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文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

the first chapter of Mr. Nobuyuki Kaji's work 'The Lives of the hypocrites in the mass media'

2018年09月14日 13時12分53秒 | 日記

The following is from the first chapter of Mr. Nobuyuki Kaji's work 'The Lives of the hypocrites in the mass media'.

I am emphasizing the sentence except the headline.

‘Way to War’ - The commonplace emotional argument

In the year 2015, the opposition argument of Asahi Shimbun, Mainichi newspaper, etc., which called security bill as war bill, was madness itself.

It is like making an opposition paper for the 60 years security (1960), which I saw only with this eye a long time ago.

Therefore, elderly person has Deja vu ‘This road is a way someday’.

However, oppositionists such as Asahi Newspaper, Mainichi Newspaper, etc. singing in a completely different meaning ‘This way is someday’.

That <path> is a delusion of ‘the way to war’, and there is no substance.

So, to make the atmosphere diffuse, let the various fools say emotional <this road opposition>.

For example, writer Setouchi Jakucho.

During the sermon as monk, 'If you pass the bill, you have war this time. ...... I never have the feeling that the Japan being bad', she said. Mainichi Newspaper July 20.

Tsutsumi Mika, also a female journalist, says:

In a disparate society, there are many volunteers, even if they are not drafted.

It responds to get out of poverty because it responds, so to speak, it becomes an economic conscription system (dated July 23, the same paper).

Many of good-natured readers will be upset if this kind of emotion theory is read every day.

Of course, it is intentional editing aimed at it.

However, such emotional theory of left-handed journalism is wrong.

Because they do not know the meaning of contemporary nations and people, or their relationships at all.

For example, recently there are people who are prizing the words of constitutionalism and their words, ‘content and expressions that citizens tied up so as not to make arbitrary things to the nation (including government officials) are constitutional’ Although it is called, it is only an idea starting with the French Revolution.

The state is not a religion (e.g. Catholic in the case of Western Europe) or a royal aristocracy, but the state which has view, the state is national one is a near-modern state, each constituting a constitution suitable for his country Based on that, they are doing national management for each.

Of course, the citizens themselves should comply with their own constitution.

Then, since the state belongs to the citizens, the state is to be operated and protected by the people themselves.

In other words, since it is a national state, the draft system as a defense of your country is the principle.

In the pre-modern royal aristocracy, it was a recruitment as a tax, or a volunteer for life.

Even if it is called ‘conscription’, it is decisively different from that of the royal aristocracy and the nation state.

Do not know about it (or hide it), Setouchi a certain and Tsutsumi a certain boasts emotional theory.

Speaking of emotion theory, Hama Noriko of Doshisha University graduate school professor is also so.

Just denying the passage of the House of Representatives of the security related bill by using five sheets of four hundred words of manuscript paper, there is no argument (as of July 18).

For example, ‘The ruling party members who capped their mouths stand up with a complimentary expression with a stinky gaze.’

But on a narrow television screen, and in that short scene, do you know the details of everyone's mouth and eyes so much?

Great delusion.

Suddenly, there is a photo of Hama a certain face with the same draft.

What a mouth turned down at the corners. excellent, it is a good example.

It is common for third-rate researchers to advertise that they do not touch the fundamental important things (no, do not know), and that they have investigated just a little.

For example, Kazu Nagai (Kyoto University Professor, currently Professor, Kyoto Tachibana University, Major is History Studies <Japan Modern History>).

It makes a noise that he discovered the document that the former Japanese army was involved in establishing and managing comfort stations (Asahi Shimbun July 2).

However, the greatest problem of the so-called comfort women problem is the presence or absence of compulsory entrainment.

It is a top scholar only when proof that the military dared to forcibly bring comfort women in the days when the prostitution system existed.

It has not been done.

People who do not understand the core of the problem and just reading or playing words do not realize that they have lost something important during that time.


問題の核心が分らず、ただ読書やことば遊びをしている連中は、その間に大切なものを見失っていることに気がつかないでいる。

2018年09月14日 11時53分35秒 | 日記

以下は加地伸行氏の著作「マスコミ偽善者列伝」の第一章からである。

見出し以外の文中強調は私。

「戦争への道」―ありがちな感情論

平成272015)年、安保関連法案を戦争法案と称しての、朝日・毎日らの反対論は狂気そのものであった。

その昔、この眼でしかと見た、60年安保(昭和35年)の際の反対論紙面作りと似ている。 

そのため、老生には「この道は、いつか来た道」という既視感がある。ところが、朝・毎ら反対論者は、まったく違う意味で「この道は、いつか来た道」と歌う。 

その〈道〉とは、「戦争への道」という妄想であり、実体はない。

そこで、その雰囲気を漂わすため、さまざまな愚者に情緒的なくこの道反対〉を言わせる。

例えば、作家の瀬戸内寂聴。

僧侶としての法話中、「法案を通したら今度は戦争。……こんなに悪い日本(と感じたこと)は93年生きてきてなかった」と言ったと(毎日新聞七月二十日付)。 

同じく女性ジャーナリストの堤未果は、こう述べる。

格差社会では、徴兵制にしなくとも、志願兵はいくらでもいる。

貧困から抜け出すために応じるからで、いわば経済的徴兵制になる、と(同紙夕刊七月二十三日付)。

この種の感情論を、それこそ毎日読まされると、人の好い読者の多くは動揺することとなるだろう。

もちろん、それを狙った意図的編集である。

しかし、左筋ジャーナリズムのこうした感情論は誤まっている。

なぜなら、現代の国家や国民の意味、またその両者の関係が全く分っていないからだ。

例えば、近ごろ、立憲主義とやらのことばを有り難がっている連中がおり、「国民が国家(公務員等を含め)に勝手なことをさせないように縛りを掛けた内容や表現が憲法だ」などと称しているが、それはフランス革命に始まる一つの考えかたにすぎない。 

国家とは、宗教(西欧なら例えばカトリック)や王侯貴族のものではなくて、国民のものであるという〈国民国家〉観を持っている国家が近・現代国家なのであり、それぞれ自国にふさわしい憲法を作り、それに冓づいてそれぞれなりに国家運営をしている。

当然、国民自身が自国の憲法を遵守すべきなのである。 

すると、国家は国民のものであるから、国家は、同国民自身が運営し守らなければならないことになる。

すなわち、国民国家である以上、自国の防衛として徴兵制、が原則である。

前近代の王侯貴族国家のときは、税としての徴兵、あるいは生活のための志願兵であった。

〈徴兵〉と言っても、王侯貴族国家のそれと国民国家のそれとは決定的に異なる。

そのことを知らず(いや、隠してか)、瀬戸内某・堤某らは、感情論を沸かしている。

感情論と言えば、同志社大学大学院教授の浜矩子もそうだ。

4百字詰原稿用紙で5枚分も使って、安保関連法案の衆院通過をただ否定するだけであって、何の論証もない(同紙7月18日付)。

例えば「口をへの字にかみ締めた与党議員たちが、うつろなまなざしとともに賛意表明で起立する」と。

しかし、狭いテレビ画面上の、しかもあの短いシーンで全員の口や目までそんなに細かく分るのですか。

大妄想。

ふと見ると、同稿とともに浜某の顔写真がある。

なんと口をへの字。お美事、良きお手本じゃのう。 

根源的な重要なことには触れず(いや、分らずか)、チョコッと調べたことを得々と吹聴するのは、三流の研究者によくある。

例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)。

旧日本軍が慰安所の設置管理に関与していた文書を発見したと騒ぐ(朝日新聞七月二日付)。

しかし、いわゆる慰安婦問題の最大問題点は、強制連行の有無である。

公娼制が存在していた時代に、軍、がどのようにあえて慰安婦を強制連行したのかという点を立証してこそ、一流の学者なのである。

それができていない。

問題の核心が分らず、ただ読書やことば遊びをしている連中は、その間に大切なものを見失っていることに気がつかないでいる。

羊飼い二人(臧(ぞう)・穀(こく))の羊が行方不明になった。

その件について、古人曰く、臧(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち筴(ふだ)(木・竹簡仕立の本)を〔指に〕挟みて読書しをれば〔知らぬ〕なり、と。

穀(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞(すごろく)〔を〕以て(使って)遊びをれば〔知らぬ〕なり、と。

〔臧・穀二人の羊飼いの羊が行方不明となったとき〕臧にいかなる事ぞと問へば、則ち筴を〔指で〕挟みて読書しをればなり、と。

穀にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞以て遊びをればなり、と。                   『荘子』駢拇(へんぼ)


公娼制が存在していた時代に、軍、がどのようにあえて慰安婦を強制連行したのかという点を立証してこそ、一流の学者なのである。

2018年09月14日 11時51分14秒 | 日記

以下は加地伸行氏の著作「マスコミ偽善者列伝」の第一章からである。

見出し以外の文中強調は私。

「戦争への道」―ありがちな感情論

平成272015)年、安保関連法案を戦争法案と称しての、朝日・毎日らの反対論は狂気そのものであった。

その昔、この眼でしかと見た、60年安保(昭和35年)の際の反対論紙面作りと似ている。 

そのため、老生には「この道は、いつか来た道」という既視感がある。ところが、朝・毎ら反対論者は、まったく違う意味で「この道は、いつか来た道」と歌う。 

その〈道〉とは、「戦争への道」という妄想であり、実体はない。

そこで、その雰囲気を漂わすため、さまざまな愚者に情緒的なくこの道反対〉を言わせる。

例えば、作家の瀬戸内寂聴。

僧侶としての法話中、「法案を通したら今度は戦争。……こんなに悪い日本(と感じたこと)は93年生きてきてなかった」と言ったと(毎日新聞七月二十日付)。 

同じく女性ジャーナリストの堤未果は、こう述べる。

格差社会では、徴兵制にしなくとも、志願兵はいくらでもいる。

貧困から抜け出すために応じるからで、いわば経済的徴兵制になる、と(同紙夕刊七月二十三日付)。

この種の感情論を、それこそ毎日読まされると、人の好い読者の多くは動揺することとなるだろう。

もちろん、それを狙った意図的編集である。

しかし、左筋ジャーナリズムのこうした感情論は誤まっている。

なぜなら、現代の国家や国民の意味、またその両者の関係が全く分っていないからだ。

例えば、近ごろ、立憲主義とやらのことばを有り難がっている連中がおり、「国民が国家(公務員等を含め)に勝手なことをさせないように縛りを掛けた内容や表現が憲法だ」などと称しているが、それはフランス革命に始まる一つの考えかたにすぎない。 

国家とは、宗教(西欧なら例えばカトリック)や王侯貴族のものではなくて、国民のものであるという〈国民国家〉観を持っている国家が近・現代国家なのであり、それぞれ自国にふさわしい憲法を作り、それに冓づいてそれぞれなりに国家運営をしている。

当然、国民自身が自国の憲法を遵守すべきなのである。 

すると、国家は国民のものであるから、国家は、同国民自身が運営し守らなければならないことになる。

すなわち、国民国家である以上、自国の防衛として徴兵制、が原則である。

前近代の王侯貴族国家のときは、税としての徴兵、あるいは生活のための志願兵であった。

〈徴兵〉と言っても、王侯貴族国家のそれと国民国家のそれとは決定的に異なる。

そのことを知らず(いや、隠してか)、瀬戸内某・堤某らは、感情論を沸かしている。

感情論と言えば、同志社大学大学院教授の浜矩子もそうだ。

4百字詰原稿用紙で5枚分も使って、安保関連法案の衆院通過をただ否定するだけであって、何の論証もない(同紙7月18日付)。

例えば「口をへの字にかみ締めた与党議員たちが、うつろなまなざしとともに賛意表明で起立する」と。

しかし、狭いテレビ画面上の、しかもあの短いシーンで全員の口や目までそんなに細かく分るのですか。

大妄想。

ふと見ると、同稿とともに浜某の顔写真がある。

なんと口をへの字。お美事、良きお手本じゃのう。 

根源的な重要なことには触れず(いや、分らずか)、チョコッと調べたことを得々と吹聴するのは、三流の研究者によくある。

例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)。

旧日本軍が慰安所の設置管理に関与していた文書を発見したと騒ぐ(朝日新聞七月二日付)。

しかし、いわゆる慰安婦問題の最大問題点は、強制連行の有無である。

公娼制が存在していた時代に、軍、がどのようにあえて慰安婦を強制連行したのかという点を立証してこそ、一流の学者なのである。

それができていない。

問題の核心が分らず、ただ読書やことば遊びをしている連中は、その間に大切なものを見失っていることに気がつかないでいる。

羊飼い二人(臧(ぞう)・穀(こく))の羊が行方不明になった。

その件について、古人曰く、臧(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち筴(ふだ)(木・竹簡仕立の本)を〔指に〕挟みて読書しをれば〔知らぬ〕なり、と。

穀(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞(すごろく)〔を〕以て(使って)遊びをれば〔知らぬ〕なり、と。

〔臧・穀二人の羊飼いの羊が行方不明となったとき〕臧にいかなる事ぞと問へば、則ち筴を〔指で〕挟みて読書しをればなり、と。

穀にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞以て遊びをればなり、と。                   『荘子』駢拇(へんぼ)


しかし、いわゆる慰安婦問題の最大問題点は、強制連行の有無である。

2018年09月14日 11時49分54秒 | 日記

以下は加地伸行氏の著作「マスコミ偽善者列伝」の第一章からである。

見出し以外の文中強調は私。

「戦争への道」―ありがちな感情論

平成272015)年、安保関連法案を戦争法案と称しての、朝日・毎日らの反対論は狂気そのものであった。

その昔、この眼でしかと見た、60年安保(昭和35年)の際の反対論紙面作りと似ている。 

そのため、老生には「この道は、いつか来た道」という既視感がある。ところが、朝・毎ら反対論者は、まったく違う意味で「この道は、いつか来た道」と歌う。 

その〈道〉とは、「戦争への道」という妄想であり、実体はない。

そこで、その雰囲気を漂わすため、さまざまな愚者に情緒的なくこの道反対〉を言わせる。

例えば、作家の瀬戸内寂聴。

僧侶としての法話中、「法案を通したら今度は戦争。……こんなに悪い日本(と感じたこと)は93年生きてきてなかった」と言ったと(毎日新聞七月二十日付)。 

同じく女性ジャーナリストの堤未果は、こう述べる。

格差社会では、徴兵制にしなくとも、志願兵はいくらでもいる。

貧困から抜け出すために応じるからで、いわば経済的徴兵制になる、と(同紙夕刊七月二十三日付)。

この種の感情論を、それこそ毎日読まされると、人の好い読者の多くは動揺することとなるだろう。

もちろん、それを狙った意図的編集である。

しかし、左筋ジャーナリズムのこうした感情論は誤まっている。

なぜなら、現代の国家や国民の意味、またその両者の関係が全く分っていないからだ。

例えば、近ごろ、立憲主義とやらのことばを有り難がっている連中がおり、「国民が国家(公務員等を含め)に勝手なことをさせないように縛りを掛けた内容や表現が憲法だ」などと称しているが、それはフランス革命に始まる一つの考えかたにすぎない。 

国家とは、宗教(西欧なら例えばカトリック)や王侯貴族のものではなくて、国民のものであるという〈国民国家〉観を持っている国家が近・現代国家なのであり、それぞれ自国にふさわしい憲法を作り、それに冓づいてそれぞれなりに国家運営をしている。

当然、国民自身が自国の憲法を遵守すべきなのである。 

すると、国家は国民のものであるから、国家は、同国民自身が運営し守らなければならないことになる。

すなわち、国民国家である以上、自国の防衛として徴兵制、が原則である。

前近代の王侯貴族国家のときは、税としての徴兵、あるいは生活のための志願兵であった。

〈徴兵〉と言っても、王侯貴族国家のそれと国民国家のそれとは決定的に異なる。

そのことを知らず(いや、隠してか)、瀬戸内某・堤某らは、感情論を沸かしている。

感情論と言えば、同志社大学大学院教授の浜矩子もそうだ。

4百字詰原稿用紙で5枚分も使って、安保関連法案の衆院通過をただ否定するだけであって、何の論証もない(同紙7月18日付)。

例えば「口をへの字にかみ締めた与党議員たちが、うつろなまなざしとともに賛意表明で起立する」と。

しかし、狭いテレビ画面上の、しかもあの短いシーンで全員の口や目までそんなに細かく分るのですか。

大妄想。

ふと見ると、同稿とともに浜某の顔写真がある。

なんと口をへの字。お美事、良きお手本じゃのう。 

根源的な重要なことには触れず(いや、分らずか)、チョコッと調べたことを得々と吹聴するのは、三流の研究者によくある。

例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)。

旧日本軍が慰安所の設置管理に関与していた文書を発見したと騒ぐ(朝日新聞七月二日付)。

しかし、いわゆる慰安婦問題の最大問題点は、強制連行の有無である。

公娼制が存在していた時代に、軍、がどのようにあえて慰安婦を強制連行したのかという点を立証してこそ、一流の学者なのである。

それができていない。

問題の核心が分らず、ただ読書やことば遊びをしている連中は、その間に大切なものを見失っていることに気がつかないでいる。

羊飼い二人(臧(ぞう)・穀(こく))の羊が行方不明になった。

その件について、古人曰く、臧(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち筴(ふだ)(木・竹簡仕立の本)を〔指に〕挟みて読書しをれば〔知らぬ〕なり、と。

穀(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞(すごろく)〔を〕以て(使って)遊びをれば〔知らぬ〕なり、と。

〔臧・穀二人の羊飼いの羊が行方不明となったとき〕臧にいかなる事ぞと問へば、則ち筴を〔指で〕挟みて読書しをればなり、と。

穀にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞以て遊びをればなり、と。                   『荘子』駢拇(へんぼ)


旧日本軍が慰安所の設置管理に関与していた文書を発見したと騒ぐ(朝日新聞七月二日付)。

2018年09月14日 11時48分52秒 | 日記

以下は加地伸行氏の著作「マスコミ偽善者列伝」の第一章からである。

見出し以外の文中強調は私。

「戦争への道」―ありがちな感情論

平成272015)年、安保関連法案を戦争法案と称しての、朝日・毎日らの反対論は狂気そのものであった。

その昔、この眼でしかと見た、60年安保(昭和35年)の際の反対論紙面作りと似ている。 

そのため、老生には「この道は、いつか来た道」という既視感がある。ところが、朝・毎ら反対論者は、まったく違う意味で「この道は、いつか来た道」と歌う。 

その〈道〉とは、「戦争への道」という妄想であり、実体はない。

そこで、その雰囲気を漂わすため、さまざまな愚者に情緒的なくこの道反対〉を言わせる。

例えば、作家の瀬戸内寂聴。

僧侶としての法話中、「法案を通したら今度は戦争。……こんなに悪い日本(と感じたこと)は93年生きてきてなかった」と言ったと(毎日新聞七月二十日付)。 

同じく女性ジャーナリストの堤未果は、こう述べる。

格差社会では、徴兵制にしなくとも、志願兵はいくらでもいる。

貧困から抜け出すために応じるからで、いわば経済的徴兵制になる、と(同紙夕刊七月二十三日付)。

この種の感情論を、それこそ毎日読まされると、人の好い読者の多くは動揺することとなるだろう。

もちろん、それを狙った意図的編集である。

しかし、左筋ジャーナリズムのこうした感情論は誤まっている。

なぜなら、現代の国家や国民の意味、またその両者の関係が全く分っていないからだ。

例えば、近ごろ、立憲主義とやらのことばを有り難がっている連中がおり、「国民が国家(公務員等を含め)に勝手なことをさせないように縛りを掛けた内容や表現が憲法だ」などと称しているが、それはフランス革命に始まる一つの考えかたにすぎない。 

国家とは、宗教(西欧なら例えばカトリック)や王侯貴族のものではなくて、国民のものであるという〈国民国家〉観を持っている国家が近・現代国家なのであり、それぞれ自国にふさわしい憲法を作り、それに冓づいてそれぞれなりに国家運営をしている。

当然、国民自身が自国の憲法を遵守すべきなのである。 

すると、国家は国民のものであるから、国家は、同国民自身が運営し守らなければならないことになる。

すなわち、国民国家である以上、自国の防衛として徴兵制、が原則である。

前近代の王侯貴族国家のときは、税としての徴兵、あるいは生活のための志願兵であった。

〈徴兵〉と言っても、王侯貴族国家のそれと国民国家のそれとは決定的に異なる。

そのことを知らず(いや、隠してか)、瀬戸内某・堤某らは、感情論を沸かしている。

感情論と言えば、同志社大学大学院教授の浜矩子もそうだ。

4百字詰原稿用紙で5枚分も使って、安保関連法案の衆院通過をただ否定するだけであって、何の論証もない(同紙7月18日付)。

例えば「口をへの字にかみ締めた与党議員たちが、うつろなまなざしとともに賛意表明で起立する」と。

しかし、狭いテレビ画面上の、しかもあの短いシーンで全員の口や目までそんなに細かく分るのですか。

大妄想。

ふと見ると、同稿とともに浜某の顔写真がある。

なんと口をへの字。お美事、良きお手本じゃのう。 

根源的な重要なことには触れず(いや、分らずか)、チョコッと調べたことを得々と吹聴するのは、三流の研究者によくある。

例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)。

旧日本軍が慰安所の設置管理に関与していた文書を発見したと騒ぐ(朝日新聞七月二日付)。

しかし、いわゆる慰安婦問題の最大問題点は、強制連行の有無である。公娼制が存在していた時代に、軍、がどのようにあえて慰安婦を強制連行したのかという点を立証してこそ、一流の学者なのである。

それができていない。

問題の核心が分らず、ただ読書やことば遊びをしている連中は、その間に大切なものを見失っていることに気がつかないでいる。

羊飼い二人(臧(ぞう)・穀(こく))の羊が行方不明になった。

その件について、古人曰く、臧(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち筴(ふだ)(木・竹簡仕立の本)を〔指に〕挟みて読書しをれば〔知らぬ〕なり、と。

穀(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞(すごろく)〔を〕以て(使って)遊びをれば〔知らぬ〕なり、と。

〔臧・穀二人の羊飼いの羊が行方不明となったとき〕臧にいかなる事ぞと問へば、則ち筴を〔指で〕挟みて読書しをればなり、と。

穀にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞以て遊びをればなり、と。                   『荘子』駢拇(へんぼ)


例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)

2018年09月14日 11時47分34秒 | 日記

以下は加地伸行氏の著作「マスコミ偽善者列伝」の第一章からである。

見出し以外の文中強調は私。

「戦争への道」―ありがちな感情論

平成272015)年、安保関連法案を戦争法案と称しての、朝日・毎日らの反対論は狂気そのものであった。

その昔、この眼でしかと見た、60年安保(昭和35年)の際の反対論紙面作りと似ている。 

そのため、老生には「この道は、いつか来た道」という既視感がある。ところが、朝・毎ら反対論者は、まったく違う意味で「この道は、いつか来た道」と歌う。 

その〈道〉とは、「戦争への道」という妄想であり、実体はない。

そこで、その雰囲気を漂わすため、さまざまな愚者に情緒的なくこの道反対〉を言わせる。

例えば、作家の瀬戸内寂聴。

僧侶としての法話中、「法案を通したら今度は戦争。……こんなに悪い日本(と感じたこと)は93年生きてきてなかった」と言ったと(毎日新聞七月二十日付)。 

同じく女性ジャーナリストの堤未果は、こう述べる。

格差社会では、徴兵制にしなくとも、志願兵はいくらでもいる。

貧困から抜け出すために応じるからで、いわば経済的徴兵制になる、と(同紙夕刊七月二十三日付)。

この種の感情論を、それこそ毎日読まされると、人の好い読者の多くは動揺することとなるだろう。

もちろん、それを狙った意図的編集である。

しかし、左筋ジャーナリズムのこうした感情論は誤まっている。

なぜなら、現代の国家や国民の意味、またその両者の関係が全く分っていないからだ。

例えば、近ごろ、立憲主義とやらのことばを有り難がっている連中がおり、「国民が国家(公務員等を含め)に勝手なことをさせないように縛りを掛けた内容や表現が憲法だ」などと称しているが、それはフランス革命に始まる一つの考えかたにすぎない。 

国家とは、宗教(西欧なら例えばカトリック)や王侯貴族のものではなくて、国民のものであるという〈国民国家〉観を持っている国家が近・現代国家なのであり、それぞれ自国にふさわしい憲法を作り、それに冓づいてそれぞれなりに国家運営をしている。

当然、国民自身が自国の憲法を遵守すべきなのである。 

すると、国家は国民のものであるから、国家は、同国民自身が運営し守らなければならないことになる。

すなわち、国民国家である以上、自国の防衛として徴兵制、が原則である。

前近代の王侯貴族国家のときは、税としての徴兵、あるいは生活のための志願兵であった。

〈徴兵〉と言っても、王侯貴族国家のそれと国民国家のそれとは決定的に異なる。

そのことを知らず(いや、隠してか)、瀬戸内某・堤某らは、感情論を沸かしている。

感情論と言えば、同志社大学大学院教授の浜矩子もそうだ。

4百字詰原稿用紙で5枚分も使って、安保関連法案の衆院通過をただ否定するだけであって、何の論証もない(同紙7月18日付)。

例えば「口をへの字にかみ締めた与党議員たちが、うつろなまなざしとともに賛意表明で起立する」と。

しかし、狭いテレビ画面上の、しかもあの短いシーンで全員の口や目までそんなに細かく分るのですか。

大妄想。

ふと見ると、同稿とともに浜某の顔写真がある。

なんと口をへの字。お美事、良きお手本じゃのう。 

根源的な重要なことには触れず(いや、分らずか)、チョコッと調べたことを得々と吹聴するのは、三流の研究者によくある。

例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)。

旧日本軍が慰安所の設置管理に関与していた文書を発見したと騒ぐ(朝日新聞七月二日付)。

しかし、いわゆる慰安婦問題の最大問題点は、強制連行の有無である。公娼制が存在していた時代に、軍、がどのようにあえて慰安婦を強制連行したのかという点を立証してこそ、一流の学者なのである。

それができていない。

問題の核心が分らず、ただ読書やことば遊びをしている連中は、その間に大切なものを見失っていることに気がつかないでいる。

羊飼い二人(臧(ぞう)・穀(こく))の羊が行方不明になった。

その件について、古人曰く、臧(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち筴(ふだ)(木・竹簡仕立の本)を〔指に〕挟みて読書しをれば〔知らぬ〕なり、と。

穀(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞(すごろく)〔を〕以て(使って)遊びをれば〔知らぬ〕なり、と。

〔臧・穀二人の羊飼いの羊が行方不明となったとき〕臧にいかなる事ぞと問へば、則ち筴を〔指で〕挟みて読書しをればなり、と。

穀にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞以て遊びをればなり、と。                   『荘子』駢拇(へんぼ)


根源的な重要なことには触れず(いや、分らずか)、チョコッと調べたことを得々と吹聴するのは、三流の研究者によくある。

2018年09月14日 11時45分51秒 | 日記

以下は加地伸行氏の著作「マスコミ偽善者列伝」の第一章からである。

見出し以外の文中強調は私。

「戦争への道」―ありがちな感情論

平成272015)年、安保関連法案を戦争法案と称しての、朝日・毎日らの反対論は狂気そのものであった。

その昔、この眼でしかと見た、60年安保(昭和35年)の際の反対論紙面作りと似ている。 

そのため、老生には「この道は、いつか来た道」という既視感がある。ところが、朝・毎ら反対論者は、まったく違う意味で「この道は、いつか来た道」と歌う。 

その〈道〉とは、「戦争への道」という妄想であり、実体はない。

そこで、その雰囲気を漂わすため、さまざまな愚者に情緒的なくこの道反対〉を言わせる。

例えば、作家の瀬戸内寂聴。

僧侶としての法話中、「法案を通したら今度は戦争。……こんなに悪い日本(と感じたこと)は93年生きてきてなかった」と言ったと(毎日新聞七月二十日付)。 

同じく女性ジャーナリストの堤未果は、こう述べる。

格差社会では、徴兵制にしなくとも、志願兵はいくらでもいる。

貧困から抜け出すために応じるからで、いわば経済的徴兵制になる、と(同紙夕刊七月二十三日付)。

この種の感情論を、それこそ毎日読まされると、人の好い読者の多くは動揺することとなるだろう。

もちろん、それを狙った意図的編集である。

しかし、左筋ジャーナリズムのこうした感情論は誤まっている。

なぜなら、現代の国家や国民の意味、またその両者の関係が全く分っていないからだ。

例えば、近ごろ、立憲主義とやらのことばを有り難がっている連中がおり、「国民が国家(公務員等を含め)に勝手なことをさせないように縛りを掛けた内容や表現が憲法だ」などと称しているが、それはフランス革命に始まる一つの考えかたにすぎない。 

国家とは、宗教(西欧なら例えばカトリック)や王侯貴族のものではなくて、国民のものであるという〈国民国家〉観を持っている国家が近・現代国家なのであり、それぞれ自国にふさわしい憲法を作り、それに冓づいてそれぞれなりに国家運営をしている。

当然、国民自身が自国の憲法を遵守すべきなのである。 

すると、国家は国民のものであるから、国家は、同国民自身が運営し守らなければならないことになる。

すなわち、国民国家である以上、自国の防衛として徴兵制、が原則である。

前近代の王侯貴族国家のときは、税としての徴兵、あるいは生活のための志願兵であった。

〈徴兵〉と言っても、王侯貴族国家のそれと国民国家のそれとは決定的に異なる。

そのことを知らず(いや、隠してか)、瀬戸内某・堤某らは、感情論を沸かしている。

感情論と言えば、同志社大学大学院教授の浜矩子もそうだ。

4百字詰原稿用紙で5枚分も使って、安保関連法案の衆院通過をただ否定するだけであって、何の論証もない(同紙7月18日付)。

例えば「口をへの字にかみ締めた与党議員たちが、うつろなまなざしとともに賛意表明で起立する」と。

しかし、狭いテレビ画面上の、しかもあの短いシーンで全員の口や目までそんなに細かく分るのですか。

大妄想。

ふと見ると、同稿とともに浜某の顔写真がある。

なんと口をへの字。お美事、良きお手本じゃのう。 

根源的な重要なことには触れず(いや、分らずか)、チョコッと調べたことを得々と吹聴するのは、三流の研究者によくある。

例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)。

旧日本軍が慰安所の設置管理に関与していた文書を発見したと騒ぐ(朝日新聞七月二日付)。

しかし、いわゆる慰安婦問題の最大問題点は、強制連行の有無である。公娼制が存在していた時代に、軍、がどのようにあえて慰安婦を強制連行したのかという点を立証してこそ、一流の学者なのである。

それができていない。

問題の核心が分らず、ただ読書やことば遊びをしている連中は、その間に大切なものを見失っていることに気がつかないでいる。

羊飼い二人(臧(ぞう)・穀(こく))の羊が行方不明になった。

その件について、古人曰く、臧(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち筴(ふだ)(木・竹簡仕立の本)を〔指に〕挟みて読書しをれば〔知らぬ〕なり、と。

穀(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞(すごろく)〔を〕以て(使って)遊びをれば〔知らぬ〕なり、と。

〔臧・穀二人の羊飼いの羊が行方不明となったとき〕臧にいかなる事ぞと問へば、則ち筴を〔指で〕挟みて読書しをればなり、と。

穀にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞以て遊びをればなり、と。                   『荘子』駢拇(へんぼ)


4百字詰原稿用紙で5枚分も使って、安保関連法案の衆院通過をただ否定するだけであって、何の論証もない(同紙7月18日付)

2018年09月14日 11時44分29秒 | 日記

以下は加地伸行氏の著作「マスコミ偽善者列伝」の第一章からである。

見出し以外の文中強調は私。

「戦争への道」―ありがちな感情論

平成272015)年、安保関連法案を戦争法案と称しての、朝日・毎日らの反対論は狂気そのものであった。

その昔、この眼でしかと見た、60年安保(昭和35年)の際の反対論紙面作りと似ている。 

そのため、老生には「この道は、いつか来た道」という既視感がある。ところが、朝・毎ら反対論者は、まったく違う意味で「この道は、いつか来た道」と歌う。 

その〈道〉とは、「戦争への道」という妄想であり、実体はない。

そこで、その雰囲気を漂わすため、さまざまな愚者に情緒的なくこの道反対〉を言わせる。

例えば、作家の瀬戸内寂聴。

僧侶としての法話中、「法案を通したら今度は戦争。……こんなに悪い日本(と感じたこと)は93年生きてきてなかった」と言ったと(毎日新聞七月二十日付)。 

同じく女性ジャーナリストの堤未果は、こう述べる。

格差社会では、徴兵制にしなくとも、志願兵はいくらでもいる。

貧困から抜け出すために応じるからで、いわば経済的徴兵制になる、と(同紙夕刊七月二十三日付)。

この種の感情論を、それこそ毎日読まされると、人の好い読者の多くは動揺することとなるだろう。

もちろん、それを狙った意図的編集である。

しかし、左筋ジャーナリズムのこうした感情論は誤まっている。

なぜなら、現代の国家や国民の意味、またその両者の関係が全く分っていないからだ。

例えば、近ごろ、立憲主義とやらのことばを有り難がっている連中がおり、「国民が国家(公務員等を含め)に勝手なことをさせないように縛りを掛けた内容や表現が憲法だ」などと称しているが、それはフランス革命に始まる一つの考えかたにすぎない。 

国家とは、宗教(西欧なら例えばカトリック)や王侯貴族のものではなくて、国民のものであるという〈国民国家〉観を持っている国家が近・現代国家なのであり、それぞれ自国にふさわしい憲法を作り、それに冓づいてそれぞれなりに国家運営をしている。

当然、国民自身が自国の憲法を遵守すべきなのである。 

すると、国家は国民のものであるから、国家は、同国民自身が運営し守らなければならないことになる。

すなわち、国民国家である以上、自国の防衛として徴兵制、が原則である。

前近代の王侯貴族国家のときは、税としての徴兵、あるいは生活のための志願兵であった。

〈徴兵〉と言っても、王侯貴族国家のそれと国民国家のそれとは決定的に異なる。

そのことを知らず(いや、隠してか)、瀬戸内某・堤某らは、感情論を沸かしている。

感情論と言えば、同志社大学大学院教授の浜矩子もそうだ。

4百字詰原稿用紙で5枚分も使って、安保関連法案の衆院通過をただ否定するだけであって、何の論証もない(同紙7月18日付)。

例えば「口をへの字にかみ締めた与党議員たちが、うつろなまなざしとともに賛意表明で起立する」と。

しかし、狭いテレビ画面上の、しかもあの短いシーンで全員の口や目までそんなに細かく分るのですか。

大妄想。

ふと見ると、同稿とともに浜某の顔写真がある。

なんと口をへの字。お美事、良きお手本じゃのう。 

根源的な重要なことには触れず(いや、分らずか)、チョコッと調べたことを得々と吹聴するのは、三流の研究者によくある。

例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)。

旧日本軍が慰安所の設置管理に関与していた文書を発見したと騒ぐ(朝日新聞七月二日付)。

しかし、いわゆる慰安婦問題の最大問題点は、強制連行の有無である。公娼制が存在していた時代に、軍、がどのようにあえて慰安婦を強制連行したのかという点を立証してこそ、一流の学者なのである。

それができていない。

問題の核心が分らず、ただ読書やことば遊びをしている連中は、その間に大切なものを見失っていることに気がつかないでいる。

羊飼い二人(臧(ぞう)・穀(こく))の羊が行方不明になった。

その件について、古人曰く、臧(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち筴(ふだ)(木・竹簡仕立の本)を〔指に〕挟みて読書しをれば〔知らぬ〕なり、と。

穀(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞(すごろく)〔を〕以て(使って)遊びをれば〔知らぬ〕なり、と。

〔臧・穀二人の羊飼いの羊が行方不明となったとき〕臧にいかなる事ぞと問へば、則ち筴を〔指で〕挟みて読書しをればなり、と。

穀にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞以て遊びをればなり、と。                   『荘子』駢拇(へんぼ)


感情論と言えば、同志社大学大学院教授の浜矩子もそうだ。

2018年09月14日 11時43分16秒 | 日記

以下は加地伸行氏の著作「マスコミ偽善者列伝」の第一章からである。

見出し以外の文中強調は私。

「戦争への道」―ありがちな感情論

平成272015)年、安保関連法案を戦争法案と称しての、朝日・毎日らの反対論は狂気そのものであった。

その昔、この眼でしかと見た、60年安保(昭和35年)の際の反対論紙面作りと似ている。 

そのため、老生には「この道は、いつか来た道」という既視感がある。ところが、朝・毎ら反対論者は、まったく違う意味で「この道は、いつか来た道」と歌う。 

その〈道〉とは、「戦争への道」という妄想であり、実体はない。

そこで、その雰囲気を漂わすため、さまざまな愚者に情緒的なくこの道反対〉を言わせる。

例えば、作家の瀬戸内寂聴。

僧侶としての法話中、「法案を通したら今度は戦争。……こんなに悪い日本(と感じたこと)は93年生きてきてなかった」と言ったと(毎日新聞七月二十日付)。 

同じく女性ジャーナリストの堤未果は、こう述べる。

格差社会では、徴兵制にしなくとも、志願兵はいくらでもいる。

貧困から抜け出すために応じるからで、いわば経済的徴兵制になる、と(同紙夕刊七月二十三日付)。

この種の感情論を、それこそ毎日読まされると、人の好い読者の多くは動揺することとなるだろう。

もちろん、それを狙った意図的編集である。

しかし、左筋ジャーナリズムのこうした感情論は誤まっている。

なぜなら、現代の国家や国民の意味、またその両者の関係が全く分っていないからだ。

例えば、近ごろ、立憲主義とやらのことばを有り難がっている連中がおり、「国民が国家(公務員等を含め)に勝手なことをさせないように縛りを掛けた内容や表現が憲法だ」などと称しているが、それはフランス革命に始まる一つの考えかたにすぎない。 

国家とは、宗教(西欧なら例えばカトリック)や王侯貴族のものではなくて、国民のものであるという〈国民国家〉観を持っている国家が近・現代国家なのであり、それぞれ自国にふさわしい憲法を作り、それに冓づいてそれぞれなりに国家運営をしている。

当然、国民自身が自国の憲法を遵守すべきなのである。 

すると、国家は国民のものであるから、国家は、同国民自身が運営し守らなければならないことになる。

すなわち、国民国家である以上、自国の防衛として徴兵制、が原則である。

前近代の王侯貴族国家のときは、税としての徴兵、あるいは生活のための志願兵であった。

〈徴兵〉と言っても、王侯貴族国家のそれと国民国家のそれとは決定的に異なる。

そのことを知らず(いや、隠してか)、瀬戸内某・堤某らは、感情論を沸かしている。

感情論と言えば、同志社大学大学院教授の浜矩子もそうだ。

4百字詰原稿用紙で5枚分も使って、安保関連法案の衆院通過をただ否定するだけであって、何の論証もない(同紙7月18日付)。

例えば「口をへの字にかみ締めた与党議員たちが、うつろなまなざしとともに賛意表明で起立する」と。

しかし、狭いテレビ画面上の、しかもあの短いシーンで全員の口や目までそんなに細かく分るのですか。

大妄想。

ふと見ると、同稿とともに浜某の顔写真がある。

なんと口をへの字。お美事、良きお手本じゃのう。 

根源的な重要なことには触れず(いや、分らずか)、チョコッと調べたことを得々と吹聴するのは、三流の研究者によくある。

例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)。

旧日本軍が慰安所の設置管理に関与していた文書を発見したと騒ぐ(朝日新聞七月二日付)。

しかし、いわゆる慰安婦問題の最大問題点は、強制連行の有無である。公娼制が存在していた時代に、軍、がどのようにあえて慰安婦を強制連行したのかという点を立証してこそ、一流の学者なのである。

それができていない。

問題の核心が分らず、ただ読書やことば遊びをしている連中は、その間に大切なものを見失っていることに気がつかないでいる。

羊飼い二人(臧(ぞう)・穀(こく))の羊が行方不明になった。

その件について、古人曰く、臧(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち筴(ふだ)(木・竹簡仕立の本)を〔指に〕挟みて読書しをれば〔知らぬ〕なり、と。

穀(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞(すごろく)〔を〕以て(使って)遊びをれば〔知らぬ〕なり、と。

〔臧・穀二人の羊飼いの羊が行方不明となったとき〕臧にいかなる事ぞと問へば、則ち筴を〔指で〕挟みて読書しをればなり、と。

穀にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞以て遊びをればなり、と。                   『荘子』駢拇(へんぼ)


そのことを知らず(いや、隠してか)、瀬戸内某・堤某らは、感情論を沸かしている。

2018年09月14日 11時41分50秒 | 日記

以下は加地伸行氏の著作「マスコミ偽善者列伝」の第一章からである。

見出し以外の文中強調は私。

「戦争への道」―ありがちな感情論

平成272015)年、安保関連法案を戦争法案と称しての、朝日・毎日らの反対論は狂気そのものであった。

その昔、この眼でしかと見た、60年安保(昭和35年)の際の反対論紙面作りと似ている。 

そのため、老生には「この道は、いつか来た道」という既視感がある。ところが、朝・毎ら反対論者は、まったく違う意味で「この道は、いつか来た道」と歌う。 

その〈道〉とは、「戦争への道」という妄想であり、実体はない。

そこで、その雰囲気を漂わすため、さまざまな愚者に情緒的なくこの道反対〉を言わせる。

例えば、作家の瀬戸内寂聴。

僧侶としての法話中、「法案を通したら今度は戦争。……こんなに悪い日本(と感じたこと)は93年生きてきてなかった」と言ったと(毎日新聞七月二十日付)。 

同じく女性ジャーナリストの堤未果は、こう述べる。

格差社会では、徴兵制にしなくとも、志願兵はいくらでもいる。

貧困から抜け出すために応じるからで、いわば経済的徴兵制になる、と(同紙夕刊七月二十三日付)。

この種の感情論を、それこそ毎日読まされると、人の好い読者の多くは動揺することとなるだろう。

もちろん、それを狙った意図的編集である。

しかし、左筋ジャーナリズムのこうした感情論は誤まっている。

なぜなら、現代の国家や国民の意味、またその両者の関係が全く分っていないからだ。

例えば、近ごろ、立憲主義とやらのことばを有り難がっている連中がおり、「国民が国家(公務員等を含め)に勝手なことをさせないように縛りを掛けた内容や表現が憲法だ」などと称しているが、それはフランス革命に始まる一つの考えかたにすぎない。 

国家とは、宗教(西欧なら例えばカトリック)や王侯貴族のものではなくて、国民のものであるという〈国民国家〉観を持っている国家が近・現代国家なのであり、それぞれ自国にふさわしい憲法を作り、それに冓づいてそれぞれなりに国家運営をしている。

当然、国民自身が自国の憲法を遵守すべきなのである。 

すると、国家は国民のものであるから、国家は、同国民自身が運営し守らなければならないことになる。

すなわち、国民国家である以上、自国の防衛として徴兵制、が原則である。

前近代の王侯貴族国家のときは、税としての徴兵、あるいは生活のための志願兵であった。

〈徴兵〉と言っても、王侯貴族国家のそれと国民国家のそれとは決定的に異なる。

そのことを知らず(いや、隠してか)、瀬戸内某・堤某らは、感情論を沸かしている。

感情論と言えば、同志社大学大学院教授の浜矩子もそうだ。

4百字詰原稿用紙で5枚分も使って、安保関連法案の衆院通過をただ否定するだけであって、何の論証もない(同紙7月18日付)。

例えば「口をへの字にかみ締めた与党議員たちが、うつろなまなざしとともに賛意表明で起立する」と。

しかし、狭いテレビ画面上の、しかもあの短いシーンで全員の口や目までそんなに細かく分るのですか。

大妄想。

ふと見ると、同稿とともに浜某の顔写真がある。

なんと口をへの字。お美事、良きお手本じゃのう。 

根源的な重要なことには触れず(いや、分らずか)、チョコッと調べたことを得々と吹聴するのは、三流の研究者によくある。

例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)。

旧日本軍が慰安所の設置管理に関与していた文書を発見したと騒ぐ(朝日新聞七月二日付)。

しかし、いわゆる慰安婦問題の最大問題点は、強制連行の有無である。公娼制が存在していた時代に、軍、がどのようにあえて慰安婦を強制連行したのかという点を立証してこそ、一流の学者なのである。

それができていない。

問題の核心が分らず、ただ読書やことば遊びをしている連中は、その間に大切なものを見失っていることに気がつかないでいる。

羊飼い二人(臧(ぞう)・穀(こく))の羊が行方不明になった。

その件について、古人曰く、臧(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち筴(ふだ)(木・竹簡仕立の本)を〔指に〕挟みて読書しをれば〔知らぬ〕なり、と。

穀(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞(すごろく)〔を〕以て(使って)遊びをれば〔知らぬ〕なり、と。

〔臧・穀二人の羊飼いの羊が行方不明となったとき〕臧にいかなる事ぞと問へば、則ち筴を〔指で〕挟みて読書しをればなり、と。

穀にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞以て遊びをればなり、と。                   『荘子』駢拇(へんぼ)


すると、国家は国民のものであるから、国家は、同国民自身が運営し守らなければならないことになる。

2018年09月14日 11時40分36秒 | 日記

以下は加地伸行氏の著作「マスコミ偽善者列伝」の第一章からである。

見出し以外の文中強調は私。

「戦争への道」―ありがちな感情論

平成272015)年、安保関連法案を戦争法案と称しての、朝日・毎日らの反対論は狂気そのものであった。

その昔、この眼でしかと見た、60年安保(昭和35年)の際の反対論紙面作りと似ている。 

そのため、老生には「この道は、いつか来た道」という既視感がある。ところが、朝・毎ら反対論者は、まったく違う意味で「この道は、いつか来た道」と歌う。 

その〈道〉とは、「戦争への道」という妄想であり、実体はない。

そこで、その雰囲気を漂わすため、さまざまな愚者に情緒的なくこの道反対〉を言わせる。

例えば、作家の瀬戸内寂聴。

僧侶としての法話中、「法案を通したら今度は戦争。……こんなに悪い日本(と感じたこと)は93年生きてきてなかった」と言ったと(毎日新聞七月二十日付)。 

同じく女性ジャーナリストの堤未果は、こう述べる。

格差社会では、徴兵制にしなくとも、志願兵はいくらでもいる。

貧困から抜け出すために応じるからで、いわば経済的徴兵制になる、と(同紙夕刊七月二十三日付)。

この種の感情論を、それこそ毎日読まされると、人の好い読者の多くは動揺することとなるだろう。

もちろん、それを狙った意図的編集である。

しかし、左筋ジャーナリズムのこうした感情論は誤まっている。

なぜなら、現代の国家や国民の意味、またその両者の関係が全く分っていないからだ。

例えば、近ごろ、立憲主義とやらのことばを有り難がっている連中がおり、「国民が国家(公務員等を含め)に勝手なことをさせないように縛りを掛けた内容や表現が憲法だ」などと称しているが、それはフランス革命に始まる一つの考えかたにすぎない。 

国家とは、宗教(西欧なら例えばカトリック)や王侯貴族のものではなくて、国民のものであるという〈国民国家〉観を持っている国家が近・現代国家なのであり、それぞれ自国にふさわしい憲法を作り、それに冓づいてそれぞれなりに国家運営をしている。

当然、国民自身が自国の憲法を遵守すべきなのである。 

すると、国家は国民のものであるから、国家は、同国民自身が運営し守らなければならないことになる。

すなわち、国民国家である以上、自国の防衛として徴兵制、が原則である。

前近代の王侯貴族国家のときは、税としての徴兵、あるいは生活のための志願兵であった。

〈徴兵〉と言っても、王侯貴族国家のそれと国民国家のそれとは決定的に異なる。

そのことを知らず(いや、隠してか)、瀬戸内某・堤某らは、感情論を沸かしている。

感情論と言えば、同志社大学大学院教授の浜矩子もそうだ。

4百字詰原稿用紙で5枚分も使って、安保関連法案の衆院通過をただ否定するだけであって、何の論証もない(同紙7月18日付)。

例えば「口をへの字にかみ締めた与党議員たちが、うつろなまなざしとともに賛意表明で起立する」と。

しかし、狭いテレビ画面上の、しかもあの短いシーンで全員の口や目までそんなに細かく分るのですか。

大妄想。

ふと見ると、同稿とともに浜某の顔写真がある。

なんと口をへの字。お美事、良きお手本じゃのう。 

根源的な重要なことには触れず(いや、分らずか)、チョコッと調べたことを得々と吹聴するのは、三流の研究者によくある。

例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)。

旧日本軍が慰安所の設置管理に関与していた文書を発見したと騒ぐ(朝日新聞七月二日付)。

しかし、いわゆる慰安婦問題の最大問題点は、強制連行の有無である。公娼制が存在していた時代に、軍、がどのようにあえて慰安婦を強制連行したのかという点を立証してこそ、一流の学者なのである。

それができていない。

問題の核心が分らず、ただ読書やことば遊びをしている連中は、その間に大切なものを見失っていることに気がつかないでいる。

羊飼い二人(臧(ぞう)・穀(こく))の羊が行方不明になった。

その件について、古人曰く、臧(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち筴(ふだ)(木・竹簡仕立の本)を〔指に〕挟みて読書しをれば〔知らぬ〕なり、と。

穀(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞(すごろく)〔を〕以て(使って)遊びをれば〔知らぬ〕なり、と。

〔臧・穀二人の羊飼いの羊が行方不明となったとき〕臧にいかなる事ぞと問へば、則ち筴を〔指で〕挟みて読書しをればなり、と。

穀にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞以て遊びをればなり、と。                   『荘子』駢拇(へんぼ)


例えば、近ごろ、立憲主義とやらのことばを有り難がっている連中がおり…それはフランス革命に始まる一つの考えかたにすぎない。 

2018年09月14日 11時38分36秒 | 日記

以下は加地伸行氏の著作「マスコミ偽善者列伝」の第一章からである。

見出し以外の文中強調は私。

「戦争への道」―ありがちな感情論

平成272015)年、安保関連法案を戦争法案と称しての、朝日・毎日らの反対論は狂気そのものであった。

その昔、この眼でしかと見た、60年安保(昭和35年)の際の反対論紙面作りと似ている。 

そのため、老生には「この道は、いつか来た道」という既視感がある。ところが、朝・毎ら反対論者は、まったく違う意味で「この道は、いつか来た道」と歌う。 

その〈道〉とは、「戦争への道」という妄想であり、実体はない。

そこで、その雰囲気を漂わすため、さまざまな愚者に情緒的なくこの道反対〉を言わせる。

例えば、作家の瀬戸内寂聴。

僧侶としての法話中、「法案を通したら今度は戦争。……こんなに悪い日本(と感じたこと)は93年生きてきてなかった」と言ったと(毎日新聞七月二十日付)。 

同じく女性ジャーナリストの堤未果は、こう述べる。

格差社会では、徴兵制にしなくとも、志願兵はいくらでもいる。

貧困から抜け出すために応じるからで、いわば経済的徴兵制になる、と(同紙夕刊七月二十三日付)。

この種の感情論を、それこそ毎日読まされると、人の好い読者の多くは動揺することとなるだろう。

もちろん、それを狙った意図的編集である。

しかし、左筋ジャーナリズムのこうした感情論は誤まっている。

なぜなら、現代の国家や国民の意味、またその両者の関係が全く分っていないからだ。

例えば、近ごろ、立憲主義とやらのことばを有り難がっている連中がおり、「国民が国家(公務員等を含め)に勝手なことをさせないように縛りを掛けた内容や表現が憲法だ」などと称しているが、それはフランス革命に始まる一つの考えかたにすぎない。 

国家とは、宗教(西欧なら例えばカトリック)や王侯貴族のものではなくて、国民のものであるという〈国民国家〉観を持っている国家が近・現代国家なのであり、それぞれ自国にふさわしい憲法を作り、それに冓づいてそれぞれなりに国家運営をしている。

当然、国民自身が自国の憲法を遵守すべきなのである。 

すると、国家は国民のものであるから、国家は、同国民自身が運営し守らなければならないことになる。

すなわち、国民国家である以上、自国の防衛として徴兵制、が原則である。

前近代の王侯貴族国家のときは、税としての徴兵、あるいは生活のための志願兵であった。

〈徴兵〉と言っても、王侯貴族国家のそれと国民国家のそれとは決定的に異なる。

そのことを知らず(いや、隠してか)、瀬戸内某・堤某らは、感情論を沸かしている。

感情論と言えば、同志社大学大学院教授の浜矩子もそうだ。

4百字詰原稿用紙で5枚分も使って、安保関連法案の衆院通過をただ否定するだけであって、何の論証もない(同紙7月18日付)。

例えば「口をへの字にかみ締めた与党議員たちが、うつろなまなざしとともに賛意表明で起立する」と。

しかし、狭いテレビ画面上の、しかもあの短いシーンで全員の口や目までそんなに細かく分るのですか。

大妄想。

ふと見ると、同稿とともに浜某の顔写真がある。

なんと口をへの字。お美事、良きお手本じゃのう。 

根源的な重要なことには触れず(いや、分らずか)、チョコッと調べたことを得々と吹聴するのは、三流の研究者によくある。

例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)。

旧日本軍が慰安所の設置管理に関与していた文書を発見したと騒ぐ(朝日新聞七月二日付)。

しかし、いわゆる慰安婦問題の最大問題点は、強制連行の有無である。公娼制が存在していた時代に、軍、がどのようにあえて慰安婦を強制連行したのかという点を立証してこそ、一流の学者なのである。

それができていない。

問題の核心が分らず、ただ読書やことば遊びをしている連中は、その間に大切なものを見失っていることに気がつかないでいる。

羊飼い二人(臧(ぞう)・穀(こく))の羊が行方不明になった。

その件について、古人曰く、臧(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち筴(ふだ)(木・竹簡仕立の本)を〔指に〕挟みて読書しをれば〔知らぬ〕なり、と。

穀(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞(すごろく)〔を〕以て(使って)遊びをれば〔知らぬ〕なり、と。

〔臧・穀二人の羊飼いの羊が行方不明となったとき〕臧にいかなる事ぞと問へば、則ち筴を〔指で〕挟みて読書しをればなり、と。

穀にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞以て遊びをればなり、と。                   『荘子』駢拇(へんぼ)


この種の感情論を、それこそ毎日読まされると、人の好い読者の多くは動揺することとなるだろう。もちろん、それを狙った意図的編集である

2018年09月14日 11時34分22秒 | 日記

以下は加地伸行氏の著作「マスコミ偽善者列伝」の第一章からである。

見出し以外の文中強調は私。

「戦争への道」―ありがちな感情論

平成272015)年、安保関連法案を戦争法案と称しての、朝日・毎日らの反対論は狂気そのものであった。

その昔、この眼でしかと見た、60年安保(昭和35年)の際の反対論紙面作りと似ている。 

そのため、老生には「この道は、いつか来た道」という既視感がある。ところが、朝・毎ら反対論者は、まったく違う意味で「この道は、いつか来た道」と歌う。 

その〈道〉とは、「戦争への道」という妄想であり、実体はない。

そこで、その雰囲気を漂わすため、さまざまな愚者に情緒的なくこの道反対〉を言わせる。

例えば、作家の瀬戸内寂聴。

僧侶としての法話中、「法案を通したら今度は戦争。……こんなに悪い日本(と感じたこと)は93年生きてきてなかった」と言ったと(毎日新聞七月二十日付)。 

同じく女性ジャーナリストの堤未果は、こう述べる。

格差社会では、徴兵制にしなくとも、志願兵はいくらでもいる。

貧困から抜け出すために応じるからで、いわば経済的徴兵制になる、と(同紙夕刊七月二十三日付)。

この種の感情論を、それこそ毎日読まされると、人の好い読者の多くは動揺することとなるだろう。

もちろん、それを狙った意図的編集である。

しかし、左筋ジャーナリズムのこうした感情論は誤まっている。

なぜなら、現代の国家や国民の意味、またその両者の関係が全く分っていないからだ。

例えば、近ごろ、立憲主義とやらのことばを有り難がっている連中がおり、「国民が国家(公務員等を含め)に勝手なことをさせないように縛りを掛けた内容や表現が憲法だ」などと称しているが、それはフランス革命に始まる一つの考えかたにすぎない。 

国家とは、宗教(西欧なら例えばカトリック)や王侯貴族のものではなくて、国民のものであるという〈国民国家〉観を持っている国家が近・現代国家なのであり、それぞれ自国にふさわしい憲法を作り、それに冓づいてそれぞれなりに国家運営をしている。

当然、国民自身が自国の憲法を遵守すべきなのである。 

すると、国家は国民のものであるから、国家は、同国民自身が運営し守らなければならないことになる。

すなわち、国民国家である以上、自国の防衛として徴兵制、が原則である。

前近代の王侯貴族国家のときは、税としての徴兵、あるいは生活のための志願兵であった。

〈徴兵〉と言っても、王侯貴族国家のそれと国民国家のそれとは決定的に異なる。

そのことを知らず(いや、隠してか)、瀬戸内某・堤某らは、感情論を沸かしている。

感情論と言えば、同志社大学大学院教授の浜矩子もそうだ。

四百字詰原稿用紙で五枚分も使って、安保関連法案の衆院通過をただ否定するだけであって、何の論証もない(同紙七月十八日付)。

例えば「口をへの字にかみ締めた与党議員たちが、うつろなまなざしとともに賛意表明で起立する」と。

しかし、狭いテレビ画面上の、しかもあの短いシーンで全員の口や目までそんなに細かく分るのですか。

大妄想。

ふと見ると、同稿とともに浜某の顔写真かある。

なんと口をへの字。お美事、良きお手本じゃのう。 

根源的な重要なことには触れず(いや、分らずか)、チョコッと調べたことを得々と吹聴するのは、三流の研究者によくある。

例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)。

旧日本軍が慰安所の設置管理に関与していた文書を発見したと騒ぐ(朝日新聞七月二日付)。

しかし、いわゆる慰安婦問題の最大問題点は、強制連行の有無である。公娼制が存在していた時代に、軍、がどのようにあえて慰安婦を強制連行したのかという点を立証してこそ、一流の学者なのである。

それができていない。

問題の核心が分らず、ただ読書やことば遊びをしている連中は、その間に大切なものを見失っていることに気がつかないでいる。

羊飼い二人(臧(ぞう)・穀(こく))の羊が行方不明になった。

その件について、古人曰く、臧(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち筴(ふだ)(木・竹簡仕立の本)を〔指に〕挟みて読書しをれば〔知らぬ〕なり、と。

穀(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞(すごろく)〔を〕以て(使って)遊びをれば〔知らぬ〕なり、と。

〔臧・穀二人の羊飼いの羊が行方不明となったとき〕臧にいかなる事ぞと問へば、則ち筴を〔指で〕挟みて読書しをればなり、と。

穀にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞以て遊びをればなり、と。                   『荘子』駢拇(へんぼ)


スノッブでプチ・ブルで大した能力もない所が朝日新聞好み…というよりも彼らは彼女がいつでも朝日新聞の社説に対する賛同者として使える

2018年09月14日 11時31分13秒 | 日記

私はNHKの大河ドラマは殆ど観なかったのに、この前の「女城主直虎」だけは毎回欠かさず観た。私には奇跡的な事だったのだが、それもこれも、たまたま観ていた初回に登場した幼少期の直虎役の女の子が、稀に見る天才子役だったからである。

NHKも、それがために、彼女が登場する回を増やしたやに聞く。成人してからの直虎役の柴咲コウ…私は彼女についてゴシップ誌の広告での男女関係話しか知らなかったのだが…彼女も、この子役の天才的な演技に触発されたのだろう…あれだけの名演技の後の成人役となれば、到底、凡庸に演じるわけには行かない…柴咲コウも役者として開眼したのではないだろうか…男優と浮名を流している場合ではない…自分は女優なのだ…彼女が、そう覚醒したとしら、それは1にも2にも、あの天才子役の名演技ゆえだろう。

今の西郷どんは、ちょっとチャンネルがそのままで、ながら観をしている事はあっても、途中で切ってしまう。理由の一つに、原作者が朝日新聞文化人の典型である虞美人草だからだろう…私は今に至るも彼女がちやほやされる理由が全く分からない。

スノッブでプチ・ブルで大した能力もない所が朝日新聞好み…というよりも彼らは彼女がいつでも朝日新聞の社説に対する賛同者として使える、或いは朝日新聞文化人の拡散に使える、と踏んでいるのだろう。つまり、そこにも朝日のいやらしい姦計が滲んでいる…それもあって私は、この女流作家とやらを全く評価していない。単なるミーチャン・ハーチャンを文化人に仕立て上げる朝日新聞の、嫌らしさだけが鼻につくのである。

 

 


そこで、その雰囲気を漂わすため、さまざまな愚者に情緒的なくこの道反対〉を言わせる。例えば、作家の瀬戸内寂聴

2018年09月14日 11時10分17秒 | 日記

以下は加地伸行氏の著作「マスコミ偽善者列伝」の第一章からである。

見出し以外の文中強調は私。

「戦争への道」―ありがちな感情論

平成272015)年、安保関連法案を戦争法案と称しての、朝日・毎日らの反対論は狂気そのものであった。

その昔、この眼でしかと見た、60年安保(昭和35年)の際の反対論紙面作りと似ている。 

そのため、老生には「この道は、いつか来た道」という既視感がある。

ところが、朝・毎ら反対論者は、まったく違う意味で「この道は、いつか来た道」と歌う。 

その〈道〉とは、「戦争への道」という妄想であり、実体はない。

そこで、その雰囲気を漂わすため、さまざまな愚者に情緒的なくこの道反対〉を言わせる。

例えば、作家の瀬戸内寂聴。

僧侶としての法話中、「法案を通したら今度は戦争。……こんなに悪い日本(と感じたこと)は93年生きてきてなかった」と言ったと(毎日新聞七月二十日付)。 

同じく女性ジャーナリストの堤未果は、こう述べる。

格差社会では、徴兵制にしなくとも、志願兵はいくらでもいる。

貧困から抜け出すために応じるからで、いわば経済的徴兵制になる、と(同紙夕刊七月二十三日付)。

この種の感情論を、それこそ毎日読まされると、人の好い読者の多くは動揺することとなるだろう。

もちろん、それを狙った意図的編集である。

しかし、左筋ジャーナリズムのこうした感情論は誤まっている。

なぜなら、現代の国家や国民の意味、またその両者の関係が全く分っていないからだ。

例えば、近ごろ、立憲主義とやらのことばを有り難がっている連中がおり、「国民が国家(公務員等を含め)に勝手なことをさせないように縛りを掛けた内容や表現が憲法だ」などと称しているが、それはフランス革命に始まる一つの考えかたにすぎない。 

国家とは、宗教(西欧なら例えばカトリック)や王侯貴族のものではなくて、国民のものであるという〈国民国家〉観を持っている国家が近・現代国家なのであり、それぞれ自国にふさわしい憲法を作り、それに冓づいてそれぞれなりに国家運営をしている。

当然、国民自身が自国の憲法を遵守すべきなのである。 

すると、国家は国民のものであるから、国家は、同国民自身が運営し守らなければならないことになる。

すなわち、国民国家である以上、自国の防衛として徴兵制、が原則である。

前近代の王侯貴族国家のときは、税としての徴兵、あるいは生活のための志願兵であった。

〈徴兵〉と言っても、王侯貴族国家のそれと国民国家のそれとは決定的に異なる。

そのことを知らず(いや、隠してか)、瀬戸内某・堤某らは、感情論を沸かしている。

感情論と言えば、同志社大学大学院教授の浜矩子もそうだ。

四百字詰原稿用紙で五枚分も使って、安保関連法案の衆院通過をただ否定するだけであって、何の論証もない(同紙七月十八日付)。

例えば「口をへの字にかみ締めた与党議員たちが、うつろなまなざしとともに賛意表明で起立する」と。

しかし、狭いテレビ画面上の、しかもあの短いシーンで全員の口や目までそんなに細かく分るのですか。

大妄想。

ふと見ると、同稿とともに浜某の顔写真かある。

なんと口をへの字。お美事、良きお手本じゃのう。 

根源的な重要なことには触れず(いや、分らずか)、チョコッと調べたことを得々と吹聴するのは、三流の研究者によくある。

例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)。

旧日本軍が慰安所の設置管理に関与していた文書を発見したと騒ぐ(朝日新聞七月二日付)。

しかし、いわゆる慰安婦問題の最大問題点は、強制連行の有無である。公娼制が存在していた時代に、軍、がどのようにあえて慰安婦を強制連行したのかという点を立証してこそ、一流の学者なのである。

それができていない。

問題の核心が分らず、ただ読書やことば遊びをしている連中は、その間に大切なものを見失っていることに気がつかないでいる。

羊飼い二人(臧(ぞう)・穀(こく))の羊が行方不明になった。

その件について、古人曰く、臧(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち筴(ふだ)(木・竹簡仕立の本)を〔指に〕挟みて読書しをれば〔知らぬ〕なり、と。

穀(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞(すごろく)〔を〕以て(使って)遊びをれば〔知らぬ〕なり、と。

〔臧・穀二人の羊飼いの羊が行方不明となったとき〕臧にいかなる事ぞと問へば、則ち筴を〔指で〕挟みて読書しをればなり、と。

穀にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞以て遊びをればなり、と。                   『荘子』駢拇(へんぼ)