文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

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当時、朝日新聞の社長だった広岡知男が、中国政府のいいなりになって、本多勝一に書かせたねつ造話なのです

2017年11月05日 16時50分03秒 | 日記

更に、以下の記事も掲載されている。http://blog.goo.ne.jp/nagatachoucafe7/e/54c2756a11c6ef1030acc1da4e9205f2
『朝日新聞・広岡知男社長の大罪。「南京大虐殺」を本多勝一に書かせた』と題した労作である。

朝日新聞記者の本多勝一が書いた「中国の旅」には、「南京大虐殺」のことが書いてあります。

この話は、当時、朝日新聞の社長だった広岡知男が、中国政府のいいなりになって、本多勝一に書かせたねつ造話なのです。

では、その経緯を詳しくご紹介しましょう。

「朝日新聞が避けて通れない、もう一つの戦後責任」

株主総会もすっぽかして訪中していた広岡社長

昭和39年、中国は日本のマスコミ各社と「日中記者交換協定」を結び、

「中国に不利な報道はしない」という条件の下で、各社は特派員を派遣していました。

しかし、文化大革命に関する報道などを巡って、日本の報道機関は軒並み国外退去となり、

昭和45年までに、中国に駐在しているマスコミは次々に中国から撤退していました。

そんな中、朝日新聞の広岡知男社長(当時)は、昭和45年3月から4月にかけて、

議長を務めるべき株主総会もすっぽかし、一か月間も中国に滞在。

他社の特派員が次々と国外追放される中で、広岡社長は当時の周恩来首相と会見するなど、異例の歓待を受けます。

その結果、朝日新聞のみが北京駐在を許されることになりました。

中国から帰国後、広岡社長は本多勝一記者に中国の取材を指示。

本多記者は翌46年6月から40日間かけて中国を取材し、

その結果生まれたのが「中国の旅」です。

本多記者の「中国の旅」は、昭和46年8月から朝日新聞に連載されました。

しかし、一連の取材は、あらかじめ中国共産党外交部新聞司が現地で「証言者」を準備し、本多記者は中国の用意した「語り部」の話を鵜呑みにして記事にしただけでした。

のちに、「中国の旅」を読んだ読者の抗議を受けた本多記者は、「私は、中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするなら中国側に直接やっていただけませんか」と、ジャーナリストの発言とは思えぬ、驚くべき回答をしています。

証言者を探す必要もなく、手間いらずのこの取材を、本多記者は次のように証言しています。

「取材そのものは、ある意味では楽な取材だといえるでしょう。レールは敷かれているし、取材相手はこちらから探さなくてもむこうからそろえてくれる。だから、問題は、短時間に相手からいかに大量に聞き出すか、しかも正確に聞き出すか、そういう問題になる」

つまり、本多記者は加害者とされた日本側の「裏付け調査」をまったくせずに、中国側の証言をそのまま記事にしていたということになります。

「中国の旅」は日本人の残虐ぶりを世界に語り継ぐ証拠として、今なお読み継がれています。

また、「中国の旅」をはじめとして、朝日新聞が報道した一連の「南京大虐殺」報道を根拠の一つとして、

中国は「南京大虐殺」を国連のユネスコ記憶遺産に登録申請してます。

「従軍慰安婦」についての検証がはじまった今、朝日新聞が最後の清算として取り組まねばならないのが、この「南京大虐殺ねつ造事件」の徹底調査です。

*この記事は2015-01-23に人類史上最大の図書館であるインターネットに掲載されたものである。*


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