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Tabi-taroの言葉の旅

何かいい物語があって、語る相手がいる限り、人生捨てたもんじゃない

歴史に翻弄された三つの宗教の聖地

2008年02月17日 | 歴史
オリーブ山からエルサレム旧市街を望む

イスラエルは過去何千年もの間、数々の紛争の舞台となってきた。世界でも最も戦闘が多いといっても過言ではないこの国に、唯一世界遺産に登録されているものがある。首都エルサレムの中の旧市街地である。

3000年もの歴史を誇る世界最古の、そして面積1平方㎞に過ぎないこの小さな旧市街地は、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三つの宗教の聖地である。街の東側にあるオリーブ山に登ると、ユダヤ教のシナゴーク(寺院)、金色に輝くイスラムのモスク、そしてキリスト教の教会が同時に目に飛び込んできて圧巻だ。

イスラエルの全人口の5分の4を占めるユダヤ人たちにとって、もっとも聖なる場所が「嘆きの壁」だ。これは市街の南東のはずれにある高さ21メートル、長さ60メートルもの巨大な石の壁で、この前で祈りを捧げるのである。嘆きの壁は、その昔、イスラエルの王だったダビデと息子ソロモンがモーゼの律法の石板を収めるために建設した神殿の一部だ。へロデ王の時代にはもっとも壮麗な姿を呈していたが、紀元70年と135年の二回、ローマ軍によって破壊されてしまった。そして、このときユダヤ教徒はエルサレムヘ二度と立ち入ることができなくなり、全世界へと離散したのだった。その後、四世紀に入ってから一年に一度だけ、破壊された神殿のうち唯一残されたこの西側の壁だけに立ち入ることが許されるようになったのである。

イスラム教徒にとっての聖地は黄金色を誇る「岩の神殿(モスク)」である。モスクの中には長さ17.7メートル、幅15.4メートルの巨大な岩が安置されている。この岩は、ユダヤ民族をつくったアブラハムが息子イサクを神の生けにえに捧げた場所だった。また、シメオンが幼いイエス・キリストを抱いて神を讃える言葉を捧げたのもこの神殿である。さらにイスラム教の聖典コーランには、予言者ムハンマドが天国へ旅立ったときの岩と記されている。つまり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教三つの宗教がこの岩に関係している。結局、7世紀にイスラム教徒がこの地を手中に収め、モスクを建てたのであった。
 
旧市街地内にはキリストが十字架を背負って刑場のゴルゴダの丘へと歩いた一キロメートルの道、ヴィア・ドロローサが残されている。行き着いた先に「聖墳墓教会」がある。これがキリスト教徒の聖なる場所である。ここはローマ帝国のコンスタンティヌス大帝の母親が335年に建てたものである。現在の姿は12世紀、十字軍の占領によって再建されたもので、キリストの遺体に油を塗布した石などが展示されている。

予言者マホメットが昇天し、イエス・キリストが十字架にかけられ復活した神秘の地、エルサレム。この地が真に聖地となる日は果たして本当に来るのかどうかは、誰にもわからない。

栄光の数字13

2008年02月13日 | 歴史
一般的に13という数は忌み数と言って特に欧米では不吉な数とされています。その起源をたどれば、古くは紀元前1760年頃に編集されたハンムラビ法典でも既に第13条が欠けていたのだそうです。12ヶ月、12方位、12時間など暦の必要性から重用された12に対し、その直ぐ隣の素数である13は調和を乱すものとして不吉な数と考えられたようです。

13という数字は聖書でも特別の意味を持っています。イエスを裏切った弟子のユダは、最後の晩餐で13番目の席についたとされますし、またイエスが十字架に架けられたのが13日の金曜日だとする俗説もあります。日本でもGHQにより巣鴨拘置所に設置された絞首台の階段の数から、「13階段」は死刑執行を意味する隠語となっています。

でも、数々の困難を克服したアポロ13号の奇跡の生還のドラマは不吉な13を栄光の数字に変えました。

トム・ハンクス演じるジム・ラベルは、まずアポロ8号に乗り、月の裏側を初めて見た人間の一人になりました。アポロ計画では、当初14号の船長になるはずでしたが、13号のアラン・シェパードの耳の病気のため、急遽それぞれの3人のクルーがそのまま入れ替えとなりました。

当時、「13」という数字に対する迷信は根強いものがありました。まず打ち上げ予定日の70年4月11日。数字を全部足すと7+0+4+1+1で13になります。打ち上げ時刻が13時13分00秒(ヒューストン時間)。宇宙船が月の引力圏に入るのが4月13日(実際、事故はまさにその日に起きました)。13号に乗るはずだったケン・マッティングリーがジャックに交代した結果、乗組員の3人の名前(James,Fred and Jack)のスペルを足すと13文字。ケンが搭乗できなくなった原因の“ドイツはしか”(German measles)も13文字。

順調な飛行が続いたものの、月までの行程の6分の5を過ぎた4月13日午後10時、鈍い爆発音とともに予期せぬアクシデントに見舞われました。支援船の酸素タンクの一つが爆発。同時に3個あるうちの燃料電池2個までが電圧を失い、電力を供給できない状態になってしまいました。つまり、酸素と電力という宇宙飛行の生命線がほぼ断ち切られてしまったのです。

アポロ13号は月面着陸を中止し、月の周回軌道を利用して、打上げから5日23時間後に地球に奇跡の帰還を果たしました。そしてこの事故は後に“輝かしい失敗”と呼ばれるようになったのです。「米国の科学技術の底力は、11号の月面到達よりも、13号の事故に対する対処の仕方によって証明された」と言われる所以です。

地球に帰還したジム・ラヴェル船長が記者会見の冒頭で語った言葉です。『最初に申し上げておきますが、私は迷信を信じる男ではありません』

映画「マリア」(The Nativity Story)

2007年12月02日 | 歴史
映画「マリア」を鑑賞してきました。キリスト誕生までの母マリアと夫ヨセフの美しい夫婦愛の物語です。大変に感動しました。ジーンと心が暖かくなりました。

キリスト誕生の物語は「マタイの福音書」と「ルカの福音書」に記されています。パレスチナ北部、ガリラヤ地方の寒村ナザレの人々はヘロデ王による熾烈なまでの税金の取立てに苦しんでいました。十代のマリアは父ヨキアム、母アンナから、大工ヨセフとの婚約が整ったことを告げられます。「愛してもいない、よく知らない男」との結婚話に取り乱したマリアに、天使ガブリエルがそっと囁きます。「あなたはやがて身篭って、男の子を生むだろう。イエスと名付けなさい。その子は神の子と呼ばれる」。人間の理解を超えた処女受胎の告知です。

ペルシャでは東方の三博士・・・学者のメルキオール、通詞ガスパール、エチオピアの天文学者バルタザールが惑星の整列を追ってユダへの旅に出ます。エルサレムの従妹エリザベートは高齢にも係わらず奇跡的にヨハネを出産しました。ローマ皇帝アウグストゥスが徴税のために住民登録を命じたことにより、ヨセフは登録のためにマリアを連れて先祖ダビデの町ベツレヘムまで、200キロの長く険しい旅に出ます。

三つの星が一列に並び、強烈な明るさを発する一つの星となった時・・・の預言の通り、貧しい家畜小屋の飼い葉桶の中でイエスは生まれました。黄金、乳香、没薬の贈り物をした東方三博士は「神が人間になられた!」と宣言しました。「救い主」誕生の預言に怯えたヘロデ王は幼児の大虐殺を命じます。天使ガブリエルがヨセフに忠告します。「目覚めよ、ヨセフ。子供と母親を連れてエジプトに逃げろ」と。

キリスト教徒でなくても誰でもが知るキリスト誕生のストーリーです。しかし、この映画で驚かされたのは聖母マリアを演じたケイシャ・キャッスル=ヒューズの慈愛に満ちた目です。ベツレヘムまでの長い旅路、数々の困難を乗り切りながら成長してゆくマリアを演じるケイシャさんの目がどんどん優しくなってゆくのです。ケイシャさんはこの映画の撮影直後に妊娠を発表し、本年4月に女児を出産したのだそうです。ひょっとしてあの慈愛に満ちたマリアのリアル感は彼女の体内から滲み出ていたのでしょうか?不思議なエピソードです。

恐らくこれは世界で一番美しい愛の物語です。クリスマスを迎えるこの季節にぴったりのこの映画を、どうぞ暖かい人と一緒にご鑑賞ください。

The Nativity Story (2006) / Birth of Jesus Christ New Movie

「昭和の日」

2007年04月29日 | 歴史
新緑と日章旗

今日、4月29日は初めての「昭和の日」です。
昭和時代には天皇誕生日であり、昭和天皇崩御の後は「みどりの日」とされていたのを、今年から「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」という趣旨から 「昭和の日」とされました。(わたくしども夫婦の結婚記念日でもあります)

激動の64年間を支えてこられた昭和天皇の偉大さを改めて再認識させられるエピソードです。

昭和20年9月27日、昭和天皇は占領軍司令官ダグラス・マッカーサーと会見し、「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります」と述べた上で、次のように語られました。

戦争の結果現在国民は飢餓に瀕している。このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出るおそれがあるから、米国に是非食糧援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部に充てて 頂ければ仕合せである。[奥村元外務次官談話記録]

これを聞いたマッカーサーは、陛下の前に進み、御手を握り「私 は初めて神の如き帝王を見ました」と述べて、最大級の敬意を表しました。昭和天皇の「直き心」が、マッカーサーの心を揺り動かした瞬間でした。

英語に「Decent」という単語があります。高貴な品格のある人を指す時に使うこの最高の褒め言葉こそ、まさしく自分のことよりも国民への思いやりを大切にした昭和天皇に贈るにふさわしい言葉でしょう。


終戦記念日に思うこと

2005年08月15日 | 歴史
8月も早や中盤、今日は8月15日、終戦記念日ですね。「耐え難きを耐え忍び難きを忍び以て万世のために太平を開かむと欲す」の玉音放送から60年の歳月が流れました。

広島に想像もできないような新型爆弾が投下され、一瞬のうちに14万人が亡くなりました。それでもまだ軍司令部は徹底抗戦を叫び、ソ連の仲介に望みを繋いでいたといいます。そのソ連は早々と日本への参戦を決め、朝鮮半島に軍隊を終結していたというのに・・・その頼みのソ連からの宣戦布告を受け、さらに追い討ちを掛けるように長崎にも原爆が投下されるに至ってやっと迎えた今日の日のことを思うにつけ、何と正しい情報の入手と分析が必要なことかと思い知らされます。

先日の講演会の最後に藤木先生がおっしゃいました。松下さんも、本田さんも壮大な夢を持っていた、と・・・そしてかつての経営者に共通して言えることは、その壮大な夢が、「人の役に立つこと」「日本の国のため」に描いたものであったということです。

誰もが決して「私利私欲」のために動いたのではないのです。郵政民営化・・・国鉄民営化の比ではありません。国民にとって大きなチャンスであると同時に大きな試練でもあります。恐らくは、農地改革、財閥解体と並ぶ大きな構造改革です。国民の一人一人が「私利私欲」でなくて、「世のため人のため」に痛みを分かち合い、力を結集してゆく覚悟が必要です。

歴史のページを開いた男

2004年10月02日 | 歴史
イチローが大記録を樹立しました。大リーグの歴史に日本人の名が永遠に刻まれます。84年ぶりの偉業です。BSを見ていて身震いしました。日本中が興奮の渦に包まれた一日でした。

読売新聞の記事
シアトル・マリナーズのイチロー選手(30)が今シーズン合計で262安打を放ち、大リーグの年間安打数の新記録を作りました。これまでの最多はジョージ・シスラー選手が1920年に作った257安打で、記録がぬり替えられたのは84年ぶり。

記録達成したときの気持ちは?
イチロー 「僕の野球人生の中で最高の瞬間でした」

ニューヨークタイムス
「たった一球が世界に歓喜をもたらした!」

前記録保持者ジョージ・シスラー(故人)の長女フランシスさん
「彼のような素晴らしい青年が(記録更新を)成し遂げたのだから、父もさぞかし喜んでいることでしょう」

マリナ-ズ、メルビン監督
「本人は重圧の中でも落ち着き払っていた。本物のタフガイだ。心からおめでとうと言いたい」

マリナ-ズ、モリター打撃コーチ
「こんな記録を目の当たりにするとは信じられない。いかに難しいことであるか、私は理解している。イチローはこの偉業に値する選手だ」

マリナーズ、ブーン内野手
「チームが低調で厳しい年に、最後まで集中力を切らさずに記録を達成したことは驚きだ。チームメイトとして誇りに思う」

ヤンキーズ、ジアンビ内野手
「彼とはいい友達だ。彼の技術は世界中の選手の中でも最高。見ていて喜びを感じる選手で、素晴らしい人間でもある」

カブス、ペーカー監督
「記録はいつか破られるもの。彼は打者として素晴らしいものを示した上に、走れて守備もよく、肩も強い。大した選手だ」

ブレーブス、コックス監督
「両目の動き、視野の広さとスピードが安打をもたらしている。(記録を破ったのが日本人だが)どこから来ようと関係ない。野球人であるわけだから」

長嶋茂雄氏
「歴史あるメジャーリーグでも、長い間破られることがなかった記録が新しく書き換えられたことは本当に素晴らしい。イチロー君には伝説的な記録をまだまだつくっていってもらいたい。これからの活躍が楽しみになった」

私は、これら珠玉の名言と共に今日10月2日を永久に忘れないと思います。

7月の気象観測記録

2004年07月31日 | 歴史

7月も終りですね!新潟三条市の集中豪雨の被害が大変な事になっています。
地球温暖化?、ヒートアイランド現象? 日本列島は、いえ、地球はこの先、一体どうなってゆくのでしょう? 地球がこれまでに経験した7月の気象データと災害の記録です。

864年7月17日 富士山が大噴火。西湖と精進湖ができる
1783年7月 6日 浅間山が大噴火。死者約2万人
1888年7月15日 会津の磐梯山が大噴火。北側の小磐梯山が崩潰。死者444人
1915年7月16日 霧島山が噴火
1921年7月 8日 イラクのバスラで世界最高気温58.8℃を記録
1932年7月 1日 中央気象台が富士山頂に気象測候所を開設
1933年7月25日 山形市でフェーン現象により40.8度を記録。日本の最高気温記録
1976年7月11日 伊豆半島で集中豪雨。死者行方不明者16人
1983年7月21日 南極で世界最低気温・マイナス89.2℃を記録
1982年7月23日 長崎を中心に集中豪雨。死者行方不明者366人
1983年7月22日 山陰地方で集中豪雨。死者行方不明119人
1993年7月12日 北海道南西沖地震(M7.8)。死者202人。奥尻島で大津波被害
1983年7月23日 島根県・山口県で集中豪雨。死者行方不明117人
1987年7月23日 クーラー使用による電力需要激増により首都圏で大規模な停電
そして、本年7月20日、東京・大手町では午後1時前に39.5度となり、東京の7月の最高気温記録38.1度(2001年7月24日)を更新しました。


46億年にも及ぶ地球の営みの中では2000年は一瞬です。でも、上記のデータ-から「何か」が浮かび上がってまいります。2004年・・・・「今年は暑い!」と言いながらも・・・・それでもまだ、みんなが笑っていられた最後の夏だった・・・・なんてことになりませんように、地球をもっと労わりましょう!!


欧州連合 25か国体制に拡大

2004年05月03日 | 歴史
まさに歴史の転換点です。この日新たに10カ国がEUに加盟しました。午前零時(現地時間)の記念祝典の模様をテレビで見ておりました。(日本では7時でした)

欧州の中でも経済的に弱小国と言われるイタリア、スペインなどを旅行中、何度も庶民の「ぼやき」を聞きました。「通貨がユーロに統一されて以来、物価が上がって生活は苦しくなった!」と。でも欧州の連帯には皆んな賛成なんです!ここが凄いところです。あれも反対!これも反対!!自分だけが良ければそれで良いというどこぞの国とは根本的に発想が異なります。

その昔、フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教に日本に来た時の言葉です。
『長い布教活動の中にあって、世界のいろんな国々を回ったがこれほど高い教養と礼節を持った国はなかった。この国の教育のレベルの高さはもしかしたら我々の国を超えているかもしれない・・・・』 

かつての日本人は、これほどに高く評価される教養と礼節を持っていたんですね!
長い時間を掛けて徐々に痛んだ精神の文化はその倍の歳月をかけても治せないのかも知れません。自分たちが我慢しても、周りの人のこと、将来の人々のことを考える・・・・21世紀は欧州の復活です!!

終戦記念日

2003年08月15日 | 歴史
本日8月15日は・・・・日の出04:59:10 日の入18:31:40 日長時間13:32:20(昼の割合56.423%)

○終戦記念日,敗戦記念日
1945(昭和20)年8月14日、政府はポツダム宣言を受諾し、翌15日の正午、昭和天皇による玉音放送によって日本が無条件降伏したことが国民に伝えられました。これにより第二次世界大戦が終結しました。内務省の発表によれば、戦死者は約212万人、空襲による死者は約24万人でした。1982年4月の閣議決定により「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」となりました。

□聖母マリア被昇天祭(Assumption)
聖母マリアはイエスの死の後、使徒ヨハネの保護のもとに余生を送り、使徒たちに見守られながら亡くなりました。遺体は使徒たちによって葬られましたが、3日後使徒たちが棺を開いてみると遺体を包んだ布だけが残されており、使徒たちは聖母が天に昇ったことを信じたといいます。

それにいたしましても、こんなに涼しい終戦記念日も初めてなのではないでしょうか?欧州大陸での偏西風の蛇行がロンドンに観測史上初の高温記録をもたらしました。何か地球が悲鳴を上げているように思えてなりません。ニューヨークが大停電だとか・・・・地球の悲鳴とは関係なければよいのですが。

二十世紀十大事件

2000年12月13日 | 歴史
先頃、NHKが全国の視聴者を対象に「あなたにとっての二十世紀十大事件は?」とのアンケート調査を実施したそうです。12月6日放映の「その時歴史が動いた」でその集計結果が放送されましたので、そのべストテンをご紹介します。

l0位 ニューヨーク株価大暴落 1929年10月24日
9位 ロシア革命          1917年
8位 阪神大震災         1995年1月17日
7位 べルリンの壁解放     1989年11月9日
6位 第一次世界大戦勃発   1914年6月28日
5位 第二次世界大戦勃発   1939年
4位 日露戦争勃発       1904年2月10日
3位 アポロ11号月面着陸    1969年7月21日
2位 広島・長崎原子爆弾投   1945年8月
1位 太平洋戦争勃発      1941年12月8日

こうして並べてみると、ある意味では二十世紀は「戦争の世紀」であったとも言えるでしょう。歴史は常に多くの類似点と、わずかではあるが決定的な相違点をもって繰り返します。

来たるべき新世紀が、人類の全ての人々にとって「平和な世紀」となりますように祈るばかリです。


あの鐘を鳴らすのはあなた

2000年10月04日 | 歴史
燃えて炭化した巨木

御巣鷹山へ登ってまいりました。日本航空㈱の五つの労働組合主催の慰霊登山です。日本航空の社員の皆さんを中心に151名が集まりました。事故直後はともかく、ここ数年では随分多い参加人数なのだそうです。やはり2000年ということで「20世紀の大事故に対する一つの区切りを!」と思った人が多かったのでしょうか。アメリカ人なら誰でも、ケネディーが暗殺された日に、自分がどこで何をしていたか覚えていると言われますが、我々日本人もまた、1985年8月12日の日航機墜落の日のことは決して忘れることはありません。

何冊かの関連書物を読みましたが、やはり実際に行ってみると、そこは「想像を絶する空間」でした。まずは山の深さ。今でこそ、道も整備されているものの、当時、救助隊の皆さんはどうやって登って、また遺体や物資をどうやって運んだか?そして「その場所」が余りに広範囲なことに驚きました。川上慶子さんが発見された沢から高浜機長の位牌まで、衰えた私の体力では途中休憩が必要なほど離れているのです。更にその御巣鷹の尾根の険しさ。あれでは不時着ではなく激突です。

乗員組合中執の芦沢さんが飛行機の模型を使って解りやすく説明してくれます「向うのあの黒く見える尾根に最初に接触ました。一度バウンドして三秒後、ここに機首から激突したのです」信じられません。時速500キロです。

来年の『情報公開法』の成立を前に、先般貴重な事故調査関連資料が焼却・廃棄されたことをご存知でしたか? そしてそれに抗議するかのように「ボイスレコーダー」の録音記録がテレビで流されました。もう直ぐ21世紀が目の前です。同じような事故がもう一度起こった時に、人々はやっとあれは圧力隔壁の損壊が原因ではなかったのだと気が付くのでしょうか。それでは余りにも遅すぎます。余りにもお粗末です。

事故調査にも活躍された日本航空OB藤田さんのお話が耳に残りました。
「アメリカでは事故調査に終わりはありません。真実への取り組みは永遠なのです。年月が経って新しい科学技術の進歩によって、事故当時は解らなかったことが解る場合があるからです。日本では事故報告書が提出されると事故調査は終了です。その後に真の原因は?などと言っても、『あれは前任者の時代の出来事ですので』と取り上げてもらえません・・・・」

こうしてこの史上最悪の航空機事故の本当の原因は歳月の流れの中で封印され、風化され、やがては忘れ去られてしまうのでしょうか?何百もそして幾重にも立ち並んだ位牌からは、「そんなことはさせないぞ!」との叫びが聞こえてきそうな、そんな、何とも表現のできない空間でした。

最後に一瞬に燃え尽き、今は黒く炭化した巨木の画像と、鎮魂の鐘でのスナップを添付しました。来年この鐘を鳴らすのはあなたです。合掌!


昭和との決別

2000年06月25日 | 歴史
白鳥と二重橋

激動の昭和の時代を昭和天皇と共に支えられた皇太后。その控え目な笑顔は、まさしく内助の功を美徳とする日本の母の姿そのものでした。
母校の同窓会がちょうどパレスホテルで行なわれましたので、開会前の時間を使って皇居・坂下門奥に設けられた記帳所へ行ってまいりました。
ご逝去からまる一週間が経とうというのに、たくさんの人たちが記帳してらっしゃいました。
玉じゃりを踏み締めて歩きながら、ご冥福を祈り、心の中で「お疲れ様でした」とつぶやくと、昭和天皇を忍んで記帳に来たあの日も同じように、小雨交じりの天気だったことを思い出しました。

美しい二重橋の前を泳ぐ白鳥の画像を添付しました。


私にとっての1900年代

1999年12月29日 | 歴史
―良い時代に生きた。しかし夢が失われた27年間―

日本の海外旅行の発展は「短期間の急成長では世界史的にも類を見ない現象」と言われる。我々は実に良い時代に生きた。次々と新型飛行機が投入され、ホテルが建ち、新ディスティネーションが開発された。日本の高度成長期とも重なり、ひたすら楽しい日々であった。しかし、いつの間にか、お客さまに感謝される喜びを私たちはすっかり忘れてしまったように思う。

昭和39年にわずか12万人だった海外渡航者が平成2年には、1千万人を超える急成長を遂げた。その間、旅行業者はいわゆる海外旅行商品をただひたすら売りまくってきた。海外旅行が高額な特殊商品で、一般の人には手が届かなかった昭和40年代前半ごろは、また各社各様の手作りの旅行が多く、旅行代理店には、お客さまからの感謝状が立派な額縁に収まっていたものだ。外国語で自信まんまんに現地を案内した旅行会社の添乗員たちは、お客さまには大変スマートな人たちに映った。海外旅行に感激したお客さまから、旅の終わりに涙を流さんばかりに手を握られ感謝されるということも珍しくなかった。自分の仕事に誇りをもってお客さまと接したので、当然のことながらお客さまから尊敬さえされたのだ。

だが、海外旅行が日常生活の一部にまで普及した今では、旅を作り売るという喜びも減ってしまった。一般的にお客さまの方が旅について詳しいので、専門家としての立場がなくなってしまったからである。旅行は夢のある商品。その夢を実現してあげるのが我々の努めであった。でも最近はお客様が旅行に夢をなくしかけている。持っていない夢は実現してあげえることはできない。

素晴らしい商品を企画し販売して適正な利潤を上げ、自分も楽しみお客さまにも喜んでもらう。このような良い循環をもたらす旅行商品はもうないものだろうか?もう一度、お客様に喜ばれながら儲けてニンマリしたいものだと思う。


8月6日

1999年08月06日 | 歴史
広島、原爆記念ドーム

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍のB29爆撃機エノラ・ゲイ号が広島市の上空に原子爆弾を投下しました。約14万人もの尊い生命が一瞬にして奪われました。
この忌まわしい出来事から、55年が経ちました。この日は又、私の49回目の誕生日でもあります。
今日まで家族揃って元気で頑張れてこられたのも、皆様のおかげと、心より感謝申し上げます。
今後共変わらぬご指導・ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。