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コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

大井宿の説明板~旧中山道を歩く(16回目)

2012-11-25 08:05:13 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>大井宿(恵那駅)~御嵩宿(駅)
2012年11月16日 16回目 

大井宿の説明板

中山道は江戸幕府が定めた五街道(東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中)の一つで、中部山地を越えて江戸から京都へ通じていた。この街道は木曽を通るため木曽街道とも呼ばれ、また、江戸の将軍家へ嫁ぐ公家の姫宮が通行したので姫街道ともよばれた。姫宮の通行では、文久元年(1861)の和宮降嫁の大通行が名高い。東海道が海沿いの平坦な街道であるのに対して、中山道は山間部を通るため道が険しく、距離も長い中山道の宿駅は江戸の板橋宿から近江の守山宿まで67宿であるが、東海道の宿駅である草津、大津の両宿をいれて69宿という場合もある。江戸から京都までは132里10町(約520Km)で一日7里から10里(28Km~40Km)歩いたとして13日から18日の行程である。大河川を渡ることが少ない中山道では川止めを受けることはまれで、好んでこの道を通る人もあった。しかし、碓氷峠・和田峠・鳥居峠・十三峠といった険しい峠や山道が多く旅人にとって困難な街道であった。美濃を通る中山道はおよそ30里(約120Km)で、落合・中津川・大井・大湫・細久手・御嵩・伏見・太田・鵜沼・加納・河渡・美江寺・赤坂・垂井・関ヶ原・今須の16宿あった。大井宿は、名古屋、伊勢に向う下街道の分岐点に位置する交通の要衝であり、中山道46番目の宿場として41軒の旅籠が立ち並び、美濃16宿中随一のにぎわいを誇った。現在、かつての大井宿は恵那市街地の一画を成しているが、今でも他の宿場には例がない6か所の枡形、本陣の門と松、旧旅籠屋などの建物が見られる。大井宿から西の武並町深萱までの中山道は借日の面影をよく残し、西行硯水・西行塚・槙か根一里塚・槙か根追分・姫御殿跡・紅坂一里塚などの史跡も多い。  恵那市 恵那市教育委員会

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西行硯水(恵那市)~旧中山道を歩く(16回目)

2012-11-25 08:04:43 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>大井宿(恵那駅)~御嵩宿(駅)
2012年11月16日 16回目 

西行硯水

恵那市長島町中野新田

文治2年(1186年)西行は二度目の奥州の旅に伊勢を出発した。鎌倉で源頼朝に会い、平泉に1年滞在した後、木曾路を経てこの地を訪れ、3年間暮らしたといわれている。歌人である西行は、多くの歌を詠み、こんこんと湧き出るこの泉の水を汲んで墨をすったと伝えられている。

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浸水防止壁(恵那市)~旧中山道を歩く(16回目)

2012-11-25 08:04:00 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>大井宿(恵那駅)~御嵩宿(駅)
2012年11月16日 16回目 

浸水防止壁

田違川は長島橋近くで永田川に直角に流れ込んでいた。そのため洪水のたびに田違川は永田川を堰き止め、水は道路にあふれて本通りへも流れて付近の人家に浸水した。そこで、道の両側に石柱を立て、板をはめ込み浸水を防ぐこととした。長島町はこの浸水防止のため、昭和10年田違川を中央線沿いにつけかえた。  恵那市・恵那市教育委員会

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中野村庄屋の家(大井宿)~岐阜県恵那市

2012-11-25 08:03:45 | 建築物(洋館以外)

2012年11月16日 岐阜県

中野村庄屋の家(大井宿)

岐阜県恵那市

中野村庄屋の家で、屋号を本酒屋といいました。1861年、皇女和宮の降嫁するときに大湫宿の助郷村であった野井村が、和宮が通行することで岩村藩代官より強制的に賄役につかせられました。このことを不満に感じた野井村百姓代熊崎新三郎は、和宮の通行がおわったあと、中野村庄屋宅に滞在していた岩村藩代官吉田泰蔵に斬りつけました。 これは後に事件となりましたが、代官による強制的な賄役の負担が野井村の今後の慣例となることをおそれた野井村は、岩村藩相手に裁判に訴えました。最終的には野井村の勝訴となり代官は罷免され、野井村に金25両が下付されました。

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中野村庄屋の家(大井宿)(岐阜県恵那市)~旧中山道を歩く(16回目)

2012-11-25 08:03:44 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>大井宿(恵那駅)~御嵩宿(駅)
2012年11月16日 16回目 

中野村庄屋の家(大井宿)

岐阜県恵那市

中野村庄屋の家で、屋号を本酒屋といいました。1861年、皇女和宮の降嫁するときに大湫宿の助郷村であった野井村が、和宮が通行することで岩村藩代官より強制的に賄役につかせられました。このことを不満に感じた野井村百姓代熊崎新三郎は、和宮の通行がおわったあと、中野村庄屋宅に滞在していた岩村藩代官吉田泰蔵に斬りつけました。 これは後に事件となりましたが、代官による強制的な賄役の負担が野井村の今後の慣例となることをおそれた野井村は、岩村藩相手に裁判に訴えました。最終的には野井村の勝訴となり代官は罷免され、野井村に金25両が下付されました。

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