文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

中国による対日工作の影響もあって日本では、原水爆禁止運動などが盛り上がりを見せ、社会党や公明党ばかりか、同じ自民党の三木武夫前外相も非核三原則を主張するようになっていたのだ

2019年12月08日 17時27分51秒 | 全般

私の論説がほぼ100%正鵠を射ていた事を知っている読者は、今すぐに、月刊誌正論の今月号を購読に最寄りの書店に向かわなければならない。 
以下は、日本は米国にとって『頼りになる同盟国』か、と題してp82に掲載されている江崎道朗氏の論文からである。 
彼もまた、今、最も気鋭の、本物の学者の一人である。 
日本国にとって貴重な学者である。彼はたった一人で九大の市価を高めている。 
目立つ対中宥和姿勢  
来春、中国共産党政府の習近平国家主席を国賓として招いていいのか。 
こうした疑問があちこちで語られるようになってきている。  
11月7日には、参議院外交防衛委員会で与党自民党の山田宏前防衛政務官が「邦人拘束は解決せず、領海侵犯事案も増える傾向にある中、日中関係が『完全に正常な軌道に戻った』と言えるのか」と指摘したが、茂木敏充外務大臣は「日中は今までと違ったレベルの対話ができるようになり、完全に正常な関係に戻った。安全保障面や邦人拘束など課題はあるが、適切に処理していくためにも、さまざまなレベルで会談し解決していく努力が必要だ」と反論した。  
北朝鮮の核、ミサイル、そして拉致問題に関してトランプ政権と連携してきた安倍政権だが、ここにきて対中宥和姿勢が目立つ。 
果たしてこのままで大丈夫なのか。  
何しろトランプ大統領は政権発足後に公表した「国家安全保障戦略」で中国とロシアを「現状変更勢力」、いわば「敵」として位置づけた〔ドラゴン・スレイヤー〕(竜を退治する人、「対中強硬派」)政権なのだ。  
実際にトランプ政権は「国防戦略2018」でも中国を念頭に「大国間角逐」こそ最大の脅威であると再定義し、軍事費を毎年7兆円程度増やして懸命に軍拡する一方で、対中貿易戦争を発動させ、中国経済を徹底的に弱体化させようとしている。  
更に中国の対米投資が安全保障上の脅威となる懸念から、対米外国投資委員会(CFIUS)による海外からの投資への審査権限を強化するなどして、アメリカの技術を中国から守ろうとする立法を次々と行っている。  
このように米中両国はいま「外交」、「軍事」、「経済」、そして知的財産の争奪戦を含めた「インテリジェンス」の分野で激しい争いを繰り広げている。  
こうした米中対決の狭間にあって安倍政権は、中国による「一帯一路」構想に対抗して「インド太平洋戦略」を推進し、インド、アセアン諸国を味方に引き入れようとしており、トランプ政権からも高く評価されている。 
だが安倍政権がトランプ政権と同調しているのは主として外交面だけなのだ。  
軍事面では、トランプ政権は同盟国に対しGDP比2%まで防衛費を増やしてほしいと要望しているにも拘らず、日本の防衛費はGDP比1.1%のままだ。  
経済面でも、米中貿易戦争で低迷するかもしれない世界経済の牽引役を日本は果たすべきであったし、トランプ政権としてはアメリカの農産物などをもっと買ってもらいたかったのだが、安倍政権はこの10月、消費税を10%に上げ、日本経済は再び低迷に向かっている。  
インテリジェンスの分野では、自衛隊による国際交流は飛躍的に発展してきているものの、中国の産業スパイから日本の技術を守る知的財産保護に関する立法措置は殆ど進んでいない。   
トランプ政権からすれば、対中政策において、いまの日本はとても「頼りになる同盟国」とは言えない状況だ。 
厄介なのは、対中姿勢を巡る齟齬が日米同盟をぎくしゃくさせる「だけ」では済まない、ということだ。 
なにしろアメリカは敵と味方を間違える天才なのだ。 
これまでも「頼りにならない味方」より「役に立つ敵」と組んできたことがある。 
当たり前のことだが、アメリカは一枚岩ではない。 
対日政策で分けると、次の二つの政治勢力が存在する。 
一つは、「強い日本はアジアに混乱をもたらすので警戒すべきだ」という「弱い日本派」派だ。 
彼らは、アジアの安定は中国共産党政府との協調によって保つべきだという考えで、民主党左派系のほか、国務省幹部にこの傾向が強い。 
もう一つは、「中国の軍事的台頭に対抗するために、強い日本を支持すべきだ」という「強い日本派」だ。 
中国の軍事的脅威に直面している米軍やアメリカ国内でサヨクによる家族解体政策と戦っている保守派はどちらかと言えばこの立場だ。 
そして、こうした「強い日本派」の支持を得て大統領に当選したのがトランプなのだ。 
「太平洋は赤い海」になるところだった  
もっとも「強い日本派」の支持を得て大統領になったトランプならば安心なのかと言えば、そうでないことは歴史が証明している。  
残念ながら「強い日本派」の大統領のときに、アメリカは中国共産党と組んで、日本封じ込め政策を実施したことがあるのだ。 
そしてそれは、中国の対米工作が巧妙であることも大きいが、それ以上に日本自身に問題があったのだ。  
その米中結託は1972年2月21日、共和党のリチャード・ニクソン大統領が中国を初めて訪問し、毛沢東主席らと会談して、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換したときに起こった。  
第二次世界大戦後、アメリカが応援していた蒋介石国民党政権を破ったのが中国共産党政権であった。 
1950年6月に始まった朝鮮戦争でもアメリカは北朝鮮の背後にいる中国とも戦っており、約5万人の戦死者を出している。 
その後もアメリカは、中国共産党と対決していた蒋介石率いる台湾を懸命に応援しており、米中は不倶戴天の敝であった。   
ところがニクソンは、憎むべき敵国の中国共産党と組んだのだ。 
国際社会はあっと驚き、「ニクソン・ショツク」と呼ばれた。   
その理由は何なのか。 
それを理解するためには当時の国際情勢を理解しておく必要がある。   
1949年、ソ連の後押しを受けて中華人民共和国を建国した中国共産党は、周辺諸国を共産化すべく「革命の輸出」を続けた。 
1956年、カンボジアとの間に貿易協定を結び、60年1月にはビルマ(現ミャンマー)と相互不可侵条約を締結。 
同年12月には、中国の支援を受けて南べトナム解放民族戦線が南ヴェトナム政府に対して武力攻撃を開始した。 
ヨーロッパと中東情勢への対応に追われていたアメリカは、東南アジアに対する共産勢力の浸透に気づき、強い危機感を抱く。  
61年5月、東南アジアを歴訪したアメリカのジョンソン副大統領は、民主党のケネディ大統領に対して「東南アジアで力と決意をもって共産主義に対し戦いを開始しなければならない。さもなければアメリカは必ず太平洋を明け渡し、自分たちの国土で守りにつかなければならなくなる」、そして共産主義が東南アジアを席捲すれば、「フィリピン、日本、台湾の安全は失われ、巨大な太平洋は赤い海となる」と断言した(マイケル・シヤラー『「日米関係」とは何だったのか』草思社)。  
しかしこの危機感は、日本政府には伝わらなかった。 
62年12月、来日したケネディ大統領は日米貿易経済合同委員会において「今日、われわれが直面している重要な問題は中国における共産軍の増大であり、いかにしてアジアの共産主義の拡張を抑えるか、である」と演説し、「日米両国は同盟国として何ができるか、われわれは共産主義のアジア支配を阻止するためにどんな役割を果たすことができるか」と、出席した池田勇人総理らに意見を求めた。 
これに対して武内龍次外務次官は、「日本は中国と2度にわたって戦つたが、日本人の大部分は自分たちを侵略者だと思っている」と答えただけであった(前掲書)。  
事態は64年10月、中国が原爆保有国となったことでますます悪化する。 
中国から軍事援助を受け、共産主義に傾斜しつつあったインドネシアのスカルノ大統領は翌65年8月17日、独立式典において「ジャカルタ、プノンペン、ハノイ、北京、平壌の(反帝国主義)枢軸をつくるとしても、これは架空のものではない。この枢軸こそ現実的なもので、歴史自体の歩みによって作られたものである」と演説、参列していた周恩来から拍手を送られた。  
インドネシア、カンボジア、べトナム、中国、北朝鮮による巨大な共産統一戦線がアジアに出現しつつあった。 
「世界の警察官」が、できなくなったアメリカ  
67年6月17日には、ソ連に続いて中国共産党政府も水爆実験を実施し、核攻撃能力を飛躍的に高めつつあった。 
一方、アメリカはヴェトナム戦争に対する軍事介入で疲弊し、「世界の警察官」としての任務を果たすことが困難になりつつあった。 
その年の10月、外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』誌秋季号に大統領候補リチャード・ニクソンは「ベトナム後のアジア」という論文を公表した。  
この論文でニクソンは、アメリカが世界の警察官として果たす役割は今後限られたものとなるので、同盟国は「中国の野望」から自らを守るための一層の努力が必要であると訴えた。 
しかもニクソンはこの論文において日本の核武装を容認するつもりだった。 
歴史家のマイケル・シャラーは次のように指摘する。  
(ニクソンはこの論文におい了再軍備に対する日本の憲法上の制約を嘆き、日本政府に大国らしく振る舞うように求めたが、そこには核兵器の所持も含まれていた。ニクソンの伝記作者、スティーブン・アンブローズによれば、伝記では、この記述に該当する箇所は、最初の原稿の段階では、「ニクソンは日本に『核なし』の兵力拡充を促した」となっていたが、原稿を読んだアイゼンハワーから、日本は自分で核能力を持ちたいと思っているといわれたニクソンが、この「核なし」という文言を削ることにした、というのである)(前掲書)  
ソ連に続いて中国共産党も核兵器を保有し、アジアの共産化を目論んでいた。 
ニクソンとしては、日本が憲法改正に踏み切り、アメリカと共に共産勢力と戦うつもりならば、日本の核武装も認めることを検討していたようなのだ。 
日本に核武装を勧めた、ニクソン大統領  
ニクソン論文を詳細に分析していた中国共産党の毛沢東や周恩来は、そのことをよく理解していたようだ。 
そして恐らく偶然ではないだろうが、日本では、核武装を禁じる動きが活発化する。  
ニクソン論文が出た2ヵ月後の12月8日、日中友好に尽力していた公明党の竹人義勝議員が国会で非核三原則(核燃料、核廃棄物 を製造せず、装備せず、持ち込まず)を明確にするよう質問。 
その3日後の11日、今度は社会党の成田知巳委員長が小笠原諸島への核兵器の持込みについて追及し、佐藤栄作首相は初めて「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を示した。   
翌68年3月、アメリカのジョンソン大統領が次期大統領選の不出馬とヴェトナムに対する爆撃中止を声明、「アメリカは、アジアから引くかも知れない」との動揺がアジア諸国の中に走った。   
その翌年の69年11月、佐藤栄作首相は訪米し、ニクソン大統領との共同声明で「72年中の沖縄返還に合意した」ことを公表した。 
歴史家のマイケル・シャラーによれば、この佐藤・ニクソン会談の中でニクソン大統領は「沖縄の核兵器をアメリカ製から日本製のものへと変えるように促し」たという。アメリカが「世界の警察官」役を果たせなくなってきている中で、ソ連と中国共産党の核に対抗するためには、日本にも核武装させるべきだと考えたのだ。  
ニクソン政権の「核武装」容認発言は、その後も続いた。 
71年7月、《公にも、私的な話し合いの中でも東京を訪問したメルウィン・レアード国防長官は、日本側の沖縄からの核兵器の撤去の要求を厳しく非難し、アメリカが安全保障努力を制限する代わりに、日本は東南アジアの国々に軍事援助費を提供し、自身の軍事能力を増強し、将来の中国の脅威に備えるため対弾道弾ミサイルの配備に着手すべきである、と主張した。彼とその部下たちは、アメリカ政府は日本の核武装に賛成していることをにおわせた)(前掲書)  

こうしたニクソン政権の意向を感じ取ったのか、71年8月、アメリカの記者との会見の中で周恩来は、べトナムからの米軍の撤退と並行して日本の再武装を促すニクソンの政策は日本軍国主義の復活を助長していると警告した。  
こうした中国の意向を踏まえてなのか、71年11月、沖縄返還協定の国会審議において公明党は突如「非核三原則」の国会決議を提案し、非核三原則は国是へと格上げされた。  
翌72年1月、再び訪米した佐藤首相に対してニクソン大統領は、日本はアジアで経済面だけでなく、軍事的役割も果たすべきだと主張し、またしても核兵器に対する姿勢も考え直すべきだと述べたが、佐藤首相は「日本の国会と国民の圧倒的多数が核兵器に反対している」と弁明せざるを得なかった。 
中国による対日工作の影響もあって日本では、原水爆禁止運動などが盛り上がりを見せ、社会党や公明党ばかりか、同じ自民党の三木武夫前外相も非核三原則を主張するようになっていたのだ。  
日本がアメリカと共に戦う意志がないことを知ったニクソンは、ソ連の脅威と戦うために中国共産党と組むことを決断した。 
当時ソ連と対立を深めていた中国共産党も、ニクソンの提案を受け入れ、アメリカからの経済協力を引き出そうとした。 
「ニクソン・ショツク」という名の米中結託を生み出したのは、アメリカと共に戦うことを拒んだ「日本」自身なのだ。 
この稿続く。


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