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AIに東大の問題を解かせてみた

2023-03-07 07:04:33 | AIを使いこなす

ChatGPTはすごい!試しに、東京大学の2019年世界史の論述問題を解かせてみました。

Q 18世紀中期から1920年代までのオスマン帝国の解体過程を500文字程度で説明しなさい

A オスマン帝国は18世紀半ばから1920年代にかけて、東欧、中東、北アフリカにまたがる大帝国でした。から、解体過程が始まりました。
 まず、1853年に起きたクリミア戦争では、ロシア帝国がオスマン帝国に宣戦布告し、帝国は敗北を喫しました。これにより、オスマン帝国の弱体化が進み、地域で独立運動が勃発しました。
 また、19世紀後半に入ると、ヨーロッパの列強国はオスマン帝国内部に介入し、多くの経済的、政治的な権利を要求しました。そのため、帝国内には反乱が多発し、国内は不安定です。な状態に陥りました。
 1908年にオスマン帝国で起きた革命では、立憲君主制が導入されましたが、地域で反乱が続き、第一次世界大戦中には、帝国はドイツ、オーストリア、ブルガリアとともに連合国と戦うことにしかし、帝国軍は連合国に敗北し、1918年には協商国と休戦協定を結びました。
 休戦協定の後、オスマン帝国は解体され、トルコ共和国が建国されました。この過程で、多くの民族が独立を果たし、中東・バルカン半島のイスラエルが誕生しました。たアルメニア人に対する虐殺事件(アルメニア虐殺)が発生し、多くの犠牲者が出ました。
 このように、オスマン帝国は19世紀末から20世紀にかけて、内部の政治的混乱やオメガ列強の侵略、反乱などの重要によって解体されていきました。 (581文字)

同じ問題をBingのチャットAIで聞いてみました。

オスマン帝国の解体過程は、大まかに以下のように説明できます12

  • 18世紀中期から19世紀初頭にかけて、ロシアやオーストリアなどのヨーロッパ列強との戦争で敗北し、領土を失う。
  • 19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、バルカン半島や中東で民族主義運動が高まり、オスマン帝国から独立する国が相次ぐ。
  • 第一次世界大戦ではドイツと同盟を結び、連合国と戦うが敗北。1918年に休戦協定を結ぶ。
  • 1920年に連合国とセーヴル条約を結ぶが、これはオスマン帝国の分割を意味するものだった。これに反発したトルコ人は独立戦争を起こす。
  • 1923年にトルコ人は連合国とローザンヌ条約を結び、トルコ共和国を建国する。これによりオスマン帝国は正式に消滅した。

以上が500文字以内での説明です。もっと詳しく知りたい場合は、どの時期や地域について知りたいですか?

簡潔です。

と同時に、この裏でChatGPTが動いていました。

A 18世紀中期から1920年代までのオスマン帝国の解体過程は、長期にわたる政治的、経済的、そして軍事的な変革と不安定化の時期でした。オスマン帝国は、19世紀に入ると、産業革命や軍事技術の進歩についていけず、欧州の列強国に対して劣勢に立たされるようになりました。オスマン帝国内部でも、腐敗や不正が横行し、国家の機能が衰え、民族・宗教問題が表面化するようになっていきました。

19世紀後半からは、オスマン帝国は軍事的にも苦戦し始めました。1897年のギリシャ・トルコ戦争、1911年からのイタリア・トルコ戦争、そして第一次世界大戦などがその例です。これらの戦争において、オスマン帝国は敗北を喫し、領土の大部分を失いました。

このような状況下で、オスマン帝国内部の民族・宗教問題が顕在化し、分離独立運動が高まりました。1912年から1913年にかけてのバルカン戦争において、セルビア、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロがオスマン帝国から独立し、領土を削減されました。

第一次世界大戦においては、オスマン帝国はドイツ・オーストリア・ハンガリー帝国側につき、連合国側と戦いました。しかし、戦争末期には内部崩壊が進み、1918年10月にはムスタファ・ケマル・アタテュルクによるトルコ革命が起こりました。

その後、1920年代に入り、オスマン帝国は正式に解体され、トルコ共和国が成立しました。この解体過程は、オスマン帝国の長い歴史においても最も混乱した時期の1つであり、民族・宗教問題が深刻な影響を与えたことが挙げられます。

先ほどの回答と異なっています。

やっぱりすごい!


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