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講演メモ「江戸時代 江南の歴史の秘密ー信長の子どもたち&尾張七代藩主徳川宗春と江南市」

2018-08-02 17:49:39 | 歴史関連情報
先日、「江戸時代 江南の歴史の秘密-信長の子どもたち&尾張七代藩主徳川宗春と江南市」という講演を聴きました。
講師は、高家寺住職 北川宥智氏

このほど、上宮寺の住職さんに話を聞いたことを増補しました。



明瞭な言葉で、とてもわかりやすい講演でした。
何より、事実と推理を分けている点で、歴史学の講演として信頼できるものでした。

その内容の骨子を、メモ書きをもとにまとめてみます。
自分の浅い知識も混じっているかもしれません。

残念なことに、写真撮影が不可だったために、スライドの元もありません。
すべて、記憶が頼りなので、誤解や曲解もあります
よって、ここに書かれた内容は、主催者である江南市教育委員会や北川宥智氏には一切の責任はございません

特に後半は疲れてくちゃくちゃです。
それでもよかったらお読みください。赤字は土井によるものです。

--------ここから--------

 尾張藩七代藩主 徳川宗春を調べて、本まで出した。それまでのイメージと全く違う。
 宗春はなぜ隠居したのか?
 実は、江南市に縁がある。

 (改名前の名は「通春」ですが、「宗春」で通します)

 宗春は元禄9年生まれ(1696年11月22日)幼名 萬五郎。20男(第三十三子)40人兄弟だった。しかし、その中で40才まで生きたのは宗春だけ。
 吉宗は1684年生まれで一回り宗春が若い。
 ドラマでは宗春の方が年上に描かれている。

 宗春は名古屋に置かれていたが、突然呼ばれ、江戸へ。中山道533kmを通っていった。

 宗春は、いつも若い人に声をかけていた。庶民派だ。(これが後々経済活性策を行う発想の源かもしれません。)

 助六寿司。歌舞伎で有名なのは「助六」、その彼女が「あげまき」。だから助六寿司という名がついた。その助六が初演された頃に宗春が江戸に上る。

 直後に、4代藩主吉道が亡くなる。尾張は、将軍になれなかったのではなく、なる気がなかった。吉道は将軍を断っている。「家康による尾張を守れとの命を守る」という理由だ。

 吉道は宗春をかわいがった。
 吉道の子が五郎太だが、長生きしていればえらいことになっていたかも。
 五郎太の母は吉通の正室である九条輔実の娘・瑞祥院輔子。輔子の実母益子内親王は後西天皇の息女。母は天皇の孫娘なのだ。
 一方、吉通の父の第3代藩主徳川綱誠は、第2代藩主徳川光友と3代将軍徳川家光の長女の霊仙院千代の嫡男である。つまり、五郎太は尾張徳川家・徳川将軍家と皇室・五摂家の血を引いていた
 しかし、父・吉通が25歳の若さで死去したために跡を継いだが、相続から2ヶ月ほど後に数え3歳で死去した。
(吉道の関係者がこの頃次々に亡くなっています。その死因はおそらく・・・・。憶測です。)

 家督は叔父の継友が継いだが、ケチで有名だった。
 有名な江島生島事件。これも尾張藩と関係があったかもしれない。これにより、山村座が禁止、森田座、中村座、市村座の桟敷が禁止となった。
(江島と尾張藩は関係がありました。将軍世継ぎ問題も絡み複雑です。詳しくは、ここをご覧ください。)

 画像出典 https://incidents.kogus.org/articles/6EfMdtMk

 宗春が元服し、吉宗が「主計頭(かずえのかみ)」に引き上げた。「主計頭」は、尾張では加藤清正、尾張の付家老の平岩親吉(10万石)。高い位である。

 当時は規制、規制。元禄バブルが、超不況になった。これは吉宗がというより、老中松平乗邑(のりさと)が厳しすぎた。吉宗が宗春をかわいがったが、松平乗邑が規制を強める。ここのしがらみを後の蟄居の原因にしてきた。

(この画像の出典は、北川宥智氏によって運営されているサイト「徳川宗春」です。このサイトを見ると、さらに詳しい説明がありますので、併せて見てください。
 http://www.muneharu.net/index.html 。)


 当時は、インドから白牛が、ベトナムから象がくる時代。
 尾張藩徳川家の支藩(御連枝)である梁川藩(福島県伊達市)に藩主がいなくなる。吉宗が宗春に藩主になれと命令。彼は、六斎市を奨励し、かせ鳥や水かけ祭りの改革・中止を命じた(窃盗防止、健康のため)。宗春は、国府宮のはだか祭りも一旦、中止にしている。理由は無茶だから。今と違って、行きすがりの人に厄をかぶせていた。宗春は「物よりも命が大事」とした。

 また、享保年間(1716~1735)の飢饉の時には「種籾を分けろ」と命令し、梁川藩には餓死者がでなかった。松平主計頭通春公(後の宗春)に感謝して始められた「つつこ引き祭」が今も残っている。
 現代に生きる宗春の縁もある。大震災の時に、宗春が藩主時代に過ごした江戸上屋敷市谷邸の縁で、新宿から救援物資が伊達市に運ばれた。尾張がないがしろにされている(笑)。

 ケチな兄がしんでしまうと、吉宗は宗春を尾張藩主に指名する。吉宗と宗春は仲良しだ。宗春が権中納言(黄門)、尾張黄門と呼ばれる。

 ※ このあたりは徳川宗春(http://www.muneharu.net/whois.html)に詳しい。

 遊郭、芝居小屋、祭、奇抜な衣装・行列、刑罰軽減・死刑廃止、新興商人を保護、税を緩和、新築物お披露目、マニフェスト『温知政要』
画像出典 http://housa.city.nagoya.jp/exhibition/image30.html
『條々二十一箇條』

 「京が興冷めした」といわれるほどの繁栄を築いた。仁政を行い、尾張藩を盛り上げた。今までの解釈と大違い。領民の喜びである道化を演じたのも事実。

 天才的感覚で、幕府が財政を緩めれば尾張は締める。逆なら逆をやる。
 呪い殺したと言われたが、宗春は白衣装で祈祷した。領民のための息災だ。呪いは黒装束で行う。

 そうした中で、尾張藩内クーデターが起こる。水戸藩から提出された『大日本史』の出版問題で幕府と朝廷が対立した。宗春の姪の子(姪孫)二人は朝廷の最高権威の血統である五摂家九條家と二條家を継いでいたので、朝廷は宗春に食指を伸ばそうとした。
 その動きを察知し、宗春が江戸に下った後に尾張藩では御付家老竹腰正武たちによるクーデターが起きる。吉宗は宗春を謹慎させると同時に京に特別な贈り物をする。宗春は一切の抵抗をすることもなく隠居謹慎を受け入れた。

 そのきっかけは、江南市が関係している。
 時の桜町天皇は「聖徳太子の生まれ変わり」と言われていた。生まれが元旦でそのとき火事があり且つ実績も立派という共通点からだ。 
 宗春は鷹狩りが好きで、生駒屋敷で泊まった。宮田から木曽川で視察し、入鹿池まで行き生駒屋敷に戻った。生駒を大切にしてきた。鷹狩りには古知野のあたりにも来ていた。江南市は尾張藩主の鷹狩りの拠点だ。
 生駒屋敷で宴会もやっている。

 元文2年(1737年)鷹狩りに来て、前飛保の太子山 上宮寺に来る。

(わが家は上宮寺の檀家です。上宮寺の名は、聖徳太子を上宮太子と呼ぶところに由来しています。『上宮寺記』には、「当寺は聖徳太子草創の寺である」と記されています。)

後日、上宮寺の住職に聞きました。
宗春は、鷹狩で上宮寺に泊まることがあった。宗春は上宮寺に、家来は曼陀羅寺に泊まった。
そのお礼として、曼陀羅寺には350石与えた。
上宮寺にもお礼をといったが辞退した。
それならということで、葵の御紋は恐れ多いので、丸八の紋をどこに使ってもよいとの許しが出た。
この時から、上宮寺の家紋も丸八になった。

上宮寺の瓦には丸八が使われている。


その寺にあった聖徳太子像を名古屋城へ持って行く。
(桜町天皇のご機嫌を取るためのものか?聞き落としました。)
木造聖徳太子二歳像木造聖徳太子十六歳像
 宗春が謹慎した時に、上宮寺が名古屋城に「聖徳太子像を返して」という手紙を書いている。

門徒さんが「像を返して」と頼みに行っている。

 朝廷は宗春を引っ張っている。幕府はほかっておけない。そのために、幕府は宗春を隠居させた。宗春が隠居のポイントになったのは、上宮寺の聖徳太子像。今は江南市の指定文化財になっている。
 宗春は69際で亡くなるが、実際には蟄居ではなかった。のびのびと暮らしていた。謹慎解除の建中寺のお墓は鵜沼石だ。
 


 織田信長の肖像画で、イエズス会の画家が描いたもの。
 信長は、1534年から1582年に生き、子どもが22人。
 その中で名前が残るのは、信忠、信雄、信孝、五徳(信康の正妻)。
 信雄、信孝はよく誕生日が問題になる。
 生駒の方の3人の子を順に見ていこう。

五徳(徳姫)
 信康の正妻。よく信長に武田との内通をいいつけたと言うが、切腹(1579年)の本当の原因は家康と信康の親子喧嘩だ。平岩が謹慎している。
 五徳には二人の子どもがいた。登久姫と国姫(熊姫)。登久姫には8人の子どもがおり、国姫(熊姫)は姫路藩主本多忠政正室となり、5人の子どもがいた。なかには千姫の婿(お江の前)もいた。祖母の実家と言うことで、生駒氏は大切にされた。生駒屋敷(小折城)は、清洲城の15倍。加納馬場は秀吉の領地だった。

信雄(1558年-1630年)
 龍神社で生まれている。
 長女は秀忠の正室、信良は忠長の正妻など、続いている。 
 信雄は生き残る。生駒屋敷を大事にしている。部下に、生駒の名字を与えている事からもわかる。最終的には織田家の本家だ。     
 

 織田信忠の嫡男織田秀信(三法師)
 画像出典 https://app.k-server.info/history/maeda_geni/4/
岐阜城が落とされて円徳寺、その後小折城(生駒屋敷)に来ている。そのあと伊勢に行き、高野山の麓で死んでいる。 
 美濃の領主時代は曼陀羅寺に命令している。
 知多は生駒にとって大事。五徳姫の領地(約2000石)があった。


 信忠(1555年-1582年)の直接的な記録はほとんどない。信忠の母とされる久庵慶珠は、生駒の方と同一人物の可能性が高い。

 永姫は織田信長の四女。前田利家の長男、利長の正室。 
 加賀に金沢久昌寺(下写真)を作った。久昌寺からお坊さんを呼んで、信長、信忠、生駒の方を弔った。前田利家は生駒家に出入りしていただろうことがわかる。

 画像出典 https://www.sotozen-net.jp/temple/15

 その他、生駒の方の孫は、男子は高い位についたり、女子は名家の正室になったりと、続いている。そして、生駒家を大切にしている。

 生駒家長の子、善長は阿波生駒家の家祖。

 江南市は歴史的に検証した話で盛り上がってほしい。

 「武功夜話」は真実もあり、誤解もある。楽しめばよい。事実はこれから研究する必要がある。歴史学では否定されていることを十分承知の上で検証する。江南市にとって、物語として宝になる。歴史的事実としてはいけない。
 江南市はもっといろんな物が出てくる。
 市民憲章に付け足したい「私は、歴史と伝統を大切にします」
 江南市は尾張藩にとって大切な場所である。

Q 生駒の方と呼んだ意図は?
A 吉乃は歴史学では使えない。

Q 上宮寺 瓦の丸八マークの意味は?
A 尾張徳川家の分家には丸八マークを使う。かかわりがある。

Q 生駒の方を妻にした理由
A わからない。尾張のために重要な地であったろう。

Q 宗春は大河ドラマに?
A 待ってほしい。もうちょっと検証をしっかりしたい。
  尾張の家老を集めたい。宗春の隠居のキーポイントは江南にある。
 

 ここから http://www.muneharu.net/index.html

北川宥智氏の著書

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