文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

アナウンサー鈴木史朗が語る 南京大虐殺のウソと引き揚げの思い出

2022年06月08日 20時51分52秒 | 全般
さすがに世界は信用しませんでしたし、現地では中国人も実際に日本兵を見ていますから、わかっているんです。と題して2018-07-02に発信した章である。
以下は2018/6/30に発売された月刊誌正論からである。
日本国民全員のみならず世界中の人たちが再読しなければならない章である。
アナウンサー鈴木史朗が語る
南京大虐殺のウソと引き揚げの思い出
無実の父は、中国に捕らえられた…と題されたこの論文は日本と世界中の人たちが必読の論文である。
この論文には、どこにも嘘がない事…
嘘をついているのは中国や朝鮮半島である事と、
彼らの代理人ような役割を果たして来た朝日新聞などやNHKなどのメディアと、
これに同調して来た政治屋達や、所謂人権派弁護士、日弁連の要職経験者の多くがそうである事の悲惨さ、
所謂文化人達、彼等と同様の…
世界の、いわゆる知識人達やジャーナリスト達である事を、
世界中の人たちが知るべき時はとうに来ているのである。
私は鈴木史朗さんの、この論文を読んでいて、何度も落涙を禁じえなかった。
南京を訪れた経験  
私は昭和13年、南京攻略戦があった直後に生まれました。
父が日中貿易会社を天津に設立、北京でも会社を営み、日本軍に軍事物資や援助物資などを届ける仕事をしておりました。
私はまもなく母とともに中国大陸に渡り、5歳の時に、父に連れられて南京を訪ねたことがあります。
父の取り引き先か、援助物資を受けたのか、細かなことは定かではありませんが、ご縁のあった南京の素封家に招かれたのです。 
5歳の出来事でしたが、街の中心部に中華門と書かれたトンネルのような長い門があったことは明確に覚えています。
暗くて長いトンネルを歩いて抜けると、露店がいっぱい並んでいました。
子供心に「珍しいものばかり売っているなあ」と胸躍る思いだったことを鮮明に記憶しています。 
街は平穏そのものでした。
平和で賑わいある街でした。
街を歩いていて中国人から襲われるかもしれないから気をつけなさい、などといわれたことなどありません。
「虐殺」が仮に行われていたのであれば、断片的にもそうした話を耳にするでしょうが、そんなことなど一度もありません。
「虐殺」なんて意識したことすらありませんでした。
だから「虐殺」なんて考えもしなければ、ありもしなかった。 
私が招かれた素封家には媽太太(マータイタイ)と呼ばれていた中国人の奥様がいました。
体格もしっかりして皆に慕われ、威張ってもいる、日本でいえば肝っ玉母さんのような存在です。
その媽太太が随分、私たちを歓迎してくれました。
私を抱きかかえながら、おんぶまでしてくれて私の耳を「福耳だ」といって褒めてくれました。
媽太太の耳には翡翠の飾り物があって私をあやすたびにちゃらちゃらと音がする。
ほおずりまでしてくれました。 
とにかく現地の中国人の対日感情はとても良かったんです。
それは日本兵の評判がとても良かったからです。 
日本兵は戦えば確かに強かった。
それは私たちの世代には昔の大和魂がたたき込まれているからでしょう。
ともかくやる。
自分が死ぬことを恐れてはいかん。
日本のために死ぬことは名誉だ、という意識が徹底されていました。
*こういう意識が全くないのが、今、邪悪な独裁国家のミサイル攻撃から日本全国を守るために国が配備しようとしているイージスアショアに反対している秋田県の何とか市に棲息している活動家と、これに同調している秋田県知事達なのである。私は同じ東北人に腹を立てたことはないのだが、今回だけは、この秋田県人達には、心からの軽蔑と怒りを持っている…あんな連中が東北人であるのならば、私は東北人であることを恥じるのみだからだ*
でも勇敢ではあっても野蛮ではないんです。
当時5歳だった私は当時から「自分もいずれは兵士になって出征して完全に玉砕したい」と願っていました。
それが小さいころからの夢で、幼年学校に入りたいと思っていました。
父はそんな私に「史朗、兵隊は強いことは大切だけれども、優しく思いやりがなければいけない」と繰り返していました。
今でも心のどこかにそういう思いが宿っているように思います。 
日本兵が南京を攻略すると、むしろ逃げていた中国人がどんどん戻ってきていました。
なかには自分で日の丸の腕章を作って、戻ってきたものもいたそうです。
全然日本兵を怖がったりもしません。
むしろ、これで安心できるという安堵の表情だったそうです。
そういう感覚は北京と天津にいても同じでした。
日本兵は中国兵と違ってどこに行っても現地の人に歓迎されたんです。 
規律正しさにおいても庶民に対する態度にしても中国兵とはもう雲泥の差でした。
女性へのレイプなどありません。
衛生兵が病気の人を手当してくれたり、物も絶対に奪わない。
物をもらうときには必ず軍票を渡して「あとでお金に換えることができるから」と言う。
こうした光景が中国人にとっては信じられなかったんです。
というのも中国兵は略奪もレイプも散々でしたから現地の中国人から嫌われていたんです。 
特に酷かったのは、敗走するときに中国兵は途中の村を襲って物は盗る、火を放つ、レイプもするで、中には死んだ日本兵の軍服、軍帽をかぶってやる者もいました。
これは戦後、従軍された日本の兵隊さんから直接聞いた話ですが、日本の兵隊は怒っていました。 
黄河の堤防を蒋介石が決壊させて100万人が亡くなった、という大事件もありました。
昭和13年の6月の出来事です。
日本軍は進軍を中止し、救出に当たりました。
あふれた水のなかに向こうの伝馬船を浮かべ日本兵が災害を受けた方を救っている写真をみました。
まさに今で言えばPKO活動です。
ところが、被災者600万人という大惨事を起こしたうえに蒋介石は日本軍がやった、と大宣伝したんですね。
さすがに世界は信用しませんでしたし、現地では中国人も実際に日本兵を見ていますから、わかっているんです。
中国人にとって脅威は何をしでかすかわからない中国兵だったのです。
濡れ衣が着せられていないか 
日本兵が女性をレイプしなかった理由は、規律が高かったからだけではありません。
実は現地の衛生状態は決して良くなかった。
性病や伝染病も懸念されていました。
ですから慰安所が必要だったし設置されていたんです。
性交渉で梅毒を患う恐れも十分ありましたからレイプなどはもってのほかでした。
日本兵はレイプなど眼中になかったし、まずやらなかった。
日本兵が女性を見たら手当たり次第に襲った、なんて話が流布され、今では真に受けている日本人もいますが、当時の日本兵は実に用心深かった。
衛生観念が徹底していたんです。
ですから、そんな話、当時を知る人間から見ると、荒唐無稽であり得ない話なんです。 
むしろ、中国兵が行ったことが日本兵がやったことに話がすり替えられている話も多いわけです。
東中野修道先生が南京事件の写真検証をなさっています。
あの手のニセ写真のなかには、例えば、通州事件で亡くなった日本人の写真を南京大虐殺で中国人が惨殺された証拠写真のように扱われていたものがありました。
馬賊や匪賊を処断した写真もあります。
処刑方法を見ると、どうみても中国式の処断方法だと思える写真ですが、それが日本兵による虐殺だとされているものもありました。
相当な部分で中国兵による行いがなすりつけられていると思っています。 
私は終戦まで中国にいました。
戦況をめぐる話もしばしば耳にしましたが、日本兵が南京で住民の人たちを虐殺した―などという話は全く聞いたことがありませんでした。
南京で仮に虐殺があったのなら、何か断片的にもそうした痕跡を察知するはずでしょうが、それもない。それは今言われているような虐殺が南京であった、というのは全くの作り話だったからだと私は思っていますし、私が生きているうちに日本の兵隊さんの汚名をそそぎたいと思っています。
大変だった引き揚げ 
終戦は7歳の時でした。
小学校2年生です。
残念でしたね。
ショックというより頭が真っ白になった。
何が起こったの?日本が負けるってどういうこと?という感じです。とにかく実感が湧かなかったんです。
ただ、身の周りにいた中国人や朝鮮系の方々の態度が急に変わったことは覚えています。 
特に朝鮮系の方々の変わりぶりは豹変といっていいものでした。
急に威張り出す者もいました。
居丈高で傍若無人な振る舞いになるものもいました。
日本人をみると竹やりを持って投げ付けてきたこともあります。
幸い、子供でしたから私が襲われることはありませんでしたが、嫌な思いは随分しました。
同級生のなかには訳もなく殴られた者もいました。 
父が貿易会社を営んでいて、中国人の方々を雇って一緒に仕事をしていた関係もありますが、我が家の財産を全部よこせ、といってきた中国人もいました。
私の家には運転手付きの車両などもあって、裕福でしたからね。 
ただ、父は中国人従業員を大切にしていました。
軍需関係の仕事に携わっていたことが理由で父は戦犯として裁判にかけられそうになり、いったんは身柄拘束されましたが、このとき父を助けてくれたのも中国の方々でした。
父の部下や一緒に仕事をした人が「鈴木は悪い人間ではない、それはわれわれが証明する」といろいろなところに働き掛けてくれて、それで父は解放されたのです。
父がそのように身柄を拘束されていましたので、中国大陸から引き揚げてくるのは大変でした。
母親と私が4歳と3歳の妹を率いて荷物とともに北京、天津から港まで120キロを歩いたんです。
これは辛かったですね。 
引き揚げ者は何度も「収容所」のような施設に入れられます。
中国の役人が「荷物を検閲する」などといって実は分捕るんです。
タンク―の港へ行くまでの間にそのような「収容所」に入れられ、そのたびに金目のものが奪われます。
「ちょっと来い」と命じられて施設に連れられる。
それだけでも嫌ですが、バラックみたいなおんぼろ施設に母親と妹2人と僕と入れられて2日、3日、足止めを食らう。
容赦なく、冷たい風が入ってきます。
それで荷物は取られ、金目のものは洗いざらい抜かれていくんです。 母は父からプレゼントされたブーツを大切にしていました。
ヨーロッパ製の立派なものでした。
父はとらわれの身になっているでしょう。
母は、手放したくないと思ったんでしょうね、私に「史朗、悪いけどこれを履いてくれ」と言うんです。
「履いて帰ってくれ」と。
履いていれば中国人には取られないからです。
でも毛皮のある女性用ですよ。
僕は黙って履いて中国大陸を歩きました。 
途中、貨物列車の無蓋列車に折り重なって詰め込まれたこともあ
りました。
「乗る」とか「乗せられる」といったものではありません。
荷物として「詰め込まれる」んです。
屈強な男性がいわば下敷きのように下から支えるように入って、そのうえに女性が詰め込まれる。
わずかな距離しか走ってくれませんが、わずかでも多少の距離は歩かなくて済むでしょう。
劣悪さはひどかった。
雨でも降れば最悪だったでしょう。
よく病気にならなかった、と思います。 
道中、幼い妹2人はよくぐずりました。
それはそうでしょう。
120キロなんてとても歩けるものじゃない。
母親はもう息絶え絶えだったと思う。
下の妹は3歳でしたから、抱っこしなければいけないし、さらに荷物もあるわけです。 
私ももうひとりの妹の手を引いて歩かないと生きていけないのですが、私だって根をあげそうになります。
とにかく「史朗、おまえしか男はいないから。お父さんは今、収容されているし頑張れ」と言われて「日本男児だ、負けるもんか」でした。それだけです。
もう、つらいも何もない。
生きた心地がしないなかで、ただ必死でした。 
それでようやく港にたどりつきアメリカの艦船に乗せられました。
解放された父と再会したのは港を出る直前でした。
汚名をそそいだ父は中国人の運転する車で港に駆けつけ、出港の直前に間一髪間に合ったそうですが、私は疲労困憊で肩の荷が下りたのでしょう。
泥のように寝ていたそうで実はよく覚えていません。 
その後、艦船の甲板に出て海を見ることがありました。
真っ黄色の海が青い海に変わった時にびっくりしたのを覚えています。
中国の海は黄海というように本当に黄色い。
私自身が、それまで海は黄色と思っていましたから、見たこともない青い海を初めて見たときは正直、恐かった。
長崎の港に着いたときは桜の咲く季節でした。
中国では妙に寒い季節ですが、日本は春うららです。
桜を見て、なんてきれいなんだ、と。
ここは天国かと思いました。

中国こそ賠償してほしい 
今、こうした引き揚げの苦労なども見聞きすることは少なくなりました。
風化しているんですね。
戦後賠償なんて話がありますが、賠償なんて必要ないと思います。
これは以前、亡くなった渡部昇一先生も指摘されていましたが、私もそう思います。 
彼らが賠償は要らないと判断したのは、恩情からなどではありません。
国家予算の何倍にも及ぶ莫大な資金、資産を日本人は中国大陸に残したからです。
我が家にしても会社は分捕られ、貯金や預金、数々の資産に至るまで身ぐるみを剥がれ、引き揚げの途中でも裸一貫になるまで根こそぎ持っていかれました。
日本に到着して私たち家族は日本政府から1000円を支給されました。
家族5人で5千円で今の価格で5万円です。
中国に残したのは、今の価値で少なく見積もっても5億円、多く見積もれば10億円ぐらいあります。
これが中国に取られたわけで、これはむしろ私たちが返してほしい、といいたいくらいです。
渡部先生はこうした事情をよくご存じでした。
ですから日本が中国に謝罪する必要などない、という立場を生涯貫かれました。
実態を知っている者からみれば、中国が日本に感謝こそすれ、謝罪を日本に要求したり、賠償を求めることなどできなかった話なのです。そしてこうした認識は昭和四十年代くらいまでは国会議員の間でも広く共有されていたが、徐々に薄れていって、戦後賠償が唱えられ、謝罪決議がなされるようになったと憂いておられました。
こういう話を耳にすると本当に教育は大事だ、と痛感します。 
昭和39年に日本社会党が訪中して毛沢束主席と会談したときの話です。
当時の佐々木更三委員長が「過去において、日本軍国主義が中国を侵略し、みなさんに多大の損害をもたらしました。われわれはみな、非常に申し訳なく思っております」と言ったさい、毛氏は「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、われわれが権力を奪取することは不可能だったのです」と言っています。 
日本軍は共産党政権を樹立させようと戦争をしたわけではありませんが、これが戦争に対する中国側の認識だったんです。 
引き揚げ後、私は京都の小学校に通いました。
小学校では肉弾戦に明け暮れ、軍国少年を捨て切れない日々を過ごしましたが、中学では標準語のおかげで弁が立つと生徒会長に選ばれたんです。
私は中国の暮らしが長かったので京都弁に染まってなかったんですね。
陸上部のキャプテンもやって戦後の中学生へと徐々に変わっていきました。 
紫野高校に進んだ私は放送研究会に入ったのですが、標準語が京都では珍しいと重宝され、校内アナウンスも任されました。
アナウンサーになってみようかな、と思ったのはそのあたりからです。
大学は早稲田に行きましたが、放送研究会に入って、そこからTBSへと行ったんです。
当時の放送研究会ではフジテレビの露木茂君やTBSの大沢悠里君が後輩で、文化放送で活躍された桂竜也さんが先輩でおられました。
この稿続く。

鈴木史郎さんのインタビュー特集こそが真実であり、朝日新聞などやNHKなどは愚かさの極みと言っても全く過言ではないことを証明している日常に、読者も遭遇しているはずである。
今どきのスポーツクラブに平日の昼に行かれたことのある人は、殆どがお爺ちゃんやお祖母ちゃんたちで一杯である事を経験している。
そこで、一度や二度は、私と同様の経験をしているでしょう。…浴室を出て洗面台があるとしよう。
そこで自分が使用した後の洗面台や椅子などを綺麗に拭いているのは、全員が、戦争世代のおじいちゃんたちである。
或いは、まだ濡れている箇所のある体で、ベンチに座ったりすると、「それはダメ…」と言って来るのも全員がお爺ちゃんたちである。…当初は、内心、ムッとしたりもしたが。
戦後生まれで、戦後の教育を受けた人間は、私を含めて、誰一人、そのような事をする者はいない。
つまり、あのような規律正しさを、徹底的に教えこまれた人間達が、中国や朝鮮半島の、「底知れぬ悪」と「まことしやかな嘘」による、反日プロパガンダのような行状をするわけはないのである。
戦後の教育をうけた者達が、学業成績が劣悪な者達は、連日のように、子供を虐待死させたり、卑劣な犯罪を冒したりし、
成績優秀な受験優等生たちにあっては、中国と朝鮮半島の「底知れぬ悪」と「まことしやかな嘘」が作り出す反日プロパガンダに率先して与している、これ以上ない愚か者たちが、朝日新聞やNHKなどのメディアや、これに同調している学者たちや、いわゆる人権派弁護士、野党政治屋など枚挙に暇がないほどに養成されている実態とは正反対なのである。
以下は前章の続きである。
ご長寿との楽しい出会い 
「からくりTV」の「ご長寿クイズ」は私か定年前から続けている私にとって大切なお仕事です。
これまでに388回放送され、一回あたり50人のご長寿の方にお集まりいただき、3回の予選を経てお爺ちゃんだけで1万2000人の方と出会いました。 
この番組でディレクターが期待していたのは、お年を召した方の天然なぼけ方やずれ方を出しながら、何ともいえない、視聴者を柔らかくくすぐるような笑いでした。
でも番組が企画段階で初めて話があった時、私は猛反対しました。 
お年を召した方を笑いものにするような番組、とんでもないと思ったんです。
それでディレクターに「勘弁してください」と申しあげました。
でもディレクターは諦めずに「でも史朗さん、ともかく1、2回だけ付き合ってやっていただけませんか?それでもし嫌だったら言ってください」と食い下がって来られたので、渋々引き受けました。 
しかし、実際にやり始めたら、考えが変わりました。
「珍回答」「迷回答」を連発してくださる、好好爺のような様子のご長寿の皆さんがとても屈託ない表情で明るく楽しそうにはじけていたからです。 
私は古典的なアナウンサーの教育を受けましたから、おじいちゃんたちを笑いものにすることなどあってはいけない、と思って番組に臨んでいます。
本番中も私は笑ってはいけない、失礼だからと思ってぐっとこらえる場面が何度もあります。 
そういう雰囲気を保ちつつ、どんな「珍回答」にも何があろうと顔色をできるだけ変えずにクイズ最優先で番組進行していくのですが、そこに間髪入れずに別の「珍回答」が次々見舞う。
そのギャップが視聴者には鮮烈な笑いとなったのでしょう。
それに、あの番組は特にご長寿の方々に好評でした。
さらに番組に出てそれまでの車いす生活から自分の足で歩き始めた、とか痴呆が進んでいたのに改善した―といった話を聞いているうちに私の気持ちはすっかり変わってしまいました。 
大変な時代、歯を食いしばって生きてこられて、老いても子供や孫に迷惑をかけたくない、と思いながらつつましく生きているご長寿の皆さんにとっては普段、あのような特殊な楽しさを味わう瞬間はあまりないでしょう。
自分にテレビカメラが3台も向けられアップで取り上げる、自分が思う存分発散できる。そういう機会をテレビがつくってくれた。
自分の住所や名前が大きく記されたたすきを掛けて席に座ると、そこにはもの凄い照明が当たっています。
それだけでも日常ではあり得ない光景です。
そこにアナウンサーの私がどんと座って司会すると、完全に独特な状態になって、かちんかちんになるから、それであのような答えが次々と出てくるのだと思っています。
ただ、皆さん、あがってはいますが心底楽しんでいらっしゃるのです。
中国こそ賠償してほしい 
今、こうした引き揚げの苦労なども見聞きすることは少なくなりました。
風化しているんですね。
戦後賠償なんて話がありますが、賠償なんて必要ないと思います。
これは以前、亡くなった渡部昇一先生も指摘されていましたが、私もそう思います。 
彼らが賠償は要らないと判断したのは、恩情からなどではありません。
国家予算の何倍にも及ぶ莫大な資金、資産を日本人は中国大陸に残したからです。
我が家にしても会社は分捕られ、貯金や預金、数々の資産に至るまで身ぐるみを剥がれ、引き揚げの途中でも裸一貫になるまで根こそぎ持っていかれました。
日本に到着して私たち家族は日本政府から1000円を支給されました。
家族5人で5千円で今の価格で5万円です。
中国に残したのは、今の価値で少なく見積もっても5億円、多く見積もれば10億円ぐらいあります。
これが中国に取られたわけで、これはむしろ私たちが返してほしい、といいたいくらいです。
渡部先生はこうした事情をよくご存じでした。
ですから日本が中国に謝罪する必要などない、という立場を生涯貫かれました。
実態を知っている者からみれば、中国が日本に感謝こそすれ、謝罪を日本に要求したり、賠償を求めることなどできなかった話なのです。
そしてこうした認識は昭和四十年代くらいまでは国会議員の間でも広く共有されていたが、徐々に薄れていって、戦後賠償が唱えられ、謝罪決議がなされるようになったと憂いておられました。
こういう話を耳にすると本当に教育は大事だ、と痛感します。 
昭和39年に日本社会党が訪中して毛沢東主席と会談したときの話です。
当時の佐々木更三委員長が「過去において、日本軍国主義が中国を侵略し、みなさんに多大の損害をもたらしました。われわれはみな、非常に申し訳なく思っております」と言ったさい、毛氏は「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、われわれが権力を奪取することは不可能だったのです」と言っています。 
日本軍は共産党政権を樹立させようと戦争をしたわけではありませんが、これが戦争に対する中国側の認識だったんです。 
引き揚げ後、私は京都の小学校に通いました。
小学校では肉弾戦に明け暮れ、軍国少年を捨て切れない日々を過ごしましたが、中学では標準語のおかげで弁が立つと生徒会長に選ばれたんです。
私は中国の暮らしが長かったので京都弁に染まってなかったんですね。
陸上部のキャプテンもやって戦後の中学生へと徐々に変わっていきました。 
紫野高校に進んだ私は放送研究会に入ったのですが、標準語が京都では珍しいと重宝され、校内アナウンスも任されました。
アナウンサーになってみようかな、と思ったのはそのあたりからです。
大学は早稲田に行きましたが、放送研究会に入って、そこからTBSへと行ったんです。
当時の放送研究会ではフジテレビの露木茂君やTBSの大沢悠里君が後輩で、文化放送で活躍された桂竜也さんが先輩でおられました。
後略。







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