文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

戦後の、60年安保前までは、まだ新聞は正しく機能していた…日本の休日は家の前に必ず日の丸を掲げていました。

2024年06月18日 11時00分52秒 | 全般

以下は前章の続きである
「アメリカのポチ」から「マルキシズム」へ
高山 
ここで補足しておきたいのは、戦後の、60年安保前までは、まだ新聞は正しく機能していたということです。
今日のような偏りもなかった。
例えば、「国旗」云々の話もなくて、そのおかげで日本の休日は家の前に必ず日の丸を掲げていました。
川口 
それは、確かにそうかもしれません。
私の記憶では、NHKも昔は「国旗」と「君が代」で一日の放送を終えていました。
高山 
60年安保までは”まとも”だったというのは、朝日新聞を例に挙げると、そのころの論説主幹は先に挙げた笠信太郎でした。
笠信太郎いうのは、戦時中に駐ドイツ特派員でそこから逃げ出すようなかたちでスイスに行くのですが、そこにOSSのスイス支局を指導していたアレン・ダレスと知り合ってその協力者となった。それからアメリカの対日政策の窓口として朝日新聞が位置づけられました。
川口 
いまはもうGHQはないけれど、朝日新聞はいまだに「GHQ精神」を踏襲している?
高山 
ある意味、そうとも言えるでしょう。
戦前、20世紀前半のアメリカにとっての問題は、「日本が台頭して、日本が中国を組み込み、中国の4億の民をリードするのでは」という恐怖でした。
それでアメリカは清華大学をつくり、留学生を呼びよせ、日中分断を図ります。
日中分断が最後までアメリカの政策だったわけです。
戦後になると中国が強くなった。
そうなったら日中がまた手を組めば厄介になる。
だから離間させる政策をする。
日本もひとつにまとまらないようにする。

川口 
そもそも、蔣介石を追放して、共産党政権をつくったのもやはりアメリカの意思が介在していますね。
高山 
そうして日本で60年安保が起きますが、その前年に笠信太郎は『朝日ジャーナル』を創刊します。
日本を分断して混乱させるためです。
そこでの言論に煽られた安保闘争により60年6月15日に国会議事堂南門から学生が突入し、東大生だった樺美智子が死にました。
そうしたらもう今度は樺の追悼で、恐らく数十万集まるという予測が立ちました。
いわゆる「革命的状況」さえ出現する恐れが生じたわけです。 
そのときに笠信太郎の指揮で、在京各社を集めて暴カデモの一切禁止を、共同社説を打って広く伝えました。
デモ隊に新聞が背中を向けたわけです。
これが在京7社の共同社説です。
まだダレスは健在でしたね。
ダレスが笠を通して、誰も日本の赤化を望んでないと伝えたのです。
日本の弱体化は望んでいるが、それで赤化することは望んでいないのです。 
その直前には、ニクソンが副大統領で来て、「日本の戦後憲法は間違っていたのだからあれは破棄してください]と副大統領として言っている。
川口 
えっ、そうですか!
高山 
ところが、新聞がスルーしてしまったのですね。
笠信太郎の構築したアメリカのポチとしての朝日新聞という関係はだんだん弱体化していきます。
この前、永栄潔という朝日新聞の元記者と一杯やった。
そのときの話では、もうアメリカの統制下で日本を混乱させようというルートも途絶えてしまったようです。
川口 
そして、コントロールされない「マルキシズム」だけが生き残ってしまったわけですね。
高山
もはや目的のあるプロパガンダではなくなった。

要するに、笠信太郎というキーマンを欠いたあと、アメリカの意図を伝える者もいなくなったということでしょう。  
アメリカのポチ時代のほうがまだマシだったというなさけない話ですが。  
川口 
60年安保までがひとつの時期で、でも70年安保の後も大事件が続きました。
田中角栄の「ロッキード事件」。
これもアメリカの書いたシナリオだと思いますが、日本の最高裁も何も意のままで、新聞もまったく機能してない状況でした。   
そこに、1971年から本多勝一氏の「中国の旅」の連載が始まって、国民は南京大虐殺という”日本軍の残虐行為”に目覚めさせられ、それから、「北朝鮮は世界の楽園」だとか、慰安婦報道だとか、朝日新聞の暴走が止まらなくなる。  
高山 
そして、とうとう「嘘でどこが悪いのか!」みたいに開き直っていきます。
見え透いた嘘を平気でしゃべるその様子は、もう「歯止めのきかない朝日」という感じですね。
この稿続く。


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