文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

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コミンテルン史観の吹聴者ハーバート・ノーマン IPR関係者のなかで、ビッソンと並ぶもう一人のキーパーソンがハーバート・ノーマンである

2019年07月08日 10時02分40秒 | 日記

私が高校生だった時、母校の図書館が発行していた素晴らしい冊子、LIBRARIAに執筆を命じられた。

私の同級生たちは皆、日本を代表することになる様な俊秀達だったから、宮城県の読書感想コンクールに応募するのが趣旨の論文は、どれも見事なものだった。

その中に「安藤昌益」(ハーバート・ノーマン)があった。

それが、私がハーバート・ノーマンという名前を目にした最初だった。

以下は江崎道朗氏の歴史的な名著からの抜粋である。

見出し以外の文中強調は私。

コミンテルン史観の吹聴者ハーバート・ノーマン 

IPR関係者のなかで、ビッソンと並ぶもう一人のキーパーソンがハーバート・ノーマンである。 

ノーマンはカナダ人で、1909年、日本に赴任したカナダ・メソジスト教会牧師の息子として軽井沢で生まれ、17歳まで日本で育った。その後、トロント大学、ケンブリッジ大学、ハーヴァード大学で学んだ。

専門は日本史研究である。

ノーマンはケンブリッジ大学在学中にイギリス共産党に入党している。

それ以後の動きを見ると、ノーマンは、カナダ国内の共産党フロント組織や『アメラジア』やIPRと様々な関わりを持っている。 

1936年にはカナダ中国人民友の会の書記に就任、その年末にニューヨークを訪問して「フィリップス夫妻のところで『チャイナ・トゥデイ』のエディターの中国人夫妻など数人を紹介された」ことを妻宛の手紙に書いている。 

『チャイナ・トゥデイ』は先に述べたように、コミンテルンの出先機関であるアメリカ共産党のフロント組織、アメリカ中国人民友の会の機関誌である。

そして、IPRの姉妹組織の『アメラジア』もソ連・コミンテルンの宣伝工作機関だった。

ノーマンは4月18日付の手紙で『アメラジア』に記事を執筆したと書いている。 

ノーマンは1939年にカナダ外務省に入り、翌1940年5月に博士号を取得すると、その直後に語学官として日米開戦前の日本に赴任した。 

ノーマンの博士論文『日本における近代国家の成立』は、1940年2月にIPRの「調査シリーズ」として刊行された。

この論文で、ノーマンは次のように主張する。 

明治維新以後の日本の支配体制は、絶対主義的な天皇制と、地主や大商人や藩閥勢力とが結びついて形成されており、支配層のイデオロギーには自由主義が入る余地がない。

明治維新はイギリス革命やフラッス革命のように天皇をギロチンにかけておらず、ブルジョア革命を経験しなかったから、天皇と封建的な支配階級が結託したまま、一般の庶民が虐待され続け、ファシズム国家になった―。

この論文は対日占領政策に関わる政府や軍の幹部たちに広く読まれた。

マッカーサーもこの論文を愛読していたことから、カナダ人のノーマンをGHQのスタッフとして引き抜いたという経緯がある。 

ノーマンの主張の枠組みは、1932年にコミンテルンで採択された「32年テーゼ」や、講座派という日本共産党員の理論家集団の議論とほぼ一致している。

事実、ノーマンはその後、1941年7月から9月にかけて、講座派の羽仁五郎が書いた『岩波講座・日本史』の明治維新の分析をさらに深く学ぶため、羽仁五郎自身から一対一で講義を受けている。 

こうして講座派の理論に磨きをかけたノーマンは、1942年12月4日から14日まで、モン・トンブラン(カナダのケベック州)で開催された第8回IPR会議に出席した。

ノンフィクション作家の工藤美代子氏は、「この会議の頃から、ノーマンはカナダ外務省が、日本関係について国際的な場で発言する際の、いわば『顔』とも形容できる地位につき、日本といえばノーマン、ノーマンといえば日本というイメージが、内外ともに定着しつつあた」と述べている。 

国際社会における「日本」研究の第一人者として脚光を浴びた若き研究者が、実はコミテルンの工作員であったわけだ。

左派は、いまもこうした人材活用が得意なので、気をつけておきたい。

この稿続く。

 


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