以下は前章の続きである
冊封体制を理解しない翁長知事の姿勢
翁長雄志知事は、李克強首相と会えたことに感激の「言葉」を囗にして「沖縄はかつて琉球王国として中国をはじめ広くアジア諸国との交流の中で栄えてきた歴史がある。中国とは冊封制度をしてきた」と、冊封体制に言及した。
ここで翁長雄志知事は、沖縄の歴史を正しく認識できていないことを露呈した。
それは、琉球王国に明王朝が何故に冊封体制を求めたのか、という史実である。
黒色火薬は漢族の三大発明の一つに挙げられている。
その黒色火薬の製造原料は、木炭、硝石、硫黄であった。
混合比率は木炭が10~20%、硝石が60~70%であり、硫黄の比率はおおよそ木炭と同じであった。
漢族居住地域で黒色火薬が発明されたのは硝石を豊富に産出したからだ。
しかし硫黄の産出は少なく、明は琉球王国の版図内から供給を受ける必要があった。
豊臣秀吉の朝鮮への軍事進出(文禄・慶長の役)に対して、宗主国の明は軍事支援を行うが、その時の主要武器は大砲であった。
秀吉軍の武器は火縄銃であり、火薬の使用量が異なった。
秀吉軍の朝鮮半島支配が成就しなかったのは、明に対して火薬の使用量で劣ったからでもある。
その明王朝の火薬製造が九州南端の火山島に依拠していることに気付いた薩摩の島津家久は徳川家康の許可を得て、薩摩武士団を沖縄へ派遣する。
その際に奄美5島を割譲させ、与論島以北を琉球王朝から引き離して島津氏の直接支配地域とした。
硫黄の産地を琉球王朝から引き離したのであった。
秀吉の野望を阻止できたのは琉球王朝から貢納される硫黄に負うところが大きかった明だが、その火薬の原料・硫黄の供給地である火山島が島津氏に領有されると、明の軍事力は低下していき、ついには、明王朝は滅亡、漢族を支配下に置いた清王朝が成立する。
硫黄を産出しない琉球など清はお呼びでなかったが、島津藩の命令で琉球は清の冊封体制に入る。
唐物(絹・漢方薬材など)を島津藩が欲したのである。
今度は島津藩が清の必要とする物産を仕立てて、琉球経由で輸出入を行った。
これがいわゆる「進貢貿易」であった。
清の要望する物産は琉球に産出しなかったので、島津藩の指示下で琉球は貿易した。
その結果、琉球に対する島津藩の影響するところが大きく響き、実質的に琉球は清の冊封体制から外れて日本化していく。
それは幕末に琉球を訪れた外国人には、日本の一部だと認識させるに十分だった。
その事情は、本誌昨年11月号の惠隆之介氏「ペリー文書発掘スクープ!」論文に示されている。
実質的に冊封体制から外れたのは、琉球に清の欲する物がなかったからだ。
だから、同じく「冊封体制」に入ったからといっても、明と清では大きく内容が異なる。
明は琉球王朝へ冊封を求めたが、清の場合は島津藩の指示に従って入ったのであった。
そこで次の翁長雄志知事の発言が気掛かりとなる。