近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ) (単行本)
片山 杜秀 (著)
価格: ¥ 1,575 (税込)
躓きの石としての天皇 超克されざる『近代――近代日本のパラドクス』
革命への赤き心は、なにゆえ脱臼され、無限の現状肯定へと転化されなければならないのか。
躓きの石としての天皇、超克されざる「近代」――北一輝から蓑田胸喜まで、西田幾多郎から長谷川如是閑まで、大正・昭和前期の思想家たちを巻き込み、総無責任化、無思想化へと雪崩を打って向かってゆく、近代日本思想極北への歩みを描く。
[本書の内容]
●「超―国家主義」と「超国家―主義」
●万世一系と「永遠の今」
●動と静の逆ユートピア
●「口舌の徒」安岡正篤
●西田幾多郎の「慰安の途」
●アンポンタン・ポカン君の思想
●現人神
基本的に極少数の例外を除けば、1945年8月15日までの日本人のすべてが右翼だった。
この本は基本的には、20世紀前半、日露戦争からアジア・太平洋戦争までの間の、右翼を中心とした日本思想史だが、思想史の本にありがちな難解さがない。
右翼思想に少しでも関心があれば、この本はとにかく面白い。
右翼思想は,現状に不満を持ち,崩壊寸前の伝統といった過去のものにひとつの理想を見出す。
しかし日本の近代右翼思想はどこに注目しても必ず最後に天皇と結びつけたため,『過去の代表者』でありつつ『現在の日本』も支えている天皇に導かれ,ねじれて現在にのめり込み,現在を礼賛して終わる。
この近代右翼のキーワード『超国家主義』の意味内容を問いながら、近代右翼思想の悩み・ねじれを鮮やかに描かれている。
『超国家主義』のこのような当然の理論の帰着の結果、現状肯定的な思想が展開していき、当時、農本主義や健康法に堕してしまった右翼思想書すらあった。
『そういう何重にもねじれた重いが積み上がって、互いの思いを牽制しあい、にっちもさっちも行かなくなってしまった。』のが戦前の右翼思想である。
同じく、財閥・軍閥ばかりがのさばり、国民が疲弊の限りを尽くしているなか、解決を天皇に求めずにこの国を何とかしようとしたのが『左翼』ということになるが、如何せん人数的に少なすぎた。
日本近代の右翼の思想 の目次
『第1章 右翼と革命』
★世の中を変えようとする、だがうまくいかない。
日本近代の右翼の思想史には、まず現代をいやだと思って過去に惹かれるが、
過去に分け入っても、何処でも最後には天皇を見出す。
右翼思想では幾等時代を遡っても天皇しか出てこない。
右翼は『今の日本は気に入らないから変えてしまいたい』と一旦は思うが、そこで、『正しく変える力』は『天皇』に代表される『日本の伝統』にあると思うようになる。
『第2章 右翼と教養主義』
★どうせうまく変えられないならば、自分で変えようとは思わないようにする。
しかし、その天皇は今まさにこの国に現前しているのだから、じつはすでに立派な美しい国ではないかと、もう一度思い直す。
それなら変えようなどと『余計なことは考えない』ほうがいいのではないかと思い至る。
『天皇が相変わらずちゃんといる現在が悪いはずはない』
『天皇がいつも現前している今このときは常に素晴らしい』
となる。
『第3章 右翼と時間』
★変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる。
現在ありのままを絶対化して行くと、最後には常識的な漸進主義すら現在を変改しようとするものだからと認められなくなる。
現在に密着して、そこで思考が停止するという道筋が、ここからうかがえる。
次に、考えないなら脳は要らないから『見てくれだけは美しくしよう』と思うようになる。
『第4章 右翼と身体』
★すべてを受け入れて頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る。
それで、様は、『美しくしても死ぬときは死ぬ』のだと思い至る。
それならば、『美しい国を守る』ために、『潔く死のう』と思う。
思考よりも『美しい死に様』が重視され、結果として日本を1945年の敗戦の破滅まで、右翼思想は一直線に導いていく。
『世界的に見ても不思議な日本の右翼思想の無残』
一見似ているようで現状肯定の『保守』と、現状に不満で変革を目指す『右翼』とは全く別のもので、基本的に政治姿勢も主義主張も大きく違う。
ところが日本の『右翼』は暴力団系以外は全て『保守』を自認していて、よほどのことが無いと自分のことを『右翼である』とは言わない。
此処がそもそも自分でも左を自称して憚らない『左翼』とは大きく違うところだが、『街宣右翼=暴力団』との現実が影響しているのだろうか。
実に不思議な日本国の傾向である。
『保守』の意味は文字にある通りで、今までの古き良き権威や伝統を『守り』『保つ』政治姿勢で現在の生活や体制に基本的に満足している。
不満があるが右翼や左翼より相対的に小さい。
『保守』とは現在に依拠し、現在を守る勢力のことで、土台からの根本的な造り替えを警戒するが、漸進的な改良を最善と考えている穏健思想で、少しずつ着実に前に向かって動いて行くところに特徴がある。
その点『右翼』や『左翼』は根本的なところで現状に満足出来ずに不満を持っており、社会の根本的な土台からの改革(造り替え)を主張しているので、この部分だけなら右も左も全く同じ政治的なスタンスであるとも考えられるが、時間軸が全く違っている。
『左翼』はまだ見ぬ未来に自分の理想を期待するが、『右翼』は正反対。
右翼とは『失われた理想の過去に立脚して現在に異議を申し立てる』思想や勢力のことなのです。
この部分だけなら150年前の『逝きし世の面影』(今では失われた美しく儚い文明)を主張している私などは『右翼』に分類されそうだが、どうも話が違うのです。
日本の右翼は150年前の平和な『江戸文明』は少しも理想とはしていなくて問答無用で完全否定している。
安倍晋三の『戦後レジーム(体制)からの脱却』のスローガンが示すように、今の日本国憲法に反対し65年前の敗戦以前の大日本帝国の今では失われてしまった教育勅語に理想を見る。
今の社会問題は、過去の理想的な社会からの逸脱からもたらされたもので、過去に立ち返れば全ては良くなると考えている。
ところが日本国では何処まで歴史を遡っても今と同じで天皇制がある。
現在を否定しても、現在と同じ天皇制が過去にもあるので、日本の右翼思想は最初から無条件の現状肯定の思考停止に陥らざるをえない宿命を孕んでいるのです。
社会変革を否定し現状肯定なら、それは最早『右翼』とは呼べないので我が日本国の右翼は全てが、現状肯定を身上とする『保守』を自認する今のような不思議な状態になっているのです。
フランスでいうところの「王党派」に該当するような天皇主義者はほとんどいないのではないでしょうか?
とはいえ、左翼が強かった頃は「反左翼」ということでまとまっていた右翼陣営が、このところ、分離しかけているのは興味深いです。
21世紀にもなって、20世紀イデオロギーに縛られること自体がおかしいことなので、当然の現象でしょうけど。
この本は、とにかく面白いですよ。笑えます。
反戦主義主義や自由主義、民主主義など色々な思想が有ったなんてのはデマではないが誇張であることは間違いない。
戦前の日本人は、一部の例外を除いて全部右翼だったんですよ。
戦前や太平洋戦争の意味を理解する上で、この本は必須アイテムですね。
うって変わって、戦後は右翼らしい右翼は例外で、日本の右翼は右翼ではなく『右翼モドキ』『ファシストモドキ』ですよ。
自分自身がない、情けないですね。哀れでさえあります。
>「雇われ反共主義者」
反共しかスローガンが無い様では思想とは呼べません。
ソ連が分解したとたん冷戦が崩壊したように、共産党の存在が、日本の既成右翼が存在理由で、共産党の影ににすぎない日本の右翼は、共産党の力が弱まれば自動的に弱まります。
不思議なことに、歴史的にも、健全な右翼思想?は日本には存在しませんね。
戦後日本の左翼がどうして共和主義に走らなかったか,つまり天皇制を否定しなかったのかのヒントが,この本に詰まっています.天皇制に対する表だった抵抗は「ゆきゆきて神軍」の奥崎氏のような悲惨な末路を迎えた傷痍軍人と,赤軍派程度だった.
反対に,ソ連崩壊時に逸早く共産党を抜け出したのがエリツィンを初めとするロシア・マフィアの連中だった.ゴルバチョフがエリツィンと死闘を演じ,ドイツへ逃れ,プーチンを旧KGBの頭領としてエリツィンとマフィアをロシアから追い出したことで,初めてロシアに平和が戻ったことを知っている日本人はどれだけいるのだろうか.左翼とか右翼という問題じゃない.国のカネ,税金を持ち出して商売を始めるようなマフィアは,まるで日本の自民党や公明党そのものではないだろうか.
逆に言うと,このような無茶苦茶に否と唱えたのが理論派右翼の鈴木邦男氏である.そして彼は現在では自民党や公明党と明らかに敵対する政治的立場にいる.
健全な右翼思想というよりも,戦前に神道学が破壊され,宗教としての「論理性」が失われたこともあるでしょう.靖国神社や護国神社の存在がその典型で,日本人の祀るもともとの神々は村々にある鎮守の神であったことは柳田國男などによって証明されている.
彼は、ある時期から、自分たちの立場がリアクション的であることに気付き疑問を抱くようになったようです。
もう一人暴れているのが下記の人ですね。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/
彼らの心情については想像の域を出ませんが、やはり、右翼が強くなったため、「責任感」や「プライド」から批判しているように思います。
改憲派学者の小林節さんがある時期から護憲に転じたのと同じ理由でしょう。
特に、鈴木さんの場合は、これまで右翼の顔として知られていたわけですから、黙っていれば同一視されるのは必至であり、それがたまらなくイヤなんでしょう。
あなたとはケンカしたくないから,あえて書くのですけど,Runner さんは鈴木邦男さんの本を読まれた事がありますか?
私は若い頃,彼の経営するラーメン店でみそラーメンをすすりながら,彼の演説を聴いたことがあります.
彼は「右翼が強くなった」からではなく,「正義漢」の人なんです.中国の古典もよく読まれています.
私とは政治的立場は反対ですけど,まず直接的な経験をもって評価をするのは最低限のマナーだと思います.おっちょこちょいは偽左翼に突っ込まれる原因となります.(昨日のブログにも書いたけど)
疎の他は右翼ではなく右翼モドキの対米従属命の売国奴でしかありませんよ。
今、日本には真っ当な国粋主義の右翼や右翼思想が有りませんね。嘆かわしいことです。
世界的に見て、日本が右傾化しているのは事実ですが、インチキ臭い北朝鮮問題が原因で、9・11事件が原因のアメリカとその構造が良く似ている。
私はそれ程心配していません。インチキがばれた段階で、大きく社会は左に揺り戻すはずです。
最近、一時治まっていた亡命者情報の北朝鮮バッシングがNHKや朝日放送でやられていますが、何か情勢に変化がかったようです。
右翼といえばドイツなどの欧米ではサディズム的な傾向が有るが、日本の右翼はマゾヒズム的傾向がありますね。
自分という独立した個人が存在せず、強者(組織)の暴力に完全に屈服して、自分自身を『強者』の一部と考える日本の右翼モドキは典型的なマゾ集団で、旧軍なんかは疎の見本です。
今でもこのマゾの伝統は生きているようです。
発言も可能な限りチェックしております。
(ついでに、書いておくと、他にも会った人が出てくることがあるので、公正にするために歴史上の人物と外国人以外はすべて「さん」付けにしています)
>彼は「右翼が強くなった」からではなく
その箇所は鈴木さんのみを指してのことではないのですが、右翼が強くなったというのは、数が増えたということです。
増えたのはネット右翼に代表されるように新しいタイプの連中です。
それらに対して、彼らは強い違和感を感じているのですよ。
実際、昔は違いがあっても今のように表立って右翼批判をしていませんでした。
>「正義漢」の人なんです.
「筋を重んじる心」が強いのでしょう。
また、反対意見に対する好奇心も人並み以上に旺盛だと思います。
ただ「ネット右翼」は「ネット屑」「ネットゴキ」のような表現に書き換えないと,本当の「右翼」の人が怒りますよ(笑)
「筋を重んじる心」は当たってますね.要するにお互いの言い方が違うだけで,言ってることは同じだったということじゃないでしょうか.(^_^)/
数年前の園遊会でのこと、
東京都教育委員の米長(将棋連盟の理事長)が明仁天皇に『全国の教育現場に日の丸・君が代を普及させるために頑張っています』と嬉しそうに発言。
これに対して天皇が『強制にならないように』と返事をされたわけです。
この時、慌てふためいた米長がつい本音発言してしまう。
園遊会での米長の反論
天皇の『強制にならないように』のお言葉に対して米長は『それはそうですが・・何やらかんやら・・・』早口で弁解していました。
米長は、自分以外の他の人々には天皇への尊敬を強制するが自分は例外らしい。
普通『・それはそうだろうけれども・・・』等の発言は上役が部下に、又は大人が子供に対して言う言葉ですよ。失礼(非礼)にも程が有る。
日本では、天皇に遠い者ほど敬意を持っていて、近い者程其の逆だと言う法則が有るようです。
しかも今上天皇に対する、この米長反論の非礼に対して、怒った右翼が一人もいない。
不思議というか情けないと言うか。
日本人の一人として慙愧に耐えない。あの時ばかりは、左翼を返上して、日本の右翼陣営の建て直しの為、右翼をしようかと一瞬考えましたよ。
同じことはナルヒト氏も同様で,ヨーロッパの様々な政体の国々を回って,天皇制は今のままで良いのだろうかという疑問を持っているはず.宮内庁当局としては,彼等親子の思想に恐れを成して,次男坊のフミヒトに男の子が生まれたのを機に,軌道修正させようとしているのがいわゆる「男系天皇」論なのではないかと推測している.
>天皇に遠い者ほど敬意を持っていて、近い者程其の逆だと言う法則
あ,それは言えるかも知れない(笑) かつての「華族」について調べてみると面白いですよ.