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外務省はホームページ「南京事件」を消去せよ!根拠もなくウソをつき続ける外務省は国民を馬鹿にしている…林芳正の珍答弁

2023年09月03日 22時01分59秒 | 全般

以下は現在発売中の月刊誌WiLLに掲載されている阿羅健一さんの警世の労作からである。
既述の様に、阿羅さんが私の母校の先輩である事を、私はとても誇りに思っている。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。 
見出し以外の文中強調は私。

外務省はホームページ「南京事件」を消去せよ!
根拠もなくウソをつき続ける外務省は国民を馬鹿にしている

林芳正の珍答弁 
外務省のホームページが南京事件を記述している。 
「南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています」
2005年から記述しているが、この記述のもととなる資料はないと外務省はいう。
4月3日の参議院決算委員会で和田政宗議員があらためて質問、林芳正外務大臣が答えた。 
「この記述の根拠となる文書は外務省内に存在するのでしょうか」 
「外務省が作成したものは確認できておりません」 
外務省が根拠もなく否定できないと記述してきたことを、林外相が認めた。 
それだけでない。
このとき、さらに問題が露呈された。 
林外相は答弁の際、二つの資料をあげた。
「2007年4月24日に決定した政府答弁」と、「戦史叢書支那事変陸軍作戦(1)」の二つで、前者はこれをホームページに記載し、後者にはホームページに該当する記述があるという。
しかし、前者はホームページ記載から2年後の政府答弁であり、記載できるわけがない。
後者には該当する記述がどこにも見当たらない。 
外務省は根拠もなくホームページに記載するだけでなく、日中歴史共同研究やユネスコ世界記憶遺産登録でも同じように応対し、この期に及んでもウソをついている。
こういった姿勢がどれほど日本を危機にさらしているか、外務省がいま行うべきは直ちにホームページを訂正することである。

国民を馬鹿にした外相答弁 
2つの資料のうち前者は、政府が南京事件をどう考えているか、西村眞悟衆議院議員が尋ねた質問主意書に答えたもので、「非戦闘員の殺害または略奪行為等があったことは否定できないと考えている」としている。 
外務省のホームページが2年あとのものを根拠にできないのはいうまでもないが、2007年の政府答弁を見ると、政府答弁がホームページの記述をなぞっており、林外相はまったく反対のことを述べている。 
さらに林外相は、2007年の政府答弁を「関係者の証言や事件に関する種々の資料から総合的に判断したものでございます」と説明するが、ホームページをなぞっただけであるから、総合的に判断したといえるのか。
種々の資料からともいうが、これも実態のない話である。 
2007年の政府答弁に対し、わたしは2016年12月1日、その根拠とする文書はなにか開示を求めた。
すると、2017年1月31日に通知があり、「対象文書が保管されている可能性のあるファイル内を探索しましたが、現在のところ該当する文書を発見できておりません。引き続き探索を続けます」ということであった。 
9ヵ月経った10月31日、最終通知があった。 
「関係するファイル内を探索しましたが、該当文書を確認できなかったため、不開示(不存在)としました」 
つまり、資料はなかったという。 
林外相は種々の資料があったと説明しているが、2017年の段階で資料はなかった。
10年前の資料がないということは、もともとなかったのであろう。
ないのはそれだけでない。
南京事件に関する1982年月30日の橋本恕外務省情報文化局長の発言、1991年11月26日の宮沢喜一総理大臣の発言も、わたしの開示要求に対し根拠となる資料はないと答えている。
南京事件に関する資料は外務省にまったくないのである。
委員会の模様はテレビ中継され、国民が見ているなか、このような答弁が平然と行われている。

資料のない南京事件 
後者の戦史叢書を見る。 
戦史叢書というものは、防衛庁防衛研修所戦史室が編纂し、1966年から刊行され、102巻におよぶ日本の公刊戦史である。
世界に類を見ない本格的なもので、大東亜戦争を正しく残そうという旧軍人の思いで始まり、調査・研究が行われた。 
林外相のあげた「戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)」は、そのうちの1巻で、盧溝橋事件、北支の戦い、第2次上海事変、南京攻略戦、1938年1月の日本の方針、といった支那事変の始まった半年間を記述している。
いわゆる南京事件の時期にあたる戦史で、1975年に刊行された。 
「戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)」を書いたのは森松俊夫である。 
森松俊夫は、士官学校を卒業した軍人で、少佐で終戦を迎えた。
戦後、自衛隊に入り、戦史研究の道に進み、防衛研修所の戦史編纂官をつとめているとき、この本を執筆している。
南京事件をどう記述しているかといえば、南京攻略戦のあとに、「注 南京事件について」を設け、2頁あまり触れている。 
そこでは、戦争中からハロルド・J・ティンパーリ(ジャーナリスト)やエドガー・スノー(米ジャーナリスト)が南京事件を記述し、終戦後の東京裁判で取りあげられたと説明、判決について「その証拠を些細に検討すると、これらの数字は全く信じられない」と記述する。 
また、「これが事件として取り上げられたのは、若干の事実があったからであり、これが誤解、曲解され、さらに誇大宣伝されたためであろう」と説明し、若干の事実とは略奪などの事犯を指し、「軍は法に照らし厳重な処分をした」と記述している。
外務省ホームページの眼目である非戦闘員殺害は記述されていない。 
さらに、ここで取りあげられた第一次史料は「業務日誌及び機密作戦日誌」で、その史料も、軍紀・風紀の振作(発揚)が東京で検討されていた、というもので、南京に直接言及したものでない。 
つまり、林外相のいう該当記述は見当たらない。
林外相があげたもうひとつの「戦史叢書」もこういうものである。
森松俊夫は陸将補で自衛隊を辞めたあと、陸軍将校の集まりである偕行社に入り、図書館長をつとめながら研究を続け、偕行社のなかでは戦史研究の第一人者と目されていた。
明快に話すひとではなかったが、質問すればいつも丁寧に答えてくれる。
ずいぶんあとのことだが、尋ねたいことがあったので自宅へ電話すると、入院しているという。
身体は弱っているが、ベッドで寝ているだけなので遠慮なくどうぞ、という家族の話なので会いに行き、数人いる病室のなかでいろいろ話したこともある。
森松とはそんな関係だったので、「戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)」の執筆から10年ほどして南京事件について尋ねた。
何度か尋ねた話はこんなものだった。 
森松が戦史編纂官になったころ、南京事件のことは頭になく、まわりに南京事件を研究しているひともいなかった。
南京事件に関する史料整理も戦史室のなかで進んでいなかった。
「支那事変陸軍作戦(1)」を執筆している途中、鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』がベストセラーとなり、防衛庁でも南京事件が知られ出したので、南京事件に触れないわけにいかなくなった。
そんなことから研究を始め、森松が南京事件について一番詳しくなった。 
つまり、「支那事変陸軍作戦(1)」が書かれるころには、南京事件を戦史としてとらえるまでいっていない。
南京戦とともに起きたパネー号やレディバード号事件は本文で取りあげており、いわれ出した南京事件を否定するため「注 南京事件について」を書いたのである。 
和田政宗議員が「全部読みましたけれども、意図的に日本軍が殺害したとの明確な記述はない状況でありました」と述べているが、その通りである。 
林外相が該当する記述はあると答弁したので、あらためて4月24日、和田議員はどの文言かを質問した。
外相は、「注 南京事件について」の初めにある「遺憾ながら同攻略戦において略奪、婦女暴行、放火などの事犯がひん発した」と、最後に記述されている「たとえ少数であったとしても無辜の住民が殺傷され、捕虜の処遇に適切さを欠いたことは遺憾である」をつなげ、該当記述とした。
前の記述に非戦闘員の殺害はない。
前と後は別の文脈である。 
後の記述は「南京附近の死体は戦闘行為の結果によるものが大部であり」の補足説明であり、無辜の住民が殺傷されたことは戦闘でよくある巻き添えのことを言っている。
肝心の非戦闘員の殺害についての記述はない。
この稿続く


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