文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

南京にある例の30万人虐殺記念館にこれが長らく「日軍兵士が鶏を掠奪した図」として展示されていた。彼らにしてみれば掠奪は当然と信じて疑わなかった。

2019年06月18日 10時22分38秒 | 全般

私は以下の本から、これまで紹介した章の全てと以降に紹介する全ての章を米国の大学で教授をしているという信じ難い低能にして最低で悪質な下種女郎であるアレクシス・ダデンに特に届ける。
掠奪に加わらなかった日本軍
戦争は自国権益保護という表向きと掠奪と強姦という裹の面があって初めて成立してきた。
掠奪強姦は命をかける兵士へのインセンティブ、当然の報酬だった。
それがなければ兵士は動かないとアラビアのロレンスことトーマス・ロレンスが自伝に書いている。 
彼はベドウィンの兵士を率いてオスマントルコ支配のダマスカス攻略に向かうが、ベドウィンはゆく先々で村を襲う。そこで掠奪と強姦を心ゆくまで堪能しない限り動かない。
大きな街を襲うと「また二週間は足止めか」と嘆くセリフが繰り返し出てくる。 
そのベドウィンが信ずるイスラムの教えは戦争中の掠奪は当然のことと規定し、ただ掠奪品は公平に分けろとあるだけだ。 
これはキリスト教徒も同じ。
13世紀、十字軍は東方正教会の都コンスタンチノープルを襲って陥落させると「恒例により兵士に3日間の掠奪を認めた」と歴史書にある。 
清朝の末期、義和団の乱が起きた。
日本のほか英米仏独露など8ヵ国の軍隊が出て義和団と清の軍隊に包囲された北京の各国公館を解放した。
籠城戦で見せた日本の柴五郎中佐の奮戦はビクトリア女王を感激させ感状をときの林薫公使に伝達している。 
戦いが終わった後、8ヵ国連合軍の総司令官だったドイツのワルデルゼー将軍が北京に入る。
国王ウイルヘルムニ世に宛てた報告書には「各国軍隊に3日間の掠奪を許可した。そのあと(今度は将兵の)私物とするための掠奪を許した。この破壊と掠奪による支那の損失の詳細な数量は永久に調べがつかないだろう」とある。 
支那の歴史教科書にはその掠奪のひどさについて永楽大典(明代の類書=百科事典)の消滅など文化財の喪失に加え、「財務省の金蔵、銀庫、金庫はすべて盗まれ、放火された」とある。 
これが20世紀の入り口で起きた。
ドイツ入も英国人も喜んで掠奪に加わった。
中でもロシア軍はリネウイッチ将軍自ら掠奪して回った。
何より驚きなのは3日問の掠奪が国家のためで、そのあとに兵士の個人的な掠奪が別にあるということだ。
それを白人国家は当然のようにやった。 
21世紀に入ってのイラク戦争のおり、陥落したバグダッドの博物館が掠奪にあってシュメール文化の貴重な文化財が奪われた。
盗品の多くはやがて米国の空港や港で発見された。
米軍人やジャーナリストが盗んで持ち帰ったものだった。
掠奪のDNAが彼らの血にしっかり組みこまれている。 
日本の名誉のために言えば、日本軍は北京の掠奪には加わらず、紫禁城を守り、金蔵を押さえたが、これは清王朝の財政を保全する目的だった。
日本軍が仕切った区域は治安が行き届き、多くの支那人が白人の暴虐を逃れて避難してきた。 
こうした掠奪とほぼ一体なのが強姦になる。
支那人と米国人が合作した南京大虐殺も虐殺と掠奪だけあって強姦がないのはおかしいから無理やり「南京の安全地帯で2000人が毎晩強姦された」ことにした。
それは彼らの描く戦争の形だからだ。 
しかし強姦はそんな付随的行為として描かれるべきものではなく、歴史を見ればむしろ最も有効な征服の手段とされてきた。
マヤ族の悲劇
例えばマヤだ。
彼らの文化には高度な建築学や天文学が生きていた。
しかし現在はその片鱗すら生き残っていない。
マヤは今グアテマラ国境のジャングルにいて焼き畑農業を営んでいたが、最近の定住化政策で幾つかの村をつくった。チアパスに近いそんな村でほとんど日本人にしか見えない少女をインタビューしたことがある。 
十六世紀、スペイン人が侵攻し、多くのマヤ族は殺され、女は犯された。
彼女の祖先はジャングルに逃げ込み、それから五百年、マヤの血を守った。
純粋のマヤ族だった。
彼女はそんな祖先を「恨む」といった。
もし逃げずに祖先がスペイン人に犯されていれば、白人の血が入ったメスチソ(混血児)になれた。
「そうだったら堂々と街に降りて、メキシコシティのハードロックカフェにもいけたのに」
なまじインディオの純血を保ったためにこんなところで一生を終えるのだと。 
黄色くてもいいじゃないかと慰めたが、彼女には慰めにもならなかったようだ。 
このときの通訳はかなり白人の血が濃いメスチソだったが、このインタビューのあとしみじみ「私たち上等なメスチソも」と言った。
「赤ん坊が生まれるときはものすごく心配する」。
「上等なメスチソ」にも何パーセントかのマヤの血が混じる。
それがなんかの拍子に先祖返りみたいに出てくる。
「インディオの血が濃い顔つきだと、いい学校にもいけない。いい就職口もなくなる」。
さっき彼女の言ったハードロックカフェは「少しでもインディオっぽいと入れてくれない」のだと。
あの輝かしい文化を持ったマヤは滅び、その民の末裔はマヤであることに嫌悪さえ見せる。 
実はこれに似た話をテヘラン特派員時代に聞いたことがあった。
支局に出入りしていたタクシー運転手の姉が出産した。
助手のマスウッドが「そうか。何色だった」と即座に聞いた。
運転手は嬉しそうに「白だ」と答えた。
助手はそこで改めて男の子か女の子かを聞いた。 
それを糺すと「あなたには答えにくいが、イランはアーリア系民族で国名もそこから来ている。しかしネファペントの戦いでササン朝ペルシャが敗れ、薄黒いアラブ人に支配された」。
軽蔑するアラブ人の血が少し入ったという意味だ。
そして13世紀にはフビライの弟プラグが攻め込んでイル・ハン国をつくる。
治世は百余年続くが、「モンゴル人はこのとき徹底的にペルシャ人の血を汚した」。
「血を汚す」という表現が少し引っ掛かったが、要するにアーリア系民族にモンゴロイドの血が混じった。
それがたまに出てくる。
目の細い黄色い子供が生まれる。
メスチソの通訳と同じ。
だから赤ん坊が生まれればまず色を聞くのだという。 
実際、そういう例はあるのかと聞くと、頷く。
彼等は家族からも差別され、まともな就職口もなければいい結婚もできない。
「イランでは最低の職業がパン焼き職人だ。炭を熾した壺でパンを焼く。暑くて辛くて低賃金で知られる。その職人はほとんどが一目でプラグの末裔と分かる」と。 
同じイラン人でも征服者の血を巡って嫌悪と差別が生まれる。
それが少数の場合は小さな偏見で終わるが、その度合いが大きければ国家としての団結力、求心力にも問題を生むことは容易に想像できる。 
ハイチがいい例だ。
フランスが黒人奴隷を入れて砂糖とコーヒーのプランテーションをここにつくった。
しかしナポレオンの時代に採算が取れなくなり放棄される。それが初の黒人国家として独立した。
奴隷出身という虐げられた境遇をばねに強い団結力を誇るのかと思ったら、成立から現在に至るまでハイチ人同士の信じ難いほどの残忍な殺し合いが続いている。 
理由は人口の30%ほどが白人混血、いわゆるムラートで、彼等は白人の血を誇り、祖国フランスを崇め、フランス語を国語に採用した。
フランス人は彼らに教育など便宜も図ってやった。
彼等は見た目は同じなのに純粋黒人を見下し、それがもとで対立している。
白人の身勝手に団結して抗議し、奴隷植民地の歴史を償わせるという動きは生まれようにも生まれてこない。 
強姦は掠奪のついでに行うものではない。
強姦はその民族の純血性を奪い、それによってマヤのように滅びるかハイチのように永遠の混乱をもたらす破壊力も秘めている。 
先の大戦でスラブ人やタタール人で構成されるソ連軍はエルベ川を渡ってドイツ領に入ると率先して強姦を兵士にやらせた。
アントニー・ビーヴァー『ベルリン終戦日記』にその辺は詳しいが、ドイツ全土で約200万人の女性がソ連軍に凌辱された。 
よく引用されるが、産院を兼ねた修道院ダーレムハウスでは修道女、妊婦から付き添いの女性まですべてが犯された。
第一次大戦のときに英国がデマで流した産院の凌辱そのものをソ連軍は実際にやった。 
統計がしっかりしているのはベルリンで、ここでは13万人が犯され、うち9万2千人が市内の二つの病院で手当てを受けた。
うち2万人が不法妊娠していて、多くが中絶手術を受けたが、約2千人が出産している。
日本の純粋さ
日本に進駐した米軍も最初に要求したのが女だった。
性の防波堤として三業地の女性らが文字通り挺身して米国兵の相手をした。 
ビルマ、シンガポールでは日本の慰安所をそのまま連合軍が接収して連合軍兵士用に継続利用している。
しかし日本に入った米兵は日本政府に用意させた慰安所だけでは足りなかった。
一般の民家に押し入って女を漁った。
蒋介石軍の兵士と同じだった。
押し入った米兵を諭そうとした家人が暴行され、殺されるケースもあった。
米軍の占領期間に殺された日本人は2,536人(調達庁調べ)に上り、その中にはこうした強姦の絡むものが多かったという。 
この時期、日本に来たシカゴ・サン紙の特派員マーク・ゲインは『ニッポン日記』の中で「日本人は女を武器に連合軍の占領統治に抵抗しようとした」といったくだりがある。
これほど尊大で恥を知らないジャーナリストも珍しい。 
これが彼らの戦争の本当の姿になる。 
しかし日本に限っていえば、彼らとは全く別の戦争を戦っていた。
前述したように残忍な報復はしなかったし、日本人は彼らが常とする掠奪も強姦も戦争から排除していた。 
上海事変から南京に退く蒋介石の軍隊は前述した金州城のときと同じく民家に押し入り奪えるものは奪い、犯し、火を放って逃げた。 
南京陥落後、蒋介石軍は長江の上流九江に逃げ、ここに陣を張る様子が石川達三『武漢作戦』に描かれている。
彼等は九江の民家を接収し、食糧を勝手に調達し、住民は自分の街で難民にされてしまった。 
日本軍がここに迫ると蒋介石軍は長江の堤防を決壊させて街を水浸しにし、井戸にはコレラ菌を撒いて逃げた。
防疫と堤防の修理は日本軍がやった。 
彼らを追って南京に進軍する日本兵が農家から買った鶏を笑顔で抱えている写真が朝日新聞に載った。
南京にある例の30万人虐殺記念館にこれが長らく「日軍兵士が鶏を掠奪した図」として展示されていた。 
彼らにしてみれば掠奪は当然と信じて疑わなかった。
写真を提供した朝日新聞もずっとそれを黙っていた。
だが、それが違うと分かってきて、南京事件70周年に当たる07年12月にこの写真をこっそり外した。 
それほど日本人の行動は彼らの理解の及ばないところにある。 
この稿続く。


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