SUSHI ROCKS

「真音通信」(まおんつうしん)
写真と音楽。猫や鳥や草花、
時に酒に纏わるよもやま話など・・・。

あの頃の少年 27.

2012-05-29 15:14:04 | 日記

 
27.  「遠くで汽笛をききながら」

 ☆「何処まで行くの?」ギター・ケースを抱えて、国鉄「大阪駅」の待合室で
一人で座っていると二十代後半くらいの女の人がそんなふうに声をかけてきた。

 「夜行列車で鳥取まで」僕は答えた。
「マラケッシュ・・・エキスプレス?」 「何の意味?」

 僕のギター・ケースにMARRAKESH EXPRESSと書いた英文字を
指さして女の人はそう尋ねた。

「クロスビー・スティルズ・ナッシュ&ヤングの曲の名前です」と僕は答えた。

「ふーん、知らないわ、有名?」

「そんなに有名じゃないかもだけど、TEACH YOUR CHILDRENって歌は
映画、小さな恋のメロディの最後で、トロッコで二人が
下って行くシーンに入ってたから有名かな・・・」

 「あ、その映画観たわ。知ってるよ、好きよBEE GEES」

「うーん・・・BEE GEESもだけど、映画の最後の曲はCSN&Y・・・」

 こんな話や鳥取まで砂丘を観にいく話なんかをした。

 「私、もうすぐ仕事で、大阪へ引越しするから電話番号教えて。連絡するから」

と女の人が言う。断る理由もなかったので、僕はギター・ケースを開けて
五線紙を取り出し、端を少しちぎって電話番号を書いて渡した。

 

☆そうしてお互い電話番号を交換して、僕は夜行列車で、
女の人は最終電車で兵庫県の三田市まで帰るという。

 「さよなら、気をつけて。よい旅を!」

 やがて出発の時間がきて、待合室を出て切符を握り締め、
僕は冬の風が吹きさらす寒いホームから夜行列車に乗り込んだ。
西へ向かう夜汽車の乗客は少なく車内はガランとしていた。
通路を挟んだ隣の席のおばあちゃんが「何処まで行くの?」と
話かけてきたので、僕は「鳥取砂丘まで」と答えた。

おばあちゃんは、少し呆れたような顔になって
「いまから砂丘まで?朝すごく早く着くで、知り合いがおるの?」と。

 「いえ・・・誰も。一人です」と僕が答える。
これが、孤独で辛く長い旅の始まりだった・・・というのは嘘だ。

 ☆朝早く鳥取駅に着いて「カニ弁当」を買い、とりあえず空腹を満たした。
初めて食った鳥取の「カニ弁当」はめちゃくちゃ美味かった。
というか、カニそのものを食べたのが初めてだったかもしれないか・・・。
いずれにせよカニ弁当は本当に美味かった。
腹も膨れてようやく、陽もあがってきた。
空が少し明るくなってきたので、僕はギター・ケースを抱え、
砂丘まで歩いていった。こんな冬の朝の早い時間に、
砂丘まで遊びに来る人は誰もいない。

僕は適当な場所を見つけてギター・ケースを開けて、ギターを取り出して弾いてみた。

 ☆♪ボロロ~ン♪ ボロ~ンッ~♪ だめだ!吹きよせてくる海風が強く、
風の音が全部さらっていってしまう・・・おまけに寒すぎる。
寒すぎて五分と経たずギターの弦を押さえる指がちぎれそうに痛くなってきた。
寒い。痛い。淋しい。想像だにしなかった、なかなか深刻な状況だ。

これはヤバイ。鳥取で爽やかな風に吹かれて、歌でも作ろうと思っていたが、
歌どころか、このままでは風邪引いて野垂れ死んでしまう・・・。
思い立って一人旅に出てみたが、あまりにも場所と季節がはずれ過ぎていた。

 

☆そんなわけで、僕は寒さに負けて砂丘を後にし
市街へ戻り喫茶店に入って熱いコーヒーを飲んだ。
お金を払って店を出る間際に店のおばちゃんが僕にこう尋ねた。

「何処から来たの?」

「大阪から旅をしに来ました」と僕が言うと、

「何処まで行くの?」と。 わからない・・・これから何処へ行くのだろう?

僕は何処へと行くのだろう・・・?
僕が返す言葉につまっていると、おばちゃんが、ちょっと呆たように
でも笑顔を見せて「よい旅を」と言ってくれた。

 

 

 注:ほんの短い旅だって、それは旅だけど、長い人生だって旅だ。
何処に辿り着くのかは誰にもわからない・・・
坂を登り、時には小石のように転がりながら、
誰しもがこの長い長い道程をゆく。 

だから心に晴れた空を持ってる人たちよ、「よい旅を」 そして乾杯。

 

♪せめて一夜の夢と 泣いて泣き明かして
自分の言葉に嘘は つくまい 人を裏切るまい
生きてゆきたい 遠くで汽笛を聞きながら
なにもいいことが なかったこの町で♪
(アリス/遠くで汽笛をききながら)


あの頃の少年 26.

2012-05-29 15:07:54 | 日記

 
26.   「IT'S NOT THE SPOTLIGHT」

 ☆19歳の誕生日の夕暮れ時、僕は扇町公園のベンチに一人で居た。
日が暮れる前の短い時間・・・少し肌寒い風が吹いて、鳥も人たちも家路を急ぐ。
振り返れば、初めてこの場所へ来た日からちょうど二年が過ぎていた。
僕はこれから先、何をして、何処を目指して歩いて行くのだろう?わからない・・・。

今は未だ何もわからない。もし、どこかに自分の居るべき本当の場所があるのなら
僕はいますぐ走りださなきゃ。ちゃんと歩けもしないのに、僕はいままでずーっと
どこかへ飛ぼうとしていた。行き先もわからないまま。
そして、僕は飛べもしなかったのに・・・。

 

☆やがてすっかり陽が落ちて、街燈に灯がともり、
ひとけのない公園をほんの少し照らす。
置き去りにしてきたものを取り戻しに帰りたい。
でも残念な事に自分の通って来た
道さえも、もう解らなくなってしまっていた。
時はあまりにも早く、僕たちはいつもこんなふうに置いてけぼりだ。 
でも、もう本当に、そろそろ行かなくちゃ。

 

☆ゆるやかな長い坂をのぼりきったところに森田の家はあった。
その二階の灯りの燈った彼女の部屋を、僕は暫く眺めていた。
懐かしい歌が心によみがえり、僕の胸を締めつけた。
それからどれくらいの時間が過ぎたのだろう・・・
誰かにふと、呼ばれた気がして振り返った時、昔吹いたあの頃と同じ風が
誰もいない通りで、僕の傍らを静かに通り過ぎていった。

 

☆やがて美しい月がのぼり、夜の帳が静かに街を包む。
月影のもと、ゆるやかな坂道を下る時、
僕の影は僕にそっと寄り添っていた。
ここから何処へ・・・?明日は何処へ行くのだろう?

 

 

 

注:ROD STEWARTの「ATLANTIC CROSSING」という1975年に
彼がリリースした渾身の名盤があるが、僕はこのアルバムを
高校生の時に姉上に買ってもらって一体いままで何回聴いたたろうか・・・?
レコードは溝が擦り切れるほど聴いて、何回も買い換えたし、
CDもリマスターされたものなどリ・イシューされるたびに買っていたので、
同じアルバムを何種類か何枚も持っている。

若かりし頃には、真夜中にレコードのB面を繰り返し何度も何度も聴いた。
今でもよく聴く。

 

CAN YOU HEAR ME?  CAN YOU HEAR ME?
SOULD I TALK LIKE FARAWAY,  I'M DYING FOREVER CRYING.
TO BE NEAR YOU, WHO CAN SAY.


あの頃の少年 25.

2012-05-29 14:59:46 | 日記

 
25.  「PISS FACTORY」 

 ☆長い夏休み(ニート期間)を終わりにすべく、そろそろ仕事を見つけないと
こりゃヤバイなと思い、地下鉄の売店まで行って「アルバイト・ニュース」を買った。
「職業選択の自由」という言葉はあるが、どれも僕には向いてなさ気なバイトばっかりだな・・・
自分に出来そうな仕事って・・・何だろ??よくよく考えてみるとあんまりないな。

 ☆いくつかめぼしいのを見つけて応募してみたがどれも不採用。
例えば一つは「健康食品」を売る店で、面接時に担当のオバさんに言われたのが、
「うちは健康食品を売ってんだけど、あんた・・・見た目不健康そうやねぇ~」って。

「はぁ・・・まあ・・・そうですかねぇ・・・体は至って健康なんですけど」
そんな感じで、僕の職探しは難を極めた。まず三月に高校を卒業したばっかりなのである。
しかも、就職もせずにバイトを三ヶ月でクビになったわけだ。
それから二ヶ月のニートを経てたから、なかなかどこも採ってはくれなかった。
おまけに僕は面接時でもベルボトムのジーンズにロング・ヘヤーという、
当時でもやや流行遅れになりつつあったいでたちだった。

 ☆アルバイト急募/おもちゃ等の簡単な組み立て/経験不問/若干名/時給400円~
「これだ!これならいけそうだ!若い人を千人も募集してるやんか??」
このフレーズにヒビッっときて早速、この「おもちゃ製造会社」に電話してみた。
で、即日面接した。「千人も募集しているからな・・・そりゃ大丈夫だろう」

そんなわけで、面接して即採用が決定した。「明日から元気に働いてくださいね。」
僕は元気に「はい」と答えて翌日から働く事にあいなった。
(谷町四丁目にあった、このおもちゃ製造会社はどうやら今でも健在らしい)

 ☆このおもちゃ工場での仕事は、流れ作業で一日中ベルト・コンベアの上を
流れてくる部品を簡単な組立加工をするだけの至って単調な仕事だった。
例えば、プラスティック製のロボットの部品にシールを一箇所か二箇所貼るだけだったり、
部品Aと部品Bを張り合わせるだけ(肝心なネジ止めや、
可動部品などの作業は正社員の人が担当)
それを一日に何千個、週に何万個と作るわけだ。単調な作業というか、
ちょっと手先の器用な猫なら出来そうな仕事だった(猿なら絶対に出来るだろう)
そんなわけで、この仕事は時給の金額にそれ相当に見合った、一分間が一時間の如く、
時間感覚をマヒさせてくれる、退屈極まりないものだった。

 ☆みな単純で退屈極まりないので、パートのおばちゃん達は四六時中喋りまくってる。
昨日の晩御飯の話、日曜日のパチンコの話、旦那さんの酒癖の悪い話、
高校生の息子が煙草を吸ってるって話、最近バカ息子がバンドを始めてうるさくって
しょうがないって話、息子がステレオ買ってくれってせがんで困っているって話、
高校を出て、仕事もせずに一日中ごろごろしてレコードを聴いてるぐうたら息子の話。
全部耳が痛かった・・・それはまるで僕の人生じゃないか・・・。

そんなパートおばちゃん達の会話に合流など出来るわけもなく、
むさくるしいバイト野郎たちは「一日中黙々とおもちゃを作り続けた」
それはまるで、気が遠くなりそうな毎日毎日が果てしなく長く
時間の経たない作業を強いられていたのだった。 LIFE IS BITCHね。

 

☆そんなバイト連中の中で、18歳の僕は最年少だった。
バイト先輩たちの唯一の楽しみが、昼休みのギターの練習だった。
みなギターがむちゃくちゃ巧い。びっくりするほど巧い。僕はまだフォーク・ソングで
先輩たちは、アコースティック系のカントリーやらブルースが主流だったけど、
みんな毎日どんだけ練習してんだってくらい巧かった。

このバイト先の先輩たちにオープンDチューニングや、カントリー・スケールや
カーター・ファミリー・ピッキングなんかを教えてもらった。
工場のラジオからは、かなりポップス化した「アリス」のヒット曲なんかが、
毎日聴こえていたが、そろそろフォーク・ソングの時代は終わりが近かった。

 

☆時は1978年の秋。
ベルボトムも長髪も、もうすでに時代遅れになりつつあった。

 

 

注:このおもちゃ工場での仕事は退屈だったが、知り合った先輩たちは
皆いい人たちだったな。みんなそれぞれ心の中に秘めているものがあった。
役者を目指している人もいたし、シンガーやプロ・ミャージシャンを志している人もいた。
元プロのバンドの人もいたし・・・そんな中で僕だけが、意味もなく無垢なままで
世間知らずだった。なんとなく肩身の狭い思いをしたな。
この頃だ。どこか知らない遠い場所に旅に出てみたくなったのは。


あの頃の少年 24.

2012-05-29 14:53:37 | 日記


24. 「SUMMER HOLIDAY」

 ☆人生初のピンサロ体験以降、僕と金平さんはより親密になり、
仕事が終わるとしょっちゅうミナミへと呑みに繰り出した。
僕は、ピンサロはもう懲り懲りですというわけで、たいがいは
「カウンターの中に数人お姉様が立っているバー」へ行き、
いわゆる僕たちはそういった類の店の彼女らにとって「絶好のカモ」だった。

お姉様たちの顔や、名前などはまるで覚えていない。
店の名前すら忘れてしまったが、まあ、70年代当時だから、
ほとんどが「ランちゃん」「ミキちゃん」あるいは「ケイちゃん」みたいな。

僕はまだ18歳だったけれど、お姉様たちは完全にオトナのがめつい女たちだった。

 

☆終電前までひとしきり呑んだ後は、ほとんど毎回帰りの地下鉄を降りて、
地元の公園あたりへ戻ってくるところで吐いた。これが週に一回が二回になり、
やがて三回になり・・・給料が出たら毎日となり・・・しょっちゅう吐いてるうちに
酒がなんだか楽しくなってきた。そうしてアル中の基盤の設計図がこの頃出来上がった。

 

☆生きるという事の難しさに比べて、酒を呑みぐるんぐるんになって
音楽を聴いているとなにもかもが、もうどうでもよくなってくる。
これが一番のヘビィー・ドラッグだと気づいたのは不幸にも、
ずーっと先の事だった。キツイ人生をまっとうしている僕らにとって、
酒は時に心を和ませてくれるし、ある種の出会いのきっかけともなり、
つまり適量な酒は、もっとも身近にいる合法な友達なのだ。
あるいは一方通行的な親しい彼女。

 ☆しかし、酒と女はある一線を越えると、すべてを失うハメになる引き金となる。
金、仕事、信頼関係、家族の絆、健康・・・むむっ・・・
「これは父上が歩んで来た茨の道ではなかろうか?」
「かって僕たち家族がもっとも忌み嫌った地獄の入り口・・・」そう気づきつつも、
僕と酒の蜜月は続いた。ふと気がつけばそこはすでに「地獄の三丁目」

 夏が来る前に、僕はあっさりとバイトをクビになった。
仕事中の昼休みに公園でギターの練習をしていたのだな、
ビールを呑みながらね。これが課長にバレてしまった。

「昼休みに酒を呑んではいかん!」こう怒鳴るハゲ課長を横目に僕たちは心の中で
つぶやいた・・・「課長、すんまへん。実は仕事中でも呑んでます。」
夕方のそろそろ仕事疲れが響いてくる頃に、ワンカップ大関をぐぃっ!とやるのだ。
ビールはダメだ。飲み干すのに時間がかかる。ワンカップをトイレで決める。

このショットが最初の頃は一本で決まってたものの、やがてそれが二本になり・・・
そうこうしているうちに、これが或る日ついにハゲ課長にバレてしまったのだった。
(そりゃあバレるわね・・・バイトくんたち皆顔真っ赤で酒臭い)

 ☆酒を覚えたせいでまずは、財布の中身と職を失った。得たものはただ一つ。
「高校を卒業した年の夏、僕は夏休みの高校生よりも長い夏休みを手に入れた」

 

 

 

注:初めてのピンサロに、覚え始めた酒の蜜の味。
可哀相に、高校を卒業したばかりの18歳の少年はどんどん堕ちてゆく。
誰も助けてはくれない・・・そう、周りにいる先輩達みんなが
溺れて死にかけている哀れな難民だったのだ。


あの頃の少年 23.

2012-05-29 14:44:19 | 日記


23. 「ブルーにこんがらがって」

 ☆高校を卒業してすぐに入ったバイト先に金平さんという、
やたら面白い人が居てこの人が無類の酒と女好きで、
仕事が終わればミナミまでよく呑みにつき合わされた。

初めて連れて行かれたのは、ミナミは千日前にあったピンク・サロン「ハワイ」だ。
「あれっ?なんで母上が居るんだ??」と見間違うほど、
歳恰好が似たオバ様が接客してくれた。

安いピンク・レディ風の衣装で膝の上にまたがられ、
股間を撫で廻わされ、挙句にはソファーの上に乗って、
僕の顔を強引にパンティーに擦りつけ・・・
これは「地獄だ」「拷問のような・・・これはこういうプレイなのか情欲など皆無だ。
想像してみて欲しい。君の母上が安いピンク・レディ風の衣装を身に纏い

上記のよふな行為をされたら・・・いやいやこりゃあとても無理だろ?
MOTHER FUCKERたちよ??
オバ様の執拗な先制攻撃に何とか耐え忍んでいたところで「はいチェンジ!」

 

次のお姉様がやって来た。こちらはまあ・・・若い。
オバ様よりもやや若い僕は18歳で、お姉様は30歳ちょい過ぎだろうか・・・
もうちょっと上かな?隣の家のおばちゃんくらいかな?
いかんせん、女性の年齢は解りにくいもんです。
特に陽が落ちた夜のこういう、薄暗い場所では。

☆その、母上よりやや若いお姉様が、
僕の隣に密着してきて豊満な胸を僕の体に擦りつけてきます。
そして耳元で囁きかけてくる「おっぱい触ってもいいのよ」

ヤバイ・・・夢にまで見たおなごのたわわなおっぱいが
目の前で「触ってもいいだなんて。「触ってみようかな・・・どんなんかな~
こんなアホな場所で、アホな妄想をしてるうちに僕は勃起した。
それを、お姉様はすかさず察知してジーンズの上から撫で撫でしてくるわけです。
いままで18年間どんな女も触った事のなかった僕の性器を・・・
初めて会った見ず知ら図のお姉様が触るのだ。

「アカン!もう、かっちんかっちんや!」

やっぱりおっぱい触ってみようと決心して手を延ばした瞬間、
「はい時間です!!」「延長しますか?」ってさ・・・。GAME OVER!だ。
バイトで稼ぐほとんど日給のすべてに近い金額を遣い果たし、
僕らは家路についた。

 

☆いまでも時々、東京から大阪へ帰り千日前のこのあたりを歩いた時には
このピンク・サロンの「ハワイ」を僕は思い出す。
店を出て、千日前通りから地下鉄「心斎橋駅」へと帰る通りの途中で
JACKSON BROWNEのLATE FOR THE SKYが流れてた。
そう、大阪ミナミの夜は カリフォルニアの空よりも、深いブルーにこんがらがっていた。

 

 

注:ピンサロ初体験というわけさ。
この出来事はいまでも強烈なトラウマとなっている。
この日ばかりは、かって知り合った女の子たちが
天使のように思えてた夜だった。
そして僕のもとを飛び立った天使たちは二度と僕のドアを叩くことはなかった。
大いなる幻想の遥か彼方の岸辺で天使たちは翼を休めてる。
さよなら、優しかった天使のような女の子たち。


あの頃の少年 22.

2012-05-22 14:55:45 | 日記


22.   「卒業」

 ☆「学園祭でバンドやるんやけど、おまえベース弾けるか?」
昼休みに僕のクラスまでやってきたE組の徳田くんが、
唐突にそう話かけてきた。「学園祭って・・・あと10日くらいやんか?」
僕はベースなど触った事もなかったけど、面白そうなのでノリでやってみる事にした。

 チューリップのコピーを三曲「ぼくがつくった愛のうた」「人生ゲーム」「青春の影」
ベースを弾いた事はなかったが楽曲はどれも好きだった。
レコードからコードをコピーして、全員で一度だけスタジオに入ってリハーサル。
あとはギターの徳田くんの家で、二人で数回音合わせをして、
いざ本番。これが人生初のライブ出演だ。いまになって思えば相当てきとうだよね。

それでも学園祭では、それなりにバンドはウケてまあまあ盛り上がった。
大切なのは演奏力はもちろんだけど、何よりも楽曲の良さなのである。
この時のライブを録音したカセット・テープが実は僕の手元に残っている。
後年聴いてみたら、演奏は酷いものの楽曲の良さは充分伝わってくる。
(偉大なるソング・ライター財津和夫氏に多大なる感謝を・・・)
音の酷いカセット・テープには若いあの頃の少年たちの
「夢と見栄と、希望と無謀」がだっぷり詰まっていた。

 

☆このライブが引き金となって僕は俄然ベースに興味がわいてきた。
学校帰りに京橋の楽器店へ走り、12回分割払いで某オンボロ・メーカーの
プレシジョン・ベースのコピー・モデルを買った。32000円くらいだったかな。
これがこの頃までの人生において自分で買った最高値の買い物だった。

 

☆学校が終われば早速、家に帰ってきて練習をする。
時には練習したさに学校をさぼり、一日中ベースを抱いていた。
週に数回は近所の鉄工所でハイライトをくわえながらバイト。
休みの日にはロック喫茶。ライブ・ハウスなら「バハマ」や「バーボン・ハウス」さ。
金がない時は梅田から朝潮橋まで歩いて帰ったり・・・
時には「キューピット」で知り合った年上のお姉様に奢ってもらい、またある時には
お姉様に「お腹が空いてるならうち来る?」などと甘い言葉に誘われ、
お腹は空いていたからご飯は食べたかったけれど・・・

しかし、僕は優しい言葉をかけてくれるお姉様の家には一度も行った事がなかったな。
いまなら「来るな!」と言われても押しかけるだろう。
僕は相変わらず世界の果てで貧乏で「童貞」だった。
まったくもって、やれやれ・・・なのだ。

 

☆いよいよ高校も卒業のシーズンがやってきた。
夏休み以降の出席日数が絶対に 足りていないはずだったが、
それでも何故か事なく卒業出来た。 無事追い出されたというわけか・・・?
大学進学も就職もしない、そんな奴は 学校にとってまるで必要ないのだ。
要するに実績としては何も残らないしね。
卒業名簿に名前が残るだけ・・・ただそれだけ。

 

☆同級生の数人は無事就職し、あるいは大学や専門学校へと進学した。
仲の良かった北島くんは受験に失敗し予備校生となった。
森田は事なく高校へとエレベーターで進学し、牧野は某有名大学に合格したと風の便りに聞いた。
中学時代の楠見は、知らない間に家が引越ししたらしく、残念ながらあれ以来二度と会う事はなかった。

時は1978年の春。長い歳月が風のように過ぎてしまっていた。

 

☆みんなは今頃どこで何をしているのだろう?「みんなは元気ですか・・・?」
僕は、あの頃からあまり変わらず、毎日ROCKで「相変わらず世界の果てで貧乏」だけど
時々みんなのことをふと思い出しては、こうやってこんなところで、こんな事を
徒然なるままに書いてみたりしています。もちろん「僕は元気です」

 

 
注:苦悩の日々だった高校をとうとう卒業した。
でも先の事なんて何も見えない・・・わからない。
いったい何処へいけばいい?とりあえず雨が降る前に歩きだす。
SUSHI WAS A YOUNG BOY....そう18 AND LIFEだ。


あの頃の少年 21.

2012-05-22 14:48:46 | 日記

 
21.  「春夏秋冬」

 ☆夏休みが終わって、面倒な新学期がまた始った。
僕は三年生の夏休み以降、ほとんど土曜日に学校へ行った事がない。
クラスの皆は就職や、大学受験勉強で結構ピリピリしていた時期だったが、
僕は進学もしないし、就職する気もまるでなかったから
毎日をのんびりのん気に過ごしていた。ある土曜日の朝起きて顔を洗って
制服に着替えて家を出たけど、どうにも学校へ行く気がしない・・・。
なんとなく電車に乗ったものの、やっぱり行く気がまるで起こらない。

 「そうだ!キューピットへ行こう・・・」(注:1)
大阪駅で電車を降りて、 梅田の地下街の喫茶店でモーニング・セットを食べ
腹ごしらえして10時まで時間を潰す。
そうロック喫茶の「キューピット」は 朝の10時オープンだ。
開店一番のりなんである。制服を着た高校生が、 ロック喫茶で煙草を吸いながら、
暇そうにロックを聴いてるってわけだ。
店主はさぞかし「やれやれ・・・」な気分だったろうね。
店開けて午前中の一番のりの客が、見るからに学校サボッって来た高校生だもんな。

 (注:1.キューピットは大阪梅田の阪急ファイヴの前にあったロック喫茶で
主にビデオで曲を流していた、70年代のこの時期にロック・バンドの映像は
テレビ番組など、ほとんど皆無な時代に、それ相当貴重なものだった)

 なんせクラスの中で、ビデオ・デッキを持っている奴は二人しか居ない。
映像が見たければ、フィルム・コンサートへ行け!(注:2)
70年代後半は未だ映像がそんなレアな時代だったのだ。

 (注:ロック・バンドのライブ映像や、ビデオ・クリップを有料で見せるイベント。
何とも屈辱的ではあったが、当時はこれでしか観れなかった)

 

☆しかし僕にとっては「キューピット」の、午前中の他の客が誰も居ない時間帯が
至福のひと時だったのだ。レッド・ツェッペリンを聴いて、
グランドファンク・レイルロードに痺れ、キッスに燃えて、ブロンディに萌え、ランナウェイズで勃つ!
まあ、こんな感じで、のんべんだらりと同級生の皆が受験勉強にあくせくしている頃、
僕はひたすら「人生の坂道を転げ落ちまくってた」わけだ。
この至福の時間がたまらなくて、無断欠席して、毎週毎週「キューピット」へ通いまくった。

学校の担任の橋本先生は 「休むなら電話連絡くらいせんかい!!」と怒っていたが
二週、三週と続けてるうちに、何も言わなくなった。
要するに見放されたというわけだ。まあ就職もしない、大学受験もしない、
そんな奴が一人 学校に来なくなったところで、誰もなんら困りはしない。
むしろ「そんな奴居たっけ・・・?」くらいの存在感だ。

 

☆実のところは、この頃父上の酒乱が絶頂期で、毎晩毎晩起こる狂宴のせいで
眠れないし、僕も精神的にかなり限界が来てた・・・。
寝不足で学校へ行き、授業を受けるのがかなりキツかった。
そんなわけで、僕は夏休み以降の授業は学校に居れば寝ている、
居なければキューピットでロックを聴いている。キューピットにいなければ、
家で寝ている・・・父上が帰って来る夕方になれば顔を合わさぬよう港へ行く。
毎日その繰り返しで、後年になって所謂「ニートやフリーター」などという
言葉がまだなかった時代に、その原型を僕は77年秋に提示し、そして固めた。

 
♪季節のない街に生まれ 風のこない丘に育ち 夢のない家を出て 愛のない人にあう♪

 

 

 注:春・夏・秋・冬・・・そしてまた春が来て夏が逝く。
ふと気がつけば、いつもまた一人だ。
孤独と音楽だけが、相変わらず僕の親密な友人だった。


あの頃の少年 20.

2012-05-22 14:41:05 | 日記

 
20. 「春だったね」

 ♪僕が思い出になる頃に 君を思い出にできない そんな僕の手紙がつく
風に揺れるタンポポそえて 君の涙をふいてあげたい
ああ 僕の涙はあの時のまま 広い土手の河原の上を 
ふり返りながら走った ああ あれは春だったね♪

 

☆春が訪れ僕は高校三年生になった。森田との痛手は消せないものの、
それでも新しい季節は、またやって来て僕の再び空っぽになった心のドアを
ドンドンと叩く。「おい!眠りこけてる時間はないぞ!」って。

 ☆三年生になったからって、とりたてて変る事もない日々だったが、
この頃僕は友だちに借りたアコーステイック・ギターを暇にあかせて
毎日猛練習していた。人生の厳しさや、恋の難しさに比べ、
フォークソングのギターのコード進行は、いたって簡単なんだ。
だいたい三つ四つの基本になるコードを覚えたらそれなりに歌になってたりする。
吉田拓郎から始まり、井上陽水や泉谷しげるや加川良など、
大阪港の防波堤から、もの悲しく響くスリー・フィンガー・・・なんてね、

でもニール・ヤングの「HEART OF GOLD」へはまだまだ遠い孤独の旅路であった。

 

☆夏になる少し前に友人が、とある女の子を一人紹介してくれた。
ごく普通のかわいい、でも何処にでもいるような女の子だ。
電話番号を交換して、何度か電話で話したり会ってお茶をしたりしているうちに
なんとなく彼女の事が好きになってきた(ような気になってきた・・・)
会ってどんな事を話していたんだろう・・・あまり覚えてないな。
不思議なことに彼女との会話や、遊びに行った場所など、まるでよく思い出せないんだ。
幼少の頃の出来事や、いろんな事を明確に覚えていたはずの僕の記憶の中で、
彼女との事だけが、なぜだか少し足りないジグソー・パズルのように
でも肝心なところの断片が抜け落ちている・・・そんな感じ。

 ☆一度だけ彼女と姉の住むマンションへ遊びに行ったことがあった。
この時の事はとてもよく覚えている。
夏休みも終わりにさしかかった頃のとても暑い日のことで、
僕たちは汗を拭いながら川に沿った土手を歩いて、姉の家まで訪ねた。
音楽を聴きながら、ご飯を食べたりコーラを飲んだりして楽しく過ごしたが、
そのうち姉が出かけてしまい僕と彼女は部屋に二人きりになってしまった。
二人とも、いつの間にか言葉を見失って無言になってしまい、
僕はなんとなく間を持たせる事が出来ずに、音楽が終わってしまって行き場を失ない
レコード針が溝をいったりきたりしているドゥービー・ブラザーズのレコードを
ターンテーブルからジャケットにしまって、傍らにあった加川良のレコードを乗せた。

 加川良のアルバム「南行きハイウェイ」を聴きながら、無言のまま時だけが過ぎてゆく。
しばらく沈黙の時間が過ぎた頃、僕が彼女の手をとって引き寄せた。
彼女は何も言わなかったが、手を廻した彼女のワン・ピース越しの背中に
僕は「柔らかな・・・冷たい拒絶」を感じた。
そうしてどれくらいの時間が過ぎたのだろう・・・しばらくして彼女が、
「ねぇ、外を散歩しましょう」と言った。僕の手が離れ、彼女は少しうつ向いたような表情で
どこか遠いところを見ているような・・・。

 

☆ある静かな夏の日の遠い記憶。
彼女の事はよく思い出せないけれど、いまも僕の中で鮮やかに蘇るのは
彼女の「柔らかな背中の冷たい拒絶」だ。
また心のどこか隅のほうでぽっかりと穴が開いてしまった。

 それから僕は一度だけ彼女に手紙を書いたが、
返事は帰ってこなかった・・・それから、ずいぶんと時間が経って、
年が明けた日、すっかり忘れかけていた彼女から年賀状が届いた。

 「新年明けましておめでとう。」
高校を卒業してお互い行く道は別々だけど、ずーっと仲良く過ごせたね」
そこにはそんなふうに書かれていた。

 

 

 注:そうだっけ・・・「ずーっと仲良く過ごした」記憶が僕の中にまるでない。
思い出すのは酷く暑かったあの夏の日の出来事だけだった・・・

「柔らかな背中の冷たい拒絶」と、最後に彼女がよこした言葉の「優しい嘘」


あの頃の少年 19.

2012-05-20 13:40:05 | 日記


19. 「THE SOUND OF SILENCE」

 HELLO DARKNESS MY OLD FRIEND I'VE COME TO TALK WITH YOU AGAIN.

 

☆歳が明けた1977年。二月も終わりに近い寒い夕暮れ、
僕は森田に電話をかけ突然「さよなら」と言った。
森田は受話器の向こうで泣きながら、そのわけを僕に訊いた。
僕はそのわけをうまく言えなかった。

 「私の事が嫌いになったの?」
(嫌いになんかなるわけがない・・・)
「いやなところがあったら言ってくれればいいのに・・・」
(いやなところなんか何一つない・・・)
「じゃあ、どうしてそんな事を言うの?」
(わからない・・・)

 
☆今でもまだわからない。僕はずーっと森田の事が好きだった。
森田も僕の事を好きでいてくれた。なのに僕はどうして「さよなら」を言ってしまったのだろう・・・。
僕は「あの頃の少年」にもう一度会いたい。会って少年と話してみたい。
ただ少年は他の誰にも話せない、
絶対に誰にも見られたくはないそんな気持ちをいつも抱えていた。

 
☆森田が優しすぎて僕は怖かった。
かって僕の住んでいた、森田の存在がなかった世界と、
いま僕の心の中に森田が存在している世界・・・
この二つの世界の存在が僕にはとてもつらかった。
もちろん森田はまだ14歳でそんな事は知らない。
素直で美しい心を持って、大切に育てられてきたのだ。

 ☆ガチャリと音がして最後のコインが落ちた。もうすぐ電話が切れてしまう。
僕はポケットに手を入れてコインを探したが、もう一枚もなかった。
どれくらいの時間を話ていたんだろう・・・?つらかった。
森田が涙声で再び何かを言おうとした時に「ゴメンね」と言って僕は電話を切った。

 

☆電話を切った瞬間に涙がこぼれた。
ずーっとガマンしていた涙が どうしようもなく溢れてきた。
僕は涙を流しながら凍てついた冬の散歩道を通りぬけ港まで歩いた。

 かって、外人バーが立ち並んでいた通りを ぬけたはずれに小さな公園がある。
子供の頃、かって同級生のみんなで野球をして遊んだ場所だった。
すぐ隣にはひっそりと眠っているかのように港が静かに横たわる。
陽が落ちて暗くなった冬の港は、人影もなく、
時おり遠くを行く船の汽笛の音 だけが聞えてくる。
やがてふと風がとまり、ほんの一瞬寒さがやわらぐ。

 
☆僕は公園のベンチに座っり、煙草を吸いながら空を眺めた。
小学校の頃、コーラの空き瓶を集めた倉庫街、
一升瓶を抱えて毎日酒を買いに いかされていた事や、
駄菓子屋のオババの事、家族四人で住んでいたあの オンボロ・アパートや、
ー毎日泣いて暮らしていた母上の事・・・いろんな事を思い出した。

 ☆そんな辛い思い出と、森田の優しい笑顔が重なってまた涙がこぼれた。
彼女がくれたたくさんの手紙、バレンタインディのチョコレート、
手編みのセーターと公園のベンチに座り、誕生日に初めて交わしたKISS。
いろんな思い出を僕はあの日、あの場所にそっと置き去りにしてきた。

 

 ♪ハロー僕の古い友達 暗闇よ また君と話にやってきた
ボンヤリとした幻影が そっとやってきて僕が眠っている間に そっと種を置いていった
そのまぼろしは僕の意識に宿り 今も静寂の音の中で動かない♪

 

 

注:映画「卒業」の中で印象的なシーンで流れる、
サイモン&ガーファンクルの名曲「サウンド・オブ・サイレンス」
僕がこの歌を初めて聴いていた中学生の頃には、
この歌詞の意味するところを知るはずもなかった
深い孤独と絶望の淵から何かを啓示しているかのような醒めた言霊。

映画はハッピー・エンドだったけれど、僕らは銀幕の中の主人公、
ダスティン・ホフマンのようには誰もなれなかったんだ。


あの頃の少年 18.

2012-05-20 13:29:54 | 日記


18.
「青春の光と影」 

 ☆誕生日、冬休み、クリスマス・・・僕にとっては、
初めて体験するいくつもの楽しい日々が過ぎてそして新しい年が明けた。 

 

☆毎年、僕は誕生日には自分でバースディ・ケーキを買ってくる。
ローソクはなぜかいつも17本だ。 そうして、店のスタッフや
たくさんのお客様と一緒に酒を飲んで愉しく過ごす。
みんなが祝ってくれるのは本当につくづく幸せだと思う。
 本当の17歳のときにはケーキなんかなかったからね。
もちろん18歳も19歳のときにもなかった・・・。
振り返ってみれば30歳半ば過ぎまでバースディ・ケーキなんて
なかったように記憶している。欲しいとも思わなかったしね。

 

☆いまは誕生日を10代の頃の気持ちでもって楽しむことにしている。
ホントは17歳の頃なんて辛いことばっかりだったんだ。 
でも、僕たちが過ぎてきた歳月を振り返る時、それはほんの少し輝いてみせる。 

思い出とはそういうものだ。絶対に戻れない場所があり、
戻れないからこそ それが愛しく思える。
もう一度、時を遡ってめぐり逢えたらどんなにいいだろう。
でも僕は楠見や牧野や森田に、本当の事をうまく正直に言えるのだろうか?
解らない・・・うまく言えるといいな。「あの頃の僕は・・・」
いや、やめておこう。誰も時を遡れないじゃないか。 

 

☆僕は森田に貰ったあのセーターをどこへやってしまったのだろう? 
いまとなっては思い出せない。僕が手に入れてきたものと、
 失くしてしまったもの。奪われてしまったもの、あるいは僕が自らの手で 

捨ててきてしまったもの・・・それらは僕の心のいちばん奥にある、
古い井戸の底でひっそりと、いまも眠っているのだろうか? 
僕が真夜中に深く暗い井戸をこっそり覗き込むたび
もう一人の影のような自分が僕にささやく。 

「もういいじゃないか・・・全部終わった事だから」 

 

☆忘れてしまいたいたくさんのつらい思い出と、
忘れられないほんの少しの愉しかった思い出。 
それはいつも、背中合わせに並んでいる。 
ずーっと昔の昨日と、ほんの少し前の今日と、
そして未だ見ぬ明日を、悲しみの記憶がそれらを紡いでゆく。

 

僕らの日々は、とまることなく廻り続けるメリー・ゴーランド・・・
そして時は海。寄せては返す波にうちあげられ、
愚かな僕の心は朽ち果てて岸辺に静かに横たわる。

 

 

 

:この18章目を、僕はボブ・ディランのアルバム「欲望」を
何度も聴きながら書いていた。なので、アルバムに収録されたいくつかの曲に
何かしらの影響を受けているかも知れない。
OH, SISTER」の歌詞からは少し言葉を借りた。

「時は海だが岸辺までだ 会えぬかも知れぬ・・・明日は」

歌の最後にこんな歌詞が出てくる。
当時は、このフレーズに子供心にもしびれてしまった。

初めて買ったディランのアルバムを17歳の頃以来、僕はずっと愛聴している。