文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

古人曰く、上智は教へずして成り、下愚(かぐ)は教ふと雖(いえど)も益なく、中庸の人は教へずんば知らず、と。

2020年07月21日 20時59分19秒 | 全般

以下は、本日発売された月刊誌Hanadaの巻頭を飾る加地伸行大先輩の論文からである。
本日、発売された月刊誌、HanadaとWiLLは日本国民のみならず世界中の人たちが必読である。
コロナ、コロナの毎日である。
なにしろ罹ると一命危うしという脅しには勝てぬ。 
老生、久々の蟄伏(ちっぷく)生活じゃ。
そうそう蟄居生活とは言わぬぞ。
蟄居とは、罰の意味じゃからのう。
老生、なにも悪いことはしておらん。
ただ異論を述べおる日々。 
さて、そのコロナを巡っての日本人論が話題となっている。
と言うのは、コロナ対策として、欧米では外出禁止を法的強制的にしているのに対して、日本では緊急事態宣言なるものを発し、国民諸氏の良識に俟(ま)つという要望だけであったにもかかわらず、法的規制と同等いやそれ以上の結果を出しているからである。
それが欧米人には不思議でならない、なぜなのかとその理由を求めている。
しかも、結果的にもコロナに由る日本人死者の数は非常に少ない。 早速、麻生副首相は言った。
日本人の民度の高さを。
お美事。 
民度が高いのは事実。
明治維新以降の日本の歩みを見るがいい。
麻生氏のその発言は正しい。 
しかし、しかし、問題はその次だ。
では、そのいわゆる民度とは何か、である。 
この〈民度〉論について、令和二年七月号諸論説誌に対する論壇時評(産経新聞同年六月二十五日付。岡部伸・論説委員担当)が、民度に関わる諸論を展開している。 
本来ならば、同欄の引用文の原典に当るべきであるが、なにしろ蟄伏生活の日々、右岡部欄の引用文の借用(孫引き)でお許しあれ。 
例えば、山崎正和・評論家はこう述べているとのこと。
すなわち、日本人の「自制心は特記に値する」。
それは「ラフカディオ・ハーンの見聞記にも(すでに)記録されているが……(その)公徳心はやや後にあらためて養われたもの」とし、一九七〇年代から八〇年代、「わけても(阪神大震災発生の)一九九五年一月であり、その美徳はつい昨日まで栄え続けたのであった」と。
しかし、なぜそうなのかという理由については述べていない。
それでは、単なる感想に過ぎず、〈論〉となっていない。
阪神大震災発生以来と言うのならば、なぜそうなのかということをしっかりと論すべきであろう。 
日本人の公徳心の問題は、もっと根原的に考えるべきである。
老生はこう考える。 
明治維新のころ、当時の指導者らは、壮大な勘違いをしたのである。すなわち欧米の工業製品に圧倒され、それらを生み出した欧米近代を崇め、日本をそのようにしたいと思い、その物真似に専念し、今日に至っている。
日本現代の知識層は今も同じである。 
しかし欧米人の個人主義・能力主義なるものは、遠くは狩猟民族の個人能力第一の展開とその結果とにすぎない。 
これに対し、われわれ日本人は農耕民族の歴史が長く、農業という共同作業上、一族(家族)の団結第一で生きてきたのである。
その在りかたはDNA化されている。 
早い話が、日本のテレビを注意して見るがいい。
朝から晩まで、しょっちゅう天気予報を流している。
日本人が求めるからだ。
なぜか。
骨の髄まで農耕民族の感覚だからである。 
その一族主義は、一族の助け合い団結心を生む。
一族主義の典型は中国人。
同族の団結は堅い。
すると他人はどうでもいいとなる。
日本人は違う。
一族に迷惑をかけないという点は中国人と共通するが、一族以外の人、つまりは他者にも迷惑をかけないという広がり感覚がある。
中国の風土は厳しく、一族命となるが、日本の風土は中国よりもずっと優しいので、他族へも優しさが及ぶ。
それを今風に言えば、公徳心ということになろうか。
その感覚や行動は、遥か遠くから始まって続いて来ており、阪神大震災で突如出現したものではない。 
民族の特質を論ずるならば、その民族の伝統や歴史や文化をこそ顧(おも)うべきである。 
古人曰く、上智は教へずして成り、下愚(かぐ)は教ふと雖(いえど)も益なく、中庸の人は教へずんば知らず、と。


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