知らせに、戦友たちと自決を決意した。理屈や説教では心の扉は開かないと、常に同じ目線で接してきた。例えば、暴走族。「おじさんに僕たちの気持ちはわからない」と言われたが、飛行機の爽快な体験を話すと、目を輝かせ「それなら話すよ」と心を開いてくれた。罪を犯した若者たちとは、自分の子供と同様に真剣に向き合うことを心掛けてきた。そして、若くして死んでいった特攻隊員たちの気持ちを代弁し、命の大切さを諭した。優しい親切な心を身に付け、行動を積み上げていくことが、犯罪のない明るい社会づくりにつながっていく。

水仙の事

2002年01月16日 | 下田
爪木崎の水仙

水仙にまつわるお話です。
田舎の父は土手の草刈りをします。 家の前だけ刈ればよさそうなものを、約1Kmの土手の全部を刈るのです。 もちろん電動の草刈機を使うのですが、楽な作業ではありません。 本人は代わりに健康を貰ってると、苦にしてません。

母から聞いた話です。 ある日、一人の釣り人が我家を訪ねました。 定年後、近くに移り住んだ都会の人です。 その日の収穫である一匹のシマアジを差し出した釣り人が母に言ったそうです。

私は最近東京から越して来た者で釣りとジョギングを趣味にしています。 この魚は、毎朝キレイに手入された土手を気持ち良く走らせていただいているお礼ですと・・・ 母は名も知らぬその釣り人を呼び止めて、自分で使った野菜を差し上げたのだそうです。

その父が爪木崎の水仙の苗を入手し、小学生と共に土手に植えました。 下田で水仙まつりが開催されるこの時期、父と子供達が植えた土手の水仙もまた辺り一面に甘い香りを漂わせ、走りゆくマラソン人を楽しませています。