文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

「唯一の被爆国」に続く言葉は「野蛮から国民を守るためにどの国よりも優先して核兵器を持つ権利がある」に決まっている。

2022年05月13日 11時54分58秒 | 全般

以下は5月11日に発売された週刊新潮の掉尾を飾る高山正之の連載コラムからである。
本論文も彼が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである事を証明している。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
被爆国の権利
黒澤明の「七人の侍」を見たとき、ちょっと違和感があった。
収穫を終えた村を毎年のように野盗が襲う。
実りを奪い、女を犯し、逆らえば殺しもすると映画は言う。
確かに戦国時代に野盗の類はいた。
ただそのころの野盗は普段は村で百姓をやっている連中だ。
彼らは近くで合戦があると出かけて行く。
関ヶ原の戦いでは手弁当持参で合戦を眺めていたという話も残る。
大勢が決し、落ち武者が出ると百姓はとたんに見物人から追い剥ぎに変身する。 
それを「野伏せり」という。
襲ってカネ目になる武具を奪い、名のある武将なら首級を取って褒賞に与(あずか)る。
敵中突破をやった島津義弘も関ヶ原を脱出した後、この手の百姓に随分痛めつけられている。
因みにその関ヶ原の戦いも、百姓が稲を刈り入れ、稲架(はき)掛けを済ますまで待った。
百姓に遠慮しいしいの合戦だった。
そういうわけだから野伏せりが己の村を襲うという黒沢映画の設定がどうも落ち着かない。
むしろ落ち武者が村を襲うというなら説得力がありそうだが、日本の歴史はそれを否定する。
例えば平家の残党は壇ノ浦の後、ただひたすら逃げ落ちていった。
落ち行く先は福井の赤谷とか南会津とか。
八戸辺りにも落人の隠れ里が残る。
日経出身の評論家、故井尻千男(かずお)は戦国大名佐々木六角氏の末裔に当たる。
近江で負け、山梨の井尻村まで落ちて、六角を井尻姓に変えたと聞いた。
劉邦は99回負けても諦めなかったが、日本人は一度で諦める。
それが武士だ。
もう一つ、武士の戦いは勝ったからと言って好きに殺戮や略奪はしなかった。
関ヶ原の戦いでも石田三成を除けば西軍諸大名の誅求は石高を減らす程度で収めている。
欧州もそのころウェストファリア条約を結び、勝手な略奪を禁じて国が賠償義務を負うことにしている。
戦争の形も例えばナポレオンと欧州軍がベルギーのワーテルローに場所を決め戦うようになった。
日本は日露戦争でも優しい戦争を実践した。
捕虜の妻が四国の収容所にきて夫を看病するのも許した。
日本式の戦争に世界が目覚めたと思われた20世紀。
昔の戦法を蒸し返す国がでてきた。米国だ。
真珠湾に始まった日米戦争は太平洋の島々を戦場としたが、米国はそれを飛び越えて、日本本土を直接攻撃してきた。
マッカーサーは飛び石作戦と言ったが、別名は「サンドクリーク」と言った。
コロラド州のシャイアン族の居留地の名で、米騎兵隊は戦士が狩りに出るのを待って集落を襲い、女子供600人を皆殺しにした。
民族を絶やすには女を殺せばいい。
戦士を倒すより危険は小さく、おまけに手っ取り早い。 
米国は日本人をサンドクリークのシャイアンに見立てて女子供を集中的に殺した。
その象徴が広島長崎の原爆だった。
そういう絶滅戦を米国はtotal war(総力戦)と呼ぶ。
先祖帰り戦争と素直に言えばいいのに。
戦争倫理を育んだ日本が最も残忍な原始戦争の洗礼を浴びたのは皮肉だが、これにどう対応するか。
「唯一の被爆国」だから「過ちは繰り返しませぬ」と逃げるか。
「非核三原則があるから何も考えない」(岸田文雄)とか「核兵器禁止条約に背を向ければ日本は3発目を食らう」(ICANのベアトリス・フィン)とか。
ふざけた雑音は多い。
しかしウクライナ侵攻に見るように戦争に倫理は必要だ。
日本はそれを教えられる国だ。
「唯一の被爆国」に続く言葉は「野蛮から国民を守るためにどの国よりも優先して核兵器を持つ権利がある」に決まっている。
それなのにマッカーサー憲法に拘って権利を留保するから支那や北朝鮮まで図に乗ってくる。
ロシアも含め戦争とは虐殺と強姦と略奪だと思っている国ばかりだが、日本が持てばみんな黙る。


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