文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

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「マスク」着用論争が暴き出した科学を宗教に変える欧米の精神風土

2022年04月19日 16時29分34秒 | 全般
以下は、有数の読書家である友人が「必読」として購読を勧めてくれた本、日本人が知らない、トランプ後の世界を本当に動かす人たち、からである。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
著者である増田悦佐の経歴は以下である。
1949年東京都生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修了後。ジョンズ・ホプキンス入学大学院で歴史学・経済学の修士号取得、博士課程単位修得退学。ニューヨーク州立大学バッファロ一校助教授を経て帰国。HSBC証券、JPモルガン等の外資系証券会社で建設・住宅・不動産担当アナリストなどを務めたのち、著述業に専念。経済アナリスト・文明評論家。
見出し以外の文中強調は私。
p168-p172
「マスク」着用論争が暴き出した科学を宗教に変える欧米の精神風土
「地球温暖化」論争には環境・エネルギー問題以上の意味があり、新型コロナウイルス対策に関する対立にも、疫学・公衆衛生問題以上の意味がある。
私がそのことに気づいたのは、欧米で「マスク着用の是非」をめぐって意見を戦わせている人たちのほとんどが、国民全体をどちらか一方に引っ張りこもうとしていたからだ。

着用賛成派は「外出時にマスクをつければコロナウイルスの蔓延を防ぐか、遅らせるかの効果がある。だから、政府は外出する人たちにはマスク着用を義務付けるべきだ」と主張していた。
一方、反対派は「マスクは呼吸器周辺を湿めらせて、おそらくさまざまな菌やウイルスも繁殖した空気で覆うから、無益なだけではなく、有害だ。だから政府はマスクの着用を禁止すべきだ」と唱える。
我々、毎年春先になると花粉症にかかっている人たちが、マスクをして出歩く光景を見慣れている東アジア「花粉症」文化圏の人間から見ると、なんとも珍妙な光景だ。
マスクひとつに細菌やウイルスの人から人への移転を食い止める力があるなどと思っている人は、めったにいないだろう。

マスクをしている人たちは、「たとえ私が自覚症状なしで感染していたとしても、その病原体をなるべく他人様に移さないように注意していますよ」という社会的なジェスチャーをしているだけだ。
そういうジェスチャーに意味があると思う人はすればいいし、あまり意味がないと思う人はしないでもいい。

東アジアのマスク着用の是非が個人の自由に任されてきた国々では、ほとんどだれも「国や自治体は、どちらが正しいかを決めて、みんなに正しい方向を取らせるべきだ」などとは思わないだろう。
中国、北朝鮮、「明るい北朝鮮」の異名を取るシンガポールなど、そうでもない国々も増えてきたようだが。
いや、最近では日本にも、そういう「権力による統制、大賛成」という人が増えてきたのだろうか? 
アメリカでも、ヨーロッパでも、論争に参加していた人たちのほとんどが「着用義務付け」、「着用禁止」のどちらかを主張して、相手方に対して非難や罵倒をぶつけ合っていた。
「どちらでも、個人の自由に任せればいい」という意見は、ほとんど出ていない。
そこでつくづく考えたのは、今やこの問題は完全に疫病対策や公衆衛生政策の枠を超えて、自分が正しいと思うことを反対派に押しつける、宗教上の宗派論争のようなものになってしまったなということだ。 

日本のように社会・政治・経済が基本的に宗教とは分離された状態が長く続いている国では、マスク着用の是非は明らかに実利の問題だ。
世間一般に「あいつは穏健な考え方をする安全な人問だ」と見ていただくことの利益が、いちいち着けたり外したりがわずらわしく、常時清潔なマスクを用意しておかなければならない手間や時間などのコストを上回ると思う人は着けるし、そう思わない人は着けないだけだ。

ところが、欧米では「どちらかに決めて、国や自治体は法律や規則によって決めたとおりに国民や自治体の住民に実行させなければならない」と主張する人が圧倒的に多いのがとくに自由、平等、民主主義を守る立場から「マスク禁止」を訴える人たちのあいだで、根強い欧米白人キリスト教文明優越論を堂々と開陳する人が多かったのには、驚いた。
一例を挙げよう。
「進んだ文明圈では、自分が信ずることを主張する際に、身元を隠す必要は感じなくて済む。だからこそ、キリスト教圏では、昔から人前で自分の顔を覆い隠すことは失礼とされてきた。ところが、イスラム教圜では、とくに女性は人前では自分の顔を隠すことが戒律で強制されてきた。今でもイスラム教圏では自由な言論が育たたないのも、こうした戒律があるからだ。今さら、欧米社会が人前で顔を隠すことを許すようになったら、自由な言論も弾圧され、欧米は第一世界として、社会主義圈の第二世界や低開発国ばかりの第三世界を教え導く権利を、自分から放棄することになるだろう」 
そう、欧米の白人たちの大部分が、「一等車や二等車に乗れない貧乏な人たちが三等車に乗る」のと同じような意味で、「第三世界」ということばを使っている。
だから、「頑張ればいつかは我々のように豊かな国に発展できますよ」という外交辞令たっぷりの「発展途上国」ではなく「低開発国」と呼ぶのが正直な表現なのだ。
あまりにも露骨な白人キリスト教文明優越論だが、こういう議論が比較的良心的に各国政府のコロナウイルス対策の過剰反応ぶりを批判しつづけてきたサイトに、堂々と投稿される世界なのだ。
当初私は、欧米諸国が社会的危機を迎えるたびに「宗教バネ」が働くのは、結局まだまだ政教分離ができていない遅れた国々だからではないかと思った。
たとえば、アメリカで大統領になろうとする人は、大統領選に勝っても、聖書に片手を置いて、唯一全能の神に宣誓か言明をしなければ大統領になれない。
つまり、キリスト教徒以外は嘘をつかなければ大統領になれないという高いハードルがある。
あるいは、今でもフランスの公共初等教育では、1週間のうち水曜日はカトリックの聖職者たちに子どもたちの教育をゆだねている。
こういう国々ばかりだから、社会・政治的な問題も信仰告白と信仰告白のぶつかり合いになるのだろうと思ったわけだ。

この稿続く。



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