文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

明治憲法をいちはやく改正しなかったために、軍部と政府がそれぞればらばらで、意思統一のとれないみっともない国家となってしまった。

2020年06月22日 23時49分20秒 | 全般

以下は前章の続きである。
明治憲法の欠陥 
あの戦争と昭和天皇との関係についてもふれたい。
一九三二年の五・一五事件、一九三六年の二・二六事件。-あのころから日本は内部的に不穏だった。
重臣を殺害した若手将校に対し、大新聞は政治面では非難しつつも、社会面では昭和維新の志士として褒め上げた。
もちろん世間には少壮将校の暴挙を怒る声はあった。
昭和天皇は平和主義で国際協調を優先したから、田中義一内閣以来の出先軍部の陰謀や暴走に懸念を抱き注意はした。
それでも憲法に忠実に従う立憲君主であったから内閣の決定に従った。
天皇は内閣の機能が不全に陥った二・二六事件のような場合や、最高戦争指導会議の意見が二つに分かれた終戦決定のような場合でない限りは、積極的なイニシアティブは取らなかった。
というか取るべきでないとした。
ただし「朕の股肱(ちんのここう)」である重臣が殺害された場合、反乱軍の行動を容赦するようなことはなかった。
そうした陛下の姿勢は二・二六事件のころから国民にも知られるようになった。
大人の間では軍部の横暴という声が囁かれた。
それというのも昭和十年代になるや日本は陸軍が承知しなければ内閣の組閣すらもできなくなっていたからである。 
これは軍部が悪いのだが、元はといえば明治憲法に欠陥があって、日本の中に「まるで二つの国―陸軍という国と、それ以外の国とがあるようなこと」註9になってしまったからである。
明治憲法註10をいちはやく改正しなかったために、軍部と政府がそれぞればらばらで、意思統一のとれないみっともない国家となってしまった。
それだけに、満洲事変の際のように、出先軍部の独断専行が成功裏に行なわれると、国民は軍事行動に歓呼したが、しかし中国大陸で解決の目途も立たぬまま戦線を拡大した陸軍に対しては、当時からすでに不満はあった。
ところが大新聞の社説は、政府や国会や官僚に対して苦情を発することはあっても、軍に対する不満を公然と述べることはなかった。
戦前・戦中は日本軍に対して、戦後は米国軍に対して、批判めいた言辞は慎んだ。
この稿続く。


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