文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

中国人にとって脅威は何をしでかすかわからない中国兵だったのです。

2022年08月11日 10時37分37秒 | 全般
以下は2018/7/2に発信した章である。
2018/6/30に発売された月刊誌正論からである。
アナウンサー鈴木史朗が語る
南京大虐殺のウソと引き揚げの思い出
無実の父は、中国に捕らえられた…と題されたこの論文は日本と世界中の人たちが必読の論文である。
この論文には、どこにも嘘がない事…嘘をついているのは中国や朝鮮半島である事と、彼らの代理人ような役割を果たして来た朝日新聞などやNHKなどのメディアと、これに同調して来た政治屋たちや、いわゆる人権派弁護士、日弁連の要職経験者の多くがそうである事の悲惨さ、いわゆる文化人たち、彼等と同様の…世界の、いわゆる知識人たちやジャーナリスト達…である事を世界中の人たちが知るべき時はとうに来ているのである。
私は鈴木史朗さんの、この論文を読んでいて、何度も落涙を禁じえなかった。
南京を訪れた経験  
私は昭和13年、南京攻略戦があった直後に生まれました。
父が日中貿易会社を天津に設立、北京でも会社を営み、日本軍に軍事物資や援助物資などを届ける仕事をしておりました。
私はまもなく母とともに中国大陸に渡り、5歳の時に、父に連れられて南京を訪ねたことがあります。
父の取り引き先か、援助物資を受けたのか、細かなことは定かではありませんが、ご縁のあった南京の素封家に招かれたのです。 
5歳の出来事でしたが、街の中心部に中華門と書かれたトンネルのような長い門があったことは明確に覚えています。
暗くて長いトンネルを歩いて抜けると、露店がいっぱい並んでいました。
子供心に「珍しいものばかり売っているなあ」と胸躍る思いだったことを鮮明に記憶しています。 
街は平穏そのものでした。
平和で賑わいある街でした。
街を歩いていて中国人から襲われるかもしれないから気をつけなさい、などといわれたことなどありません。
「虐殺」が仮に行われていたのであれば、断片的にもそうした話を耳にするでしょうが、そんなことなど一度もありません。
「虐殺」なんて意識したことすらありませんでした。
だから「爪痕」なんて考えもしなければ、ありもしなかった。 
私が招かれた素封家には媽太太(マータイタイ)と呼ばれていた中国人の奥様がいました。
体格もしっかりして皆に慕われ、威張ってもいる、日本でいえば肝っ玉母さんのような存在です。
その媽太太が随分、私たちを歓迎してくれました。
私を抱きかかえながら、おんぶまでしてくれて私の耳を「福耳だ」といって褒めてくれました。
媽太太の耳には翡翠の飾り物があって私をあやすたびにちゃらちゃらと音がする。
ほおずりまでしてくれました。 
とにかく現地の中国人の対日感情はとても良かったんです。
それは日本兵の評判がとても良かったからです。 
日本兵は戦えば確かに強かった。
それは私たちの世代には昔の大和魂がたたき込まれているからでしょう。
ともかくやる。
自分が死ぬことを恐れてはいかん。
日本のために死ぬことは名誉だ、という意識が徹底されていました。でも勇敢ではあっても野蛮ではないんです。
当時5歳だった私は当時から「自分もいずれは兵士になって出征して完全に玉砕したい」と願っていました。
それが小さいころからの夢で、幼年学校に入りたいと思っていました。
父はそんな私に「史朗、兵隊は強いことは大切だけれども、優しく思いやりがなければいけない」と繰り返していました。
今でも心のどこかにそういう思いが宿っているように思います。 日本兵が南京を攻略すると、むしろ逃げていた中国人がどんどん戻ってきていました。
なかには自分で日の丸の腕章を作って、戻ってきたものもいたそうです。
全然日本兵を怖がったりもしません。
むしろ、これで安心できるという安堵の表情だったそうです。
そういう感覚は北京と天津にいても同じでした。
日本兵は中国兵と違ってどこに行っても現地の人に歓迎されたんです。 
日本兵は規律正しさにおいても庶民に対する態度にしても中国兵とはもう雲泥の差でした。
女性へのレイプなどありません。
衛生兵が病気の人を手当してくれたり、物も絶対に奪わない。
物をもらうときには必ず軍票を渡して「あとでお金に換えることができるから」と言う。
こうした光景が中国人にとっては信じられなかったんです。
というのも中国兵は略奪もレイプも散々でしたから現地の中国人から嫌われていたんです。 
特に酷かったのは、敗走するときに中国兵は途中の村を襲って物は盗る、火を放つ、レイプもするで、中には死んだ日本兵の軍服、軍帽をかぶってやる者もいました。
これは戦後、従軍された日本の兵隊さんから直接聞いた話ですが、日本の兵隊は怒っていました。 
黄河の堤防を蒋介石が決壊させて100万人が亡くなった、という大事件もありました。
昭和13年の6月の出来事です。
日本軍は進軍を中止し、救出に当たりました。
あふれた水のなかに向こうの伝馬船を浮かべ日本兵が災害を受けた方を救っている写真をみました。
まさに今で言えばPKO活動です。
ところが、被災者600万人という大惨事を起こしたうえに蒋介石は日本軍がやった、と大宣伝したんですね。
さすがに世界は信用しませんでしたし、現地では中国人も実際に日本兵を見ていますから、わかっているんです。
中国人にとって脅威は何をしでかすかわからない中国兵だったのです。
この稿続く。





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