4/10に発売された月刊誌Voice5月号には読むべし論文が満載されていると友人に話したはいいが、多くの論文を読み残していた事に気が着いた。
以下は、デジタル本は記憶に残らない、周回遅れのグローバル教育は日本に不要、と題した藤原正彦(お茶の水女子大学名誉教授)のインタビュー特集からである。
これらの論文が満載されていながら月刊誌Voiceは780円なのである。
活字が読める日本国民全員が5/10には最寄りの書店にダッシュして購読しなければならない。
そうしなければ貴方が物事の真相を知る事は決してないからである。
見出し以外の文中強調は私。
活字本との本質的な違い
―藤原先生の本誌インタビュー(「読書こそ国防である」「町の書店がなぜ大切か」2017年3月号、11月号)は本屋さんの経営者から現場の担当者まで、多くの方々の好評を博しました。
藤原 日本人の書店離れ、本離れは国家にとって致命的です。
今年2月26日、大学生を対象に行なったアンケート(10,021名、全国大学生活協同組合連合会調べ)では「大学生の5割以上が1日の読書時間ゼロ」という恐ろしい結果が出ました。
勤労者を含んだ調査ならまだしも、勉強を旨とする大学生の半分以上が読書時間ゼロというのは、驚くべき事態です。
読書文化の衰退もついにここまで来たか、と思いました。
読書文化の衰退イコール知的能力の衰退なのです。
―同26日には、2017年における電子版の漫画単行本の推定販売金額が、紙の漫画単行本の同金額と逆転した、と報じられました(出版科学研究所調べ)。
本のデジタル化をどのようにご覧になっていますか。
藤原 とくに私が懸念するのは、小学校の教科書のデジタル化です。
経団連やIT企業の尻馬に乗って「子供たちが重い教科書を持って行かずにデジタル端末で授業を受けられる」とか「将来のIT化に対応できる人材をつくる」とかいう愚かな話を、文部科学省や学校が本気で行なおうとしているのですから。
この憂慮すべき事態の発端は、民主党政権の時代、ソフトバンクの「光の道」構想に議員たちが乗ったことにあります。
-「30年後の日本の中核を担う人材は、IT技術を自由自在に操れる人々でなければなりませんが、それは今日時点の小学生の皆様ということになります。彼らのITリテラシーを高めるためには、幼少期からの教育を欠かすことができません。そのため、今から全ての教員・生徒に、電子教科書を無償配布したり、教育クラウドを構築するなど、身体で自然に覚えるような環境を造る」(「ソフトバンクNOW」2010年11月17日、同社ホームページより)という構想ですね。
藤原 英語やITのリテラシー(活用能力)より前に人間としての思考能力や情緒力や教養を培わないといけないのに、順序が逆です。
また、IT教育の推進派は「活字本なんかなくていい、デジタル本だけで用が足りる」というけれど、デジタル本と活字本には本質的な違いがあります。
それは「自然に目に入ってくるかどうか」。
デジタル本はパソコンや電子端末の内部にあるから、機器を立ち上げてクリックしないかぎり、タイトルや内容を見ることができません。
一方、本棚にある本は何もせずとも自然に表紙のタイトルが目に入ってくる。
問題は、この「視界に入るか否か」が人間の記憶や情緒と深く関わっている、という点です。
写真を例に取って説明しましょう。
昔はカメラで撮ったフィルムを写真屋へ現像に出し、プリントされた写真を「新婚時代」「子供の成長」などテーマ別のアルバムに収め、本棚に入れていました。
ときどき手に取って開き「ああ、生意気な女房もこのころは素直で従順で可愛かった」「ドラ息子たちも夢のように愛らしかった」などと思い出に耽るわけです。
―ひるがえって現在は、ケータイでいくらでも写真を撮れますね。現像代もかからず、アルバムの置き場にも困らない。
藤原 ところが往々にしてパソコンや携帯電話に保存した写真は撮りっ放しで溜まる一方、見返すことがほとんどない。
そのうちに、撮った写真が何だったかすら思い出せなくなってしまう。
じつは読書もまったく同じことです。
紙の本の場合、たとえば部屋に入ってふと本棚に目が留まる、あるいは畳に寝転んで本棚を見上げると「あ、失恋時代に読んだ詩集だ」と気付いて本を手に取る。
すると、自分がどんな思いでその詩集を読んだかが、当時の記憶とともにありありと蘇ってくる。
私のように逐一、線を引いてコメントを記す読者は、気になった箇所に「すごい」「ふざけるな」など批評が記してあり、たいへん参考になります(笑)。
つまり、紙の本に蓄積された記憶そのものが個人の「宝物」であり、人生のさまざまな思い出を蘇らせるとともに、人間の感情や思考を深めてくれる。
たとえデジタル本の書名や読書履歴がパソコン内に一覧表となっていようと、その人が意識してファイルを開けないかぎり、過去の読書や自分の思い出に出合うことはない。
―あるいはコンピュータに「おすすめ」されるか。
藤原 いずれにせよ紙の本のように、自然なかたちで私たちの思い出を引き出し、高次の情緒を育んでくれることはありません。
英語に「Out of sight, out of mind.」ということわざがあります。
よく受験英語では「去る者は日々に疎し」(『文選』より)という訳が充てられますが、原義はsight(視野)に入らない、つまり「見えなくなったものは忘れられてしまう」という意昧です。
紙の本と異なり、デジタル本は「見えなくなる」から、読んだことすら忘れてしまう。
この点、紙の本とは決定的な差があるわけです。
―思い出を蘇らせてくれる紙の本を、部屋が狭くなるというだけの理由でデジタル化して捨ててしまうのはもったいない。「記憶こそ人間そのもの」だとすれば、人生そのものの否定にもつながります。 藤原 ましてや、デジタル教科書を初等教育で押し付けることがいかに犯罪的か。
小学一年生になり、新しい教科書をもらって手に取ったときの喜びがインクの匂と共に記憶に蘇る。
この幸せな経験を子供から奪い去うとしている。
本への愛着を破壊する教育は、まさに亡国の政策です。
日本人の本離れをさらに加速させる愚行を、文化人や各界のリーダー、政治家は何としても止なければなりません。