文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

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9月13日には二発の爆弾がバッキンガム宮殿の中庭に着弾し

2015年02月05日 13時30分50秒 | 日記

第二次世界大戦

文中黒字強調は私に拠る。

1939年9月にイギリスと、アイルランド自由国以外のイギリス自治領は、ナチス・ドイツに宣戦布告した。ジョージ6世とエリザベスは、ロンドンがドイツ空軍による大空襲にさらされても、ロンドンにとどまることを選択した。公式には、大戦を通じて国王夫妻はバッキンガム宮殿に居住していたとされているが、夜間にはウィンザー城で過ごすことのほうが多かった。最初にロンドンが爆撃されたのは1940年9月7日で、このときにはテムズ川北側のイースト・エンドを中心に、およそ1,000人の民衆が犠牲になった。9月13日には二発の爆弾がバッキンガム宮殿の中庭に着弾し、宮殿で執務中だった国王夫妻が九死に一生を得たこともあった。王妃エリザベスが「爆撃された事に感謝しましょう。これでイーストエンドに顔向け出来ます (I'm glad we've been bombed. It makes me feel I can look the East End in the face. ) 」という有名な言葉を言い放ったのはこのときである。国王一家は、戦時中のイギリス国民と等しく危険と貧困を分かち合った。国民と同じく配給物資の制限を受け、ルーズベルト大統領夫人エレノアも、バッキンガム宮殿滞在中に食事に配給物資が出されたこと、風呂の湯量が制限されていたこと、暖房が入っていなかったこと、壊れた窓に板が打ち付けられていたことなどを証言している。1942年8月には弟のケント公ジョージが、軍務中に死去した。

1940年にチェンバレンに代わって、保守党のウィンストン・チャーチルが首相となった。しかしながら、ジョージ6世が首相に相応しいと内心で思っていたのは外務・英連邦大臣となったハリファックス子爵エドワード・ウッドだった。チャーチルが、初代ビーヴァーブルック男爵マックス・エイトケン (en:Max Aitken, 1st Baron Beaverbrook) を航空機生産大臣 (en:Minister of Aircraft Production) に任じたときには、ジョージ6世は当初失望していたが、ジョージ6世とチャーチルは徐々に「イギリス近現代史上、もっとも個人的な友情で結ばれた国王と首相」といわれるほどの絆を結んでいった。1940年9月からの半年間、二人は毎週水曜日に4時間を共に過ごし、昼食をとりながら、戦争について秘密裏に腹蔵なく語り合った。 第二次世界大戦の間中、ジョージ6世とエリザベスは爆撃を受けた場所、軍需工場などイギリス各地を訪問し、国民の士気を鼓舞し続けた。さらにジョージ6世は、イギリス本国を離れて外国へ遠征している部隊も慰問した。1939年12月にフランス、1943年6月に北アフリカとマルタ、1944年6月にノルマンディー、1944年7月に南イタリア、1944年10月にネーデルラント地域を、それぞれ訪れている。国王夫妻は国民から高い敬意を受け、その不屈の姿勢とともに、国を挙げた戦争遂行の象徴たる存在となっていった。1945年のドイツが降伏したヨーロッパ戦勝記念日のお祭り騒ぎの中、バッキンガム宮殿前に集った国民が「王よ、お姿を! (We want the King!)」と叫んだ。ミュンヘン協定を締結したときのチェンバレンのときと同じく、ジョージ6世とエリザベスはチャーチルとともに宮殿のバルコニーに姿を見せ、国民からの喝采を受けた。1946年1月にロンドンで開催された第一回国際連合会議で、ジョージ6世は公式演説を行い、「男女の別、国の大小に関わらず、信念はみな平等である」と断言している。


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