SUSHI ROCKS

「真音通信」(まおんつうしん)
写真と音楽。猫や鳥や草花、
時に酒に纏わるよもやま話など・・・。

「HELLO,GOODBYE」

2012-06-04 14:03:56 | 日記

「HELLO,GOODBYE」

☆5月8日から書き始めた「あの頃の少年」の前章はこれで終わりです。
ずーっと最後まで、楽しんで読み続けてくれた皆さんには本当に「ありがとう」と。
ここに書いた話は全部本当の事です。ただし、ホントに起こったけど、ここには書いて
いない話はもちろんたくさんあります。そしてこれら書かれたものは、最初の頃にコメント
した様に、どの章もすべて歳老いた僕から若い君たちに贈る「希望の歌」です。
時代はいくら変わろうが、いつでもどんな人にも、悲しみや辛い思い出がある。
その人それぞれの悲しみや不幸の度合いというものは比較対象されるべきものではないと。

誰もがみんな心に秘めている事、それを僕は吐き出してみたくなった。
そうしたら、ほんの少し胸につかえてた何かがとれて楽になった。そういうことだ。
ここから先、20歳以降のバカ話は、またそのうち書きたくなれば書きます。

☆僕が大阪から東京へ「夢を抱いて」やって来てから今年で12年くらい経つわけだが、
ここ数年ずーっと思っていたのは、少年時代からの出来事と今に至るまでの、
自分自身の思い、感じてきた事などを何とかして、どこかで文章にしてまとめる事が
出来ないものかな・・・と。そんなわけで、「あの頃の少年」に書かれたいくつかの
面白バカ話は、他の日記で似たような話を書いた記憶がある。

☆連載の形式でまとめあげようと思った直接のきっかけは姉上の二番目の息子
(つまり、僕にとっての甥っ子)と数年振りに店で再会して、いろんな昔話を
した事がきっかけだった。昔、まだ小学生で小さかった甥はやがて中学生になり、
高校生になり、そして大学四年生となって、就職活動で企業に面接のため東京へきた。
面接が終わった夜に、僕は甥を新宿まで呼び出して、店で数年振りに会った。
僕にとって下の甥は小学生の頃のイメージしかなかった。実際のところ、
何年振りに会ったのだろう?待ち合わせの場所に現れた甥は立派な好青年に
変身していた。その時に、僕は言いようのない時の流れの早さを感じたのだった。

☆「うちの子達だけは、あんたみたいになって欲しくないねん!!」
これが姉上が僕に言ういつもの口癖だった(笑)未だにこんなふうに言う。
学校を卒業して、就職も進学もせず、アルバイトなんか「適当」にやって、
或るいは仕事なんかまるでせず、バンドだとかロックだとか言って人生の先のプランなど
何も無く・・・。そりゃそうだ。どんな親だってこんな息子に嘆くであろう。
実際、上の甥っ子は入った大学を辞めてしまい、バンドに狂ってた。
(おいおい・・・僕は確か、君の大学の奨学金の保証人になってたような?)
でもね、姉上だって、若い時には、僕以上にぶっ飛んでいたではないか??
入ったばかりの会社をすぐにやめて海外へ夢追い飛んでいったじゃないか?
とまあ、甥の知らない姉上の昔話を面白おかしく話たところからこの物語は始った。

☆僕の父上は、甥にとってはおじいちゃんにあたるわけだ。
まあ僕ら共通の、ひどいおじいちゃんの昔話で笑い飛ばしてみようかなと。
これが、君たちの知らざる我が家の、かってあったリアル・ストーリーなのだよ・・・
そして、僕が君たちみんなに言いたかった事は、昔の辛い事なんて少しの時間が
経てばどうって事ないよって!大人になれば、もっと大変な事が毎日起こる。
まあ、そう言うことだ。それを人は人生などと軽く呼ぶ。

☆小さい頃から大人になるまでに、何人かの友達や知り合いの人が死んだ。
だけど、僕はSEXと死については何も書いていない。
今もこうしてる間に、人はSEXしてるだろうし何処かで誰かが死んでゆくだろう。
それはもう書いているとキリがないな。
(ちなみに僕は19歳と半年を過ぎた頃に初体験をしてしまいました、
ダメだよ。ここには書かないよ)


☆お散歩百景の写真を観てくれたみんなにもありがとうと。
鳥や猫や花や虫達も、かって僕が昔、何処かで観た原風景です。
僕にとっては、どの写真もあの頃の風を感じる懐かしいものばかりです。

☆どの章のタイトルも、昔の歌の曲名がついています。
同世代の人には懐かしく、文章と共に「あの頃の時代」の匂いが
甦るように少し工夫をしてみました。  
ただ、17章だけが「夜空ノムコウ」ですね。実は全体のコンセプトそのものが、
この歌に少なからず影響を受けています。
勿論、僕たちはこうして「あの頃の未来」に何とか立っています。

☆もし誰かに「幸せか?」と聞かれたら僕は「幸せだ」と答えたい。
誰も銃を持って戦場へと向かう兵士にそんな事は聞けないはずだ。
僕はこの世界の果てで相変わらず未だ貧乏だけど、それでも僕は幸せです。

☆そういえば、君という二人称を文章の中で一度も使いませんでした。
だから最後に、ここで言う事にしましょう。
あなたもこの世界のどこかで幸せに暮らしていますように。

親愛なるみんなと KEIJI O' VALLENAS, KOJI O'VALLENAS,二人の甥っ子たちと
父上、母上、姉上、そしてかって昔に僕が出会った友人たちと
天使たちに特別な想いをこめて。

「僕はいまでも、君たちのことが好きだ」

あの頃の少年 30,

2012-06-04 13:57:52 | 日記
30.   「それぞれの午後のために」

☆春には桜が咲き、花が散ると緑の葉が、やがて夏になると蝉の声、そのうち秋が
来て,落ち葉が風に舞う・・・そしてまたつらく長い冬がやってくる。
そうしてつらく長い寒い冬が終われば、また暖かな春が来て花が咲く。
若い頃には、そんなことがあたり前のように何も気にかける事はなかった。
(今年の秋で僕は50歳になる。ちなみにこれを書いている今は2009年5月です)

あの頃から随分長い年月が過ぎた。
そして僕はこの人生の中で、あと何回くらい春に咲く桜を見る事が出来るのだろう?
秋に真っ赤に色づく紅葉を、あと何回くらい見る事が出来るのだろう?
そんな風に思うと、季節の移り変わりさえも愛おしく思える。
生まれた場所、思い出の場所から遠く離れて、僕はどれくらい歩いてきたのだろうかね?
そしてみんなはどれくらい歩いてきた?

☆おだやかに晴れた日の午後、通りの傍らで佇むノラ猫に尋ねてみる。
「やあ、何処に行くの」って?
「そんなもん、知るもんか!」
「行き先なんかとうに忘れた」
「行けるとこなら、何処でも行くさ!」そんな彼らの声が聞こえたような気がした・・・。

☆北の果てから南の街まで、行けるところなら何処までも行くさ。
通り過ぎてゆく風を追いかけてまた始まる新しい旅路を歩いてゆく。
だから僕らの靴は、いつも半分擦り切れているんだ。

☆悲しみなんて、じつはそんなに重たい事じゃない。
だって、そこですべてが終わったわけじゃないから・・・。
ではみんなと反対側で僕は左へ・・・。残念だけどそういう事だったのかも知れない。
「じゃあまたね。よい旅を」と笑って手を振る。

昨日から今日、そして新しい明日へ向けて
「それぞれの午後」のために。

☆1979年。暖かな春の日。
一つの旅が終わり、そしてまた新しい旅がここから始まる。




注:昨日のように思い出せるけど、それはもう、ずいぶん昔の過ぎた出来事。
たくさんの思い出が僕を呼ぶ。
「帰っておいでよ」と呼ぶ声に背中を向ける・・・もう戻れない事はみんな知ってる。
遡れない時の流れの道だから、前を向いて自分の影を踏まないように僕らは歩いてゆく。
楽園に向かっているのか、荒野を目指しているのか、
それは誰にもわからない・・・「行けるとこなら、何処へでも行くさ」

あの頃の少年 29.

2012-06-04 13:50:36 | 日記

29.   「闇に吠える街」

☆19歳の時に初めてブルース・スプリングスティーンのアルバムを買った。
THE DARKNESS ON THE EDGE OF TOWN/闇に吠える街
このアルバムを聴いて人生が大きく方向転換を始めた。

それまで僕はBEATLESやROLLING STONESやT-REXやAEROSMITH、
NEW YORK DOLLSやSILVERHEADやDAVID BOWIEやLOU REEDなんかも、
大好きなアメリカン・ロックと平行して、これらロックンロールもよく聴いていたが、
ボスのこのアルバムに出会って本当にリアルな歌の存在を知った。

☆ボスの歌の中の主人公たちは、時に「失業者」であったり
「工場で働く父」であったり、時には行き場を失くした等身大の自分たちであったり・・・
夢にまで見た憧れの「フェンスの向こうのアメリカ」人だって、
世界の果てに住む僕たちと同じように苦悩していたんだという事を知った。

☆パンクやニュー・ウェイブの風が世界中で吹き荒れ
新しい奇妙な名前のバンドが続々登場してきてたこの時代に、
19歳の僕の心は、ボスのリアルな歌にいちばん周波数が合った。
目の前に映るどうしようもない現在(今)。等身大の自分を見つめる。

声をあげて叫びたい。
きっと何処かに居るであろう・・・自分のことをわかってくれる、
未だ見ぬ「優しい誰か・・・」にではなくて、いつも僕の隣に居る、
どうしようもない、わからずやの「その人」に向けて。

☆年が明けた1979年、僕は友人から中古のテレキャスターを
安くで譲ってもらい、とうとう憧れのボスと同じギターを手に入れた。
アコーステイック・ギターからテレキャスターに乗り換えて、
僕の暴走人生はここからまた電気的に増幅し加速度を増す。
PATTI SMITH やPRETENDERS、CLASHやU2など、ご機嫌な
ロックンロール・バンドがギターを武器に、世界を相手に戦いを挑んでいた。

☆僕の目の前には巨大なモンスター・・・後ろは断崖絶壁だ。
もう下がれない、闘うしかない。
不幸にもずーっと後になって気がついた事だが、
「巨大なモンスター」は脆弱な自分自身のリアルな姿だったというわけだ。


注:この翌年の1980年にBRUCE SPRINGSTEENはアルバム「RIVER」を発表し、
大成功を収めた。同じ年にBOB SEGERのアルバム「AGAINST THE WIND」が
ついに全米No.1に輝いた。風に向かって走り続けている、ろくでなしたちの歌、
そしてボスは「生きることが罪ではないと心の奥深くに
思っている」僕たちのような、ろくでなしのために歌う。
アメリカの最後の良心・・・あの頃は、本当にリアルなロックが
街中のラジオから毎日流れていた。そうして、僕らはそんな歌を聴いて
本気で「生きる」という事に向き合おうとしていたんだ・・・。

あの頃の少年 28.

2012-06-04 13:47:21 | 日記

28. 「太陽のあたる場所」

☆そんなこんなで、「寒い、痛い、寂しい」三拍子揃ったろくでもない旅を終えて
僕は大阪へと戻って来た。地元の駅に着いてまず真っ先に港へと向かった。
幼い頃から何度となくかよった港。かって舶来船が行き来していた頃の賑わいは、
今はもうなく港はひっそりと寂れ、町は声を静めて眠っているようだった。
工場の立ち並ぶ防波堤近くでは、懐かしい造船所の油の匂いに混じって、
時おり港から吹いてくる海風が、懐かしい潮の香りをかすかに運んでくる。

懐かしい香り・・・思い出す懐かしい顔ぶれ。僕は小学校の最後の年、
一緒に卒業式を挙げた同じクラスの友達の名前を思い出そうとしてみた。
男子、女子合わせて40名くらい、当時は確かそれくらい居ただったはずだ。
家族四人で暮らしていたアパートからいちばん近い友達から順番に名前を挙げていく・・・。
でも思い出せた同級生の名前は半分くらいだった。どうしても思い出せない。
小学校六年生の頃だから、そんなに昔の事ではなかったのに。

☆歳を取っていくにつれ、時間の流れは加速度を増して感じるという説がある。
悲しい事かも知れないけれどこれは本当だ。小学校の頃、夏休みは長く楽しく、
朝の光はキラキラと輝いて眩しかった。だが大人になった頃には
「長く楽しい夏休み」はおろか、ささやかな連休さえもあっと言う間に過ぎ、
やがてさらに歳をとった今となっては休みさえなく、朝の光さえ見る事がなくなった。
夏がくるだび、今も聴こえてくるあのラジオ体操の懐かしい歌声。

♪あ~たぁ~ら・しぃ~いっ・朝がきたぁ~き~ぼ~うぉぉ~お~のぅ~♪
こんな歌さえ、僕を嘲笑っているかのようだ。もう二度と戻れない僕たちに
「新しい朝の希望の歌」だけが、あの頃と同じまま変わらずに流れている・・・。
夏休みの朝、ラジオ体操へ行くのが面倒で嫌だったが、
今は行きたくてもいけやしない・・・。
椅子取りゲームの椅子は全部奪われ、
そしてケームはもうすでに、とっくの昔に終わっていたのだ。

☆僕はもう一度同級生の名前を思い出そうとしてみた。でも、どうしても思い出せない。
かっての遊び仲間たちも・・・きっとみんなもいつか何処かで、
こんなふうに思い出す事があるだろうか?
みんな誰も、僕の名前なんか覚えていないかも知れない。

☆もう一度ふり返ってみるが、幼い頃、家が貧乏で悲しくて辛い事ばかりたくさんあった。
毎日毎日泣いて暮らしていた事ばかり思い出す。同級生の友達のみんなの事が、
うらやましくて、うらやましくて・・・。

☆これは僕が大人になって姉上から聞いた話だが・・・
僕がまだ母上のお腹の中に宿ったすぐの頃、家は貧乏だったので僕は生まれてくる
べからざるように、母上は病院へ行ったという。そうして手術する直前になって
産婦人科の先生が母上に尋ねたという。「本当に手術してしまっていいんですか?」と。
その最後の先生からの言葉を聞いて、母上は泣いて僕を生んでくれる決心をしたという。
それ以上の詳しい経緯は僕は知らない。知りたいともあまり思わなかった・・・
でも、だから僕は「生まれて来るべく運命として生まれて来たんだ」と思っている。
そうして僕は1959年11月23日の夜、満天の星の下、宮崎県の小さな田舎町で生を受けた。


☆生まれた町から遠く離れて、いまだ世界の果てで貧乏だけど、
僕は「太陽のあたる場所」を探し続けている。
A PLACE IN THE SUN. 太陽のあたる場所へ向かって歩き続けている。
あの、むかし夢みた魔法の黄色い靴で。



注:1978年、僕は19歳だった。
19歳というのは世間的にみれば、もう子供でもなく、かといって、
社会的な立場としては大人でもない・・・本当に微妙な年齢だ。
べトナム戦争当時、ベトナムの戦地へ駆り出されたアメリカ兵たちの中で
19歳の少年兵がいちばん多かったという(特に黒人の少年兵だ)
ポールハワード・キャッスルの「19」という歌は、そんな内容の曲だった。
まったくもって不幸な時代だったんだな・・・と思う。
武器よさらば。これはヘミングウェイだね。「若者よ書を捨て旅に出よ。」
これはつげ義春さんだったか・・・そしていつか「太陽のあたる場所」へ。