文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

よほどの覚悟がいるということだ。それなのに「あーあ戦争と言っちゃった」と枝野や前科者の辻元がキャーキャー騒ぐ。お前らには外交は無理だ。

2019年05月24日 09時46分32秒 | 日記

以下は、昨日、発売された週刊新潮に掲載された高山正之の連載コラムからである。
奪われた怨み
昔も今も戦争(War)といえばみな征服(Conquer)戦争を指す。 
征服とは相手の領土を奪うことを言う。 
旧約聖書時代、ユダヤの神はモーゼに今のイスラエルの地を征服しろ、そこに先住する民は片端から殺して領土を奪えと命じた。 
民数記にはミディアン人の征服が微細に記されていて、まず兵士を皆殺しにし、彼らの街も襲って「男は赤ん坊まで殺せ」「既婚の女も殺せ」と命じた。ただ「処女はお前たちへの贈り物にするがいい」 
この戦法はユダヤ人に限らずモンゴル人もスペイン人も真似て領土を広げた。
米国人も新大陸につくと先住民を300年かけて殺し尽し、今の国土を得た。 
ハーマン・メルビルは「米国人は現代のイスラエルびとだ」と先住民大虐殺をむしろ誇らしげに書いている。 
現代の文明人はメルビルみたいな無教養な発言は控え、領土目的でも征服と言わずにただの戦争と言う。 
独仏国境のアルザス・ローレーヌはその意味で格好の「戦争」見本だ。 
独がまず普仏戦争でここを征服し、独語を教室で教えさせ、ローレーヌもロートリングンと独風の名にした。 
仏人作家のアルフォンス・ドーデはそれが悔しくて『最後の授業』を書いた。 
次に第一次大戦で仏が取り返すと仏語授業が再開され、第二次大戦ではヒットラーが占領してまたまた独語に戻したが、戦後はみたび仏語に戻っている。 
この取り返しごっこでも分かるように、戦争で取られると悔しい。
いつか取り返そうと思う。
逆によその領土を取れば、それは民族的な勝利であり、これ以上誇らしいものはない。 
この思いは今も生きる。
例えば支那。
先の戦争ではアジアを裏切って白人国家に与して日本と戦った。 
ルーズベルトは蒋介石に裏切りの報酬として「香港と仏印をくれてやろう」(C・ゾーン『米英にとっての太平洋戦争』)と言った。 
戦勝国の証としての領土獲得だ。
おまけに両方とも元支那領。
奪われた領土を取り返せるのは至上の喜びだが、蒋は英仏という白人大国の機嫌を損ねるのを恐れて辞退した。 
むしろ蒋は支那人のプライドとして日清戦争で日本に取られた朝鮮と台湾を取り返したかった。 
白人相手ならしょうがないと諦めもつくが、同じ黄色同士だと取られた悔しさは倍加される。 
しかし朝鮮にはもうソ連が出ていた。
蒋介石は台湾だけで我慢した。 
同じ思いは、実は蒋介石を追った今の支那共産党政権にもある。 
ことに習近平は日清戦争に拘る。
つい先年も日清戦争120年の記念式典で「支那人の偉大なる復興」を語った。
今なら日本には負けない、最低で沖縄くらいは取ろうと思っているのだろう。
その思考の中に台湾も入ってくる。 
支那の国家主席として奪われた台湾を自分の領土に編入したとき初めて120年の怨讐が晴れる。
しかし今はすごく中途半端で「一つの支那」論はトランプに一蹴され、台湾人までが「支那人と呼ばないで」とか言い出している。
習近平は今、台湾武力併合を語る。
取られた領土に対する思いはそこまで深い。 
北方四島も同じだ。 
ロシアはあのとき日本の武装解除を待って攻め込んだ。
何ともみっともない所行だが、そこまでするほど日露戦争に負けて領土利権を奪われた恨みは深い。 
ホントは北海道まで征服するつもりだったのに武装解除しても日本軍は強かった。
結果は北方四島を取れただけだが、スターリンは大喜びした。 
それほど思い入れのある領土問題について丸山穂高議員が「領土は戦争でしか解決しない」という論理を舌足らずに発言した。 
趣旨はいい。
戦争でしか解決できない問題を別の手段でやるなら経済封鎖とか国交断絶とか、よほどの覚悟がいるということだ。 
それなのに「あーあ戦争と言っちゃった」と枝野や前科者の辻元がキャーキャー騒ぐ。
お前らには外交は無理だ。


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