文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

日本の悪事となれば事実と思い込み、〈加害者と被害者の関係で社会の何事をも捉える方が理論的かのような錯覚〉に陥って、

2022年07月17日 08時23分09秒 | 全般
2015/12/27に、章ごとに分けて発信した章を数章にまとめて再発信する。
先般、私が勧めたとおりに、今月号の月刊誌「WiLL」を購読した人たちは、朝日新聞の実態とは私が言及し続けて来たとおりだった事が100%分かったはずだ。
未だに購読していない人たちの背中を押すために、前章の続きを紹介する。
朝日「パブロフの犬」現象 
〈2014年8月5日、この日をもって最終的に朝日新聞の実質は終わった、崩壊したー〉
日本軍が朝鮮半島の女性を強制連行し、慰安婦にしたといういわゆる「吉田清治証言」。
朝日新聞が30年の時を経て「虚偽であった」と認めたこの日、その紙面を〈荒地にたたずむ思い〉で眺めていた人物がいる。
長谷川煕。1961年に朝日新聞社に入社。93年に定年退社し、その後も、88年の創刊の時から所属していた『AERA』に社の嘱託として1年間、あとはフリーの社外の筆者として、取材、執筆を続けた。
が、8月5日の記事を目の当たりにし、〈報道に各方面から疑問が高まってからも長く放置してきたことに一言の詫びもなく、問題は、長年にわたり報じてきた官憲の強制連行ではなく、慰安婦が存在したというそのことであると話をすり替え、開き直っていた〉〈威張り返った、そして物事をごまかす態度に愕然とし〉、朝日新聞社を去った。
冒頭の一文は、長谷川の述懐である。
朝日入社から53年の月日が経っていた。
朝日を去ったのは、朝日新聞という会社の「歪み」を追及するためだった。
2014年秋から2015年にかけて朝日新聞社の何人もの現役、OBに会い、あるいは電話で取材し、7、8ヵ月をかけて「崩壊 朝日新聞」(ワック刊)を書きあげた。
執念の書、というべきだろうか。
半世紀にわたり朝日にいながら日々の仕事に忙殺されていたこと、あるいは他紙や雑誌で噴出する朝日批判に応える企画を『AERA』では掲載することができなかったことに対する贖罪の思いもあったのかもしれない。
記者として、事実と向き合うことを怠った朝日新聞を〈根から大きく腐っていた〉と厳しく批判する。
『崩壊 朝日新聞』は8月5日の検証記事、いわゆる従軍慰安婦問題に多大な影響を及ぼした北畠清泰、松井やより両名の追及、そして戦前から戦後にかけて朝日新聞に吹き荒れていた共産主義の風にまで遡り、朝日新聞の体質を検証。
日本の悪事となれば事実と思い込み、〈加害者と被害者の関係で社会の何事をも捉える方が理論的かのような錯覚〉に陥って、真否の究明も検証も擲(なげう)って報じてしまう「パブロフの犬」状態を指弾する。
この稿続く。
以下は前章の続きである。
退社を決意させた8月5日付の朝日新聞の記事のなかでも、特に「よく知る問柄である」取締役の杉浦信之が「編集担当」の肩書で書いた「慰安婦問題の本質 直視を」との記事には、憤りを隠さない。
〈吉田清治虚偽証言を真実として繰り返し報道し、その吉田を評論で称え応援したことは歴史の捏造に輪をかけるばかりか、世界的に日本の信用、評価を著しく貶め、末代までも苦しめるものである〉〈さきの特集には、そのことを検証した文面もない。しかも、1面の杉浦論文は、強制連行の吉田虚偽証言の報道は反省するが、問題の本質は、多くの女性が軍の慰安婦になっていたという「人権侵害」にあり、これについては今後も追及を続けていくという趣旨のことを宣言している。これは吉田証言報道の重大失態をぼかし、論点をすり替える以外の何物でもない〉
〈吉田証言記事取り消しの打撃を少しでも薄めたいという朝日新聞社の都合、意図が丸見えだった〉「反朝日キャンペーンだ」 この検証記事を、長谷川が取材したOBや現役記者はどう読んだのか。
〈慰安婦虚報事件を朝日新聞社の何らかの体質に関わる深刻な問題と認識している人も若干名いたが、単なる一過性のことと見たり、反朝日新聞勢力の攻撃にひるんではいけない式の口振りだったり、事態を矮小化している人も少なくなかった〉 当時の朝日新聞社社長・木村伊量は全社員向けの社内メールで〈問題を世界に拡げた諸悪の根源は朝日新聞といった誤った情報をまき散らし、反朝日キャンペーンを繰り広げる勢力に断じて屈するわけにはいきません〉と発信し、さらなる批判を呼び込んだ。
だが、少なからぬ朝日関係者は木村に近い感情を持っていたことになる。
長谷川は、かつて「成るべくして成った社長」とさえ言われ、評判の高かった中江利忠にも取材した。
中江が社長を退き、相談役に就任していた1997年には、3月31日付で朝日新聞社が初めて自社の慰安婦報道を総括的に検証する特集を掲載している。
しかしこの時も、吉田証言の裏付けは取れないとしながら、記事の撤回には至らなかった。
以下は前章の続きである。
〈後継社長の松下宗之(故人)に相談役の中江は「(事実関係を)克明に調べてはっきりさせた方がいい」と忠告していたようだが、そのせっかくの特集も、後述の様に肝心の吉田証言の真否は、現役たちの間で結局うやむやにされてしまった。何より事実を追求するという記者のイロハがこの新聞社から消滅していたのだ〉 
それから18年後の2014年8月5日の特集は、中江によるとくその企画、作成、掲載ともその中江には何の連絡、相談もなく、まさに突然、家に配達された紙面を目にさせられ、その内容にただ唖然とするほかはなかった〉という。
〈とりあえず中江は同憂の一人と共に社長の木村伊量に会い、今後の対処を記した提案書を渡した。そこには中江自身を含む、すでに退職している旧責任者たちに対する年金削減の処罰も織り込まれていたが、技術的に困難との理由で朝日新聞社側は2015年10月現在、実行していない〉
僅かに残る「心ある」朝日新聞関係者の思いが受け入れられることはなかった。
北畠清泰と松井やより
朝日新聞の慰安婦報道は、伊藤律架空会見記事やKYサンゴ捏造記事など一記者の不祥事とは全く性質が違う。
30年にわたる会社ぐるみの虚報であり、吉田清治や慰安婦に関する署名記事の担当記者や、記事掲載時の編集局長や論説委員など、名前の挙がっている関係者も少なくない。
長谷川は、そのなかでも2人に的を絞り、徹底的に検証していく。
以下は前章の続きである。
(ひところまでソ連、中華人民共和国という言葉にも、マルクス主義革命による新体制の国家ということでなのか、そこにすなわち善、プラスの価値を感じる「パブロフの犬」が、朝日新聞社内にはあちこちにうようよしていたのである。社会部、論説委員室に限らない。そうした条件反射のまさに典型例が、吉田証言関係の虚報でとりわけ大きな影響を内外に及ぼしたと私が見る北畠清泰であり、そして一連の虚報を背景に、OBになってからではあるが、慰安所糾弾の模擬法廷の開催へと突き進んだ松井やよりである〉
(その言論、行動から見て、この事件に関してはとりわけ見逃せないと考えるその二人なのだが、その人物のことが、慰安婦虚報事件を巡る各種の報道、言論でもあまり取り上げられていない〉
長谷川は松井と同期入社だった。〈松井やよりは私の友人だったと言える人だし、北畠清泰は雑誌『アエラ』の編集部で私の目の前の席にいたことがある〉という二人を通じ、慰安婦報道と朝日新聞の体質を掘り下げていく。
以下は前章の続きである。
論説の「恥ずべきコラム」 
朝日新聞論説委員・北畠清泰は92年1月23日付夕刊、そして3月3日付夕刊で執筆した「窓」欄で、吉田証言に御墨付を与えたことは読者もよくご存知だろう。
しかも3月3日付夕刊では、当該記事に疑問を呈する読者からの投書を逆に批判し、「知りたくない、信じたくないことがある。だが、その思いと格闘しないことには、歴史は残せない」と結んだ。この記事は「慰安婦検証記事」掲載後、一連の吉田清治記事とともに取り消されている。
長谷川はこれを〈恥ずべきコラム〉と断じ、取材で北畠の親友から聞いたというこんな話を明かす。
〈北畠は和歌山市内の県立高校を卒業しているが、その高校の同級生で無二の親友だった者が。このコラム掲載の時から何年も経ってからではあるが、東京・新宿の紀伊國屋書店の裏の喫茶店で、「済州島ならすぐ行ける所じゃないか。なんで裏付けの取材もしないで、ああいうことを書くのか」 との意味のことを北畠に言ったら、急に本人は不機嫌になり、ほぼその時を境に十代からの密な交友関係は消えてしまったという〉
また、長谷川自身も不可解な場面を目撃している。
〈彼と私は一時期、部内の机が向かい合わせだった。ある時、彼はこういうようなことを私の方に向かって言った。その言葉は、2014年9月に『週刊文春』の取材を受けた時に私が取材者に伝え、同誌に正確に載っているので、その件をそのまま借用させていただく。その時は北畠のことを「X」として誌面に出してもらったが、今回は明確に北畠と記す。以下は、『週刊文春』2014年9月18日号からの引用である。 
「私(長谷川)は北畠がヒソヒソと電話で語り合っている場面を度々目撃しました。その相手こそ(略)吉田清治氏だったのです。北畠は、『(吉田氏のような人は)世間の圧力が強くなると日和ってしまう』とか、「違うことを言い出す」とか、概ねそのようなことを言っていました。『取材するこちらが常に手綱を強く持っていないといけない』という趣旨のことも話していた」〉
以下は前章の続きである。
つまり、北畠は吉田清治に「朝鮮半島の女性を強制連行した」との証言を曲げないよう、振付をしていたことになる。
一体なぜ、そうまでして「日本の悪事」を書き立てることに執念を燃やしたのか。
その一つの理由が、「共産主義への憧憬」とあいまった「パブロフの犬」現象である。
共産主義的雰囲気 
先ほど登場した北畠の“親友”は、日本共産党員(のちに除名)だったという。
〈北畠が朝日新聞社に1963年(昭和38年)に入社し、大阪本社に配属されて2年くらいしたころ、北畠から日本共産党に入党する推薦状を書いてもらえないかと頼まれた〉
〈少なくとも北畠が入った時期の朝日新聞大阪本社では日本共産党員であることが、その記者なら記者の一種の勲章のようにごく内々では見られていたことを物語るのではないか。その親友は、あのころ北畠は、そうした風潮、気分の朝日新聞社内の上昇気流にうまく乗つかろうとしていたのだろうと見る〉
〈朝日新聞社内にはあちこちにうようよしていた〉という共産主義者。
北畠も例外ではなかった。
以下は前章の続きである。
〈彼の二つの、尋常ではない言葉が今も生々しく記憶に残っている。いずれも『アエラ』の職場でだった。一つは、「朝日新聞に左翼でない人間なんているのかなあー」というものだ〉
また、もう一つのエピソードとして、ある記事が原因でモスクワから追放された経験のある元モスクワ特派員、木村明生のことを〈「ああいうとんでもない奴がいるんだ。ひでえ野郎だよ。けしからん」と、罵倒した〉こともあったという。 
長谷川は呆気にとられた。 
〈ともかく私は、こういう物言いを、声を荒げて平然と、それも編集部の真ん真ん中でする北畠の心理を訝った。が、今にして思えば、一つの処世術として、思い付いては懸命に社内の風潮に迎合していたのかもしれないし、あるいは、少なくとも創刊当初の『アエラ』が、ソ連、中華人民共和国などの専制弾圧体制に筆誅を加えない朝日新聞そのものとはいささか違う雰囲気であることに反発し、その気持が高じていてのことだったのかもしれない〉 
長谷川は、このような「共産主義的雰囲気」は朝日社内で顕著だったという。
〈取材の中で、大阪本社育ちの人から聞かされた「大阪本社社会部的歪み」(中略)とは、世の中を階級闘争史観のマルクス主義で切って見せ、その視野から日本をこきおろして悦に入る類の記者が大きな顔をしていた組織ということである。その背景には、会社法では支店の東京本社が実質的には本店で、同法では本店の大阪本社が実質的には支店という朝日新聞社の構造的宿命から生じる、大阪側の屈折した心理も微妙に絡まっているように思われるが、マルクス主義者で大阪本社編集局長たった秦正流自身がかつて暗然としたほどマルクス主義的言辞が幅を利かしていた所だった。そして北畠も大阪本社育ちだった〉
以下は前章の続きである。 
1982年9月2日、朝日新聞が初めて吉田証言を紙面に掲載したのも、植村隆記者が「ソウル発」として「挺身隊の名で慰安婦を連行」と書いた記事を先に掲載したのも、朝日新聞大阪版だった。 
また、『崩壊 朝日新聞』で詳細に検証されている社内の共産主義者による熾烈な「中国VSソ連」の争いの登場人物たちも、大阪朝日新聞社の経済部の出身たちが顔を揃えている。 
朝日新聞の反日記事のルーツともいえる共産主義への傾倒は、率直にいって異様である。
朝日新聞の立ち位置が常に日本の外側にあり、そこから日本を叩く記事ばかり掲載されてきたのも、共産主義思想において日本は「打倒されるべき体制」であったからだろう。
松井やよりは運動家に変貌 
もう一人の主役は晩年、慰安婦問題に執心し、昭和天皇に対して死刑判決を下した「国際女性戦犯法廷」の中心人物として知られる松井やよりだ。
以下は前章の続きである。
松井やよりは、かつては公害、農薬害問題を追求し、〈王様が裸なら裸と見える目がなおあり、裸と見えた以上は正直に裸と書いていた〉敏腕記者だったという。
その彼女がなぜ、運動家の如きスタンスに変貌したのか。
長谷川は、日本の対英米開戦50年を考える『AERA』特集の取材でマレー半島を訪れた。
戦中、抗日ゲリラに対抗する「3月掃討」が行われたが、関係者は車法会議で死刑判決のあと、処刑されている。
これを「民衆虐殺」とし、日本の罪として改めて告発する動きが、90年代に入って起こっていた。 
そして当時、朝日新聞社アジア総局員としてシンガポールにいた松井も、虐殺関係の告発記事を書いていた。
だが現地を訪れた長谷川は、驚くべき証言を耳にする。
長谷川がこのヌグリスンビラン州を回った1991年11月のことだ。〈少なくとも3ヵ所で合わせて9人に話を聞いた。いずれも華人の地区だった。(中略) 2、3軒で取材を終え、さて次は、と路上にいたら、直前の取材で同席していた中年の華人女性が外に出てきて、聞いて欲しいと言わんばかりの風情で、まとめると次のように、確か英語と北京語を混ぜて話した。「シンガポールにいるという日本の朝日新聞の女性の記者が、虐殺は日本軍がやったことにしておきなさい、かまわない。と言ったんです」 そして、その女性記者の名前を「マツイ」と述べた〉
(ヌグリスンビラン州でも地元によっては、以前から分かっていたか新発見された多数の遺骸の全てが果たして日本軍による犠牲者なのかどうか、内々のところ覚束なかったのだが、それを言われた記者「マツイ」が、その心配をあえて潰そうとした、ということになる〉
*~*の文章は私。
繰り返し「日本軍糾弾」 
松井は日本軍糾弾の記事を書き続ける。
シンガポールの朝日新聞社アジア総局(のちにタイの首都・バンコクに移る)での松井やよりの勤務期間は、1981年11月から1985年3月までの3年5ヵ月。その間、マレーシアのヌグリスンビラン州での日本車の「民衆虐殺」について、松井は以下の記事を書いている。①84年8月10日付「マレーシアでも日本軍残虐事件 謝罪・補償求める動き相次ぐ」 ②同年8月14日付「日本軍の虐殺事件 再度日本に補償要求 マレーシア華人団体が決議」③同年8月15日付の国際面の「視角」欄で、アジアの被害者を置き去りにした「日本の8月15日」という評論を書き、ヌグリスンビラン州のこの「民衆虐殺」に言及。④88年12月8日付で「太平洋戦争中のマレーシア 『日本兵による虐殺 私は見た』邦人学者が現地で証言得る ほうり上げた赤ん坊を刺し足で踏み付け銃剣を抜いた」という見出しの記事。
⑤92年7月29日付夕刊「にゅうす・らうんじ」欄の連載「私と戦争」で「道義なき大国」という見出しで、戦中のマレーの日本軍の「民衆虐殺」を追及 
なかでも松井のスタンスが明確な記事について、長谷川は詳しく検証している。
*この「赤ん坊を放り投げて銃剣で刺し、足で踏みつけ…」は、先般、高山正之の著書からご紹介した、欧米人学者が書いた「10の戦争プロパガンダ…」で、ドイツ兵の悪行として報道されたデタラメと全く一緒であることに、読者諸兄は瞬時に気づかれたはず。
つまり、朝日新聞は、こういうレベルの事を書き続けて来た新聞なのである。
何にも知らなかった私たち購読者は、日本は悪かった、日本軍は悪い事をしたのだと刷り込まれて来たのである。
これに最大級の力を貸したのが大江健三郎と、彼に続く、いわゆる文化人たちだった事は言うまでもない。*




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