以下は前章の続きである。
中国高官たちが南京事件をなかったとする例を挙げる。
突然南京事件を言いだしたことへの気持ちを初めて中国高官へぶつけたのは、私が知るかぎり三岡健次郎である。
三岡健次郎は昭和九年に陸軍士官学校を卒業、戦争中は大本営で船舶課参謀を務めた。
戦後自衛隊に入り、アメリカ陸軍参謀大学で学び、第九師団長を務め、昭和四十四年陸将で退官している。
三岡が中国と関わりを持ったのはそれから八年経った五十二年に中国を訪れたときである。
十月七日、鄧小平副総理と会い、一時間余り忌憚なく意見を述べあう。 それをきっかけに、退役自衛官を集めて中国政経懇談会を設立し、会長に就く。
引きつづき中国を訪れ、徐向前、王震、張愛萍といった副総理とも会談する。
中日友好協会の会長を務めていた孫平化によれば、三岡の設立した中国政経懇談会は遠藤三郎の日中友好元軍人の会と並んで日中友好のため大いに貢献している軍人の集まりだという。
三岡が初めて中国を訪れたとき、中国で南京事件は語られてなかった。
鄧小平と会談したとき、鄧はこう述べた。
「日本の軍国主義は中国を侵略した。そのため蒋介石は後退し、それにより八路軍は勢力を広げることができ、最後は蒋介石を打ち破ることができた」
鄧小平は日本軍を非難するとともに日本軍に感謝もしていたが、南京事件を語ることはなかった。
三岡は黙って聞いていた。
四年後、中国は教科書に南京事件を記述し、さらに四年後、南京市に虐殺記念館を建てる。
記念館が建立された翌年、さっそく三岡も案内される。
三岡は士官学校卒業とともに兵隊の教育に従事したが、その兵隊と南京戦に従軍した兵隊は同じ年齢である。
日本兵の素質を知っていた三岡は、かりに南京で不祥事があっても、事件として指摘されるようなことは起きえない、ととらえていた。 三岡は鄧小平との会談で臆せず意見を述べたが、礼を失することのないよう努めた。
ほかの高官との会談でもそう努めてきたが、こうなっては中国に問いたださないわけにいかない。
六十一年九月、党政治局員兼書記の余秋里と会談したとき、南京事件を持ちだした。
余秋里は、毛沢東の腹心として知られており、文化大革命のころは石油鉱業相を務めた。
会談の四年前に当たる五十七年の第十二回党大会で政治局員に選ばれ、その翌年に国家中央軍事委員会副主席となり、会談が持たれたときは軍のなかできわめて重要な地位にいた。