2015年2月10日 沖縄県
首里城 100名城
沖縄県那覇市首里
首里城は、1429年から1879年まで琉球王国の国王の居城でした。王城は、琉球の政治、外交、文化の中心として栄え続けました。発掘調査の結果、首里城は14世紀の末頃までには築かれていたことが明らかになっています。首里城は、地形を巧みに活用して内郭と外郭に分けて築かれています。城壁は琉球石灰岩の切石で築かれ、その総延長は約1,080mです。城壁の高さは、6~15mにもなり、その厚さはおよそ3mです。歓会門が大手門(正門)で西側城壁にあります。城内には正殿・北殿・南殿などの重要な建物が御庭(うなー)を囲んであり、正殿は、1925年に指定されました。しかし、これらの建物群は、沖縄戦ですべて焼失し、1972年から復元整備が実施されています。 沖縄県教育委員会
2019年10月31日未明 正殿内部から発生した火災により正殿をはじめする9施設が焼失しました。
首里城その1 (守礼門・歓会門・龍樋)
▼ 守礼門
守礼(しゅれい)」とは「礼節を守る」という意味で、門に掲げられている扁額(へんがく)には「守礼之邦(しゅれいのくに)」と書かれている。「琉球は礼節を重んずる国である」という意味である。首里城は石垣と城門の多い城であるが、中でもデザイン上バランスがとれ、エレガントな雰囲気のある代表的な門がこの「守礼門」である。中国風の牌楼(ぱいろう)という形式で建立されている。1527~55年(第二尚氏4代目尚清王(しょうせいおう)代)にはじめて建立され、1933年(昭和8)に国宝に指定されたが沖縄戦で破壊された。現在の門は1958年(昭和33)に復元されたもの。 首里公園ホームページより
首里城の城郭(じょうかく)内へ入る第一の正門で、「歓会(かんかい)」とは歓迎するという意味である。往時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられた。首里城は外郭(外側城郭)と内郭(内側城郭)により二重に囲まれているが、ここは外郭の最初の門で、別名「あまえ御門(あまえうじょう)」ともいう。「あまえ」とは琉球の古語で、「喜ばしいこと」を意味する。創建は1477~1500年頃(尚真王代)で、沖縄戦で焼失したが、1974年(昭和49)に復元された。 首里公園ホームページより
▲ 龍樋(りゅうひ) ▼
「龍樋」は、龍の口から湧水が湧き出していることからそのように名付けられた。この水は王宮の飲料水として使われていた。また、中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった「天使館(てんしかん)」という宿舎まで、毎日ここから水を運んだといわれている。龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもので、約500年前のものである。 首里公園ホームページより
首里城その2 (瑞泉門・漏刻門・万国津梁の鐘)
首里城その3 (広福門・首里森御嶽・奉神門)
首里城その4 (正殿)
首里城その5 (南殿・北殿・淑順門・久慶門など)
cosmophantom