以下は前章の続きである。
ちょうど同じころ、アフリカからジャマイカに向かった英奴隷船ソング号の事件が起きている。
442人の黒人奴隷に病気で死者や衰弱者が出た。
他の「商品」に感染しないよう船長は病んだ132人の奴隷を手枷のまま海に投棄させた。これが裁判沙汰になった。
商品の3分の1を失った荷主が船会社に損害を補償せよと訴えた。
裁判はこじれ、上級審までもつれ込むが、どこまでも黒人は単なる商品であって、海に捨てられる彼らの恐怖が論じられることはなかった。
最後の最後にやっと「手枷をつけたままというのはいかがなものか」の一言が出て、それでソング号の名が歴史に残った。
彼らはその程度の感度だった。
まして命を取るわけでもない、歯の5、6本を抜くだけだからワシントンに憐れみとか罪悪感はかけらもなかっただろう。
19世紀に米国にきたトクヴィルも「黒人奴隷も先住民も白人のために働くという意味では家畜と同じ」と言った。
家畜が「役に立たなくなれば処分するのは当然だ」と続く。
歯が役立ったのは目的に適っているとこのフランス人は言っている。
白人はそう考えてきた。
カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』は遠い将来、肝不全や胃がんになったときのために臓器移植用として育てられるクローンの子供たちの物語だ。
語り役の今は31歳になるキャシーもその一人。
いつかは遺伝子の主のために心臓を含めた自分の臓器を提供する運命にある。
そういう事実を子供たちが寄宿学校の先生の何気ない会話や態度から敏感に感じ取っていく。
将来の夢を語って、教師に叱られたこともあった。
夢を見てはいけないと。
そして友達が連れていかれ、キャシーは臓器を失った彼女の介護に当たる。
彼女が見つめる世界はトクヴィルの言う「ご主人様の役に立つ」側が見る世界だ。
ご主人様のために歯を抜かれる黒人が見ていたのと同じ。
それはワシントンが見ようとも思わなかった世界だろう。
イシグロのノーベル賞受賞に欧米評論家は「新鮮な感覚」と一様に言った。
正直な感想だと思う。
というか、まだ「新鮮」と思う彼らの変わらない感覚に少し呆れる。