大学入試への「情念」

2007-05-01 00:25:47 | 感想など
大学入試において、俺は学校、特に担任の教師は全く信用していなかった。


教室のすぐそばに置いてあった大学の過去問(いわゆる赤本)を色々見るようになったのは高校二年の10月。早稲田、慶應、京都大などの問題を見ていて出た結論は

この学校の授業じゃ受からんわ

とは言っても、まず学校の授業をきちんとやらんと話にならんと思ったので、前よりちゃんと予習・復習をするようになった。こうして高校三年を迎えたが、授業、特に英語・国語がカスだという結論は変わらなかった(しかも入試へ向けためぼしい変化もなし)。例えば、リーディングや現代文の授業のごとく文章をだらだら「鑑賞」していても、初見で、しかも制限時間のある中で解かなければならない入試問題を攻略できるはずがない。「進学校」の名を冠しているにしてはお話にならないのんびり加減である。


そこで五月から衛星予備校に通いはじめるとともに、三年で始めて教わった教師が唯一切れ味鋭い授業をしてくれたので、英語関連の質問は全てそちらにすることにした。よりにもよって担任の隣に机があったのは多少気まずかったが、んなことを気にしている場合でもなく、どんどん質問に行っていた。


少々やり過ぎのように思うだろうか?だが、次のことを理解していればこれはむしろ当然の行為だ。大学受験とは、実質人生を大きく規定する。「名」という観点からしても、これをもって最終学歴が決まる人が大半である(「どこへ行っても同じ」という意見は「大学入試で全てが決まる」という見方への反論としてようやく成り立つものでしかない)。だが何より、高校選びで失敗し、大学受験では決して同じ間違いを繰り返すまいという決意が俺の中にあったのが大きい。大げさに聞こえるかもしれないが、その時点の俺にとって大学受験とは「人生」といって差し支えないものであった。さて、我が担任はその「人生」を託すに足る人物だろうか?答えは「否」である。てゆーか

こんな奴に俺の人生決められてたまるか

俺が受験に失敗したところで、担任にとっては「一人志望校に落とした」という一事実でしかない。以後どれほどそのことを考えたとしても、しょせんは第三者のものだ(それを責めるつもりは毛頭無い。他人であるというのはそういうことなのだから)。だが俺にとっては違う。受験の失敗は常にリアルな現実として目の前に立ち現れるのである。その時まさに経験していた高校生活がそうであったように。もしここで担任の立場を考えて質問を躊躇するようなことがあれば、今度失敗したときには一体俺はどうすればいいというのか。担任のことを思い浮かべながらも自分の甘さを後悔する?冗談ではない。たとえ失敗したとしてもそれは自分の努力が足りなかったからで、他の誰のせいでもない。自らが決め、そのために妥協せず動く…それこそが大学入試において俺が自らに課した姿勢であった。


話は飛んで入試直前(夏には京都まで大学を見に行った。もっとも、予想とは違ってあまり魅力を感じなかったけど)。出願校を決めるため担任と最後の面談をすることになった。自分の志望を押し通す俺と、千葉大などの国公立を推す(てゆうか「押す」が近いw)担任。ここでのやり取りは今でもはっきりと覚えている。それぞれの出願校案の提示の後…

俺:高校入試では色々な理由をつけて妥協して三年間を棒に振りました。

担:……でもそれは自分の責任だろ。

俺:その通りです。だから大学入試では自分の志望校を変えたくないんです。失敗したとしても後悔はしなくて済むように。


「三年間を棒に振りました」の後の担任の絶句もよく覚えている。まあそれはそうだろう。俺を三年間見てきたからこの発言の拠って立つところは理解できただろうし、何より三年目で予備校に行きつつ担任の言うことなど全く聞こうとしない態度から、これ以上何を言っても無駄だと悟ったと思われる。もっとも俺としては、「高校入試を中途半端にやったことで後悔してきた。だから大学入試では、後悔するにしてもやって後悔したいのだ」という明快な論理・決意を言ったまでのことだったが。


次に印象深いのは合格発表。何しろ寝台列車に乗って東京まで見に行ったから…と、これには説明が必要か。もちろん電話などで結果が聞けるのは知っていたが、そういう第三者を通して結果を知るのが何となく嫌だった。志望校の発表を見る瞬間、その機会は人生に一度しかない(まあ何度か足を運ぶことになる可能性もあるわけだが…)。だから受かったにしても落ちたにしても、その事実を自分の目で確認しなければ気がすまなかったのである。もっとも、入試本番の日(2/17)は意味不明に神がかっており、100%どころか120%の力を出した感があったため、「これで受からんなら今の俺では逆立ちしても受からん」と確信していて、自分の番号を見つけても「ああ、やっぱり」という妙に納得した感情しかなかったのだけど。こないだ京都に遊びに行ったとき、友人が「(高校のとき)大学入試の結果を聞いたら『受かっちゃった』とか近所の福引に当たったみたいにあっけらかんと言うからびっくりした」とか言っていたが、それは上のような事情による。


最後に。大学入試への「情念」は俺に最高の六年間をもたらしてくれた。あと9ヶ月でまた大学入試の時が訪れる。今年の高三生にとって大学入試が幸多きものに、少なくとも何かしらの糧となるようにと祈るばかりである。


後日談…
件の担任は、後日従兄妹に聞いたところによると、「俺の授業に出ていれば早稲田にも受かる」とかのたまっていたらしい。まあ個人的な恨みがあるわけじゃねーし三年担任してもらってはいたから、そのくらいの妄言は許容することにしよかw
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