菅原貴与志の書庫

A Lawyer's Library

『三方一両損』 奇特なる人々と訴訟費用

2010-12-23 11:52:00 | 落語と法律
新・落語で読む法律講座 第1講

 江戸っ子の生まれ損ない金をため……職人は、その日儲けたものは一日に威勢よく使って、「明日はあしたの風が吹くからいいや」と淡白なものだったらしい。

 浅草阿部川町に住む左官の金太郎は、書付と印行(いんぎょう)と三両の金のはいった財布を拾った。書付から落し主が神田小柳町の大工吉五郎と判ったので、さっそく当人のところに届けに行く。

 ところが、吉五郎、礼を言うどころか、「お節介な野郎だなあ。せっかく金を落として、いい気持ちに酒を飲んでたんだ。そこェ届けに来ゃがって、またこの三両の銭(ぜに)を今日中につかわなくっちゃァならねえ。骨が折れらあ。書付と印行は俺の物だ。貰っておくが、この三両の金は手前(てめぇ)にくれてやる。持って帰ェれ!」

 金太郎のほうも一本気で、「持ち主が判った以上、返すのが当たり前。そんな金が欲しくて届けに来たんじゃねえ!」と頑張る。これじゃあ喧嘩にならないはずがない。とうとうドタンバタンとつかみ合いの大騒ぎ。

 吉五郎の大家(おおや)が仲裁に出てきて、金太郎に謝ったから、一旦その場は納まった。ところが今度は、この一部終始を聞いた金太郎の大家が怒り、南町奉行・大岡越前守に訴え出る。白洲に引き出された吉五郎と金太郎。双方とも金は受け取れぬと言い張るので、越前守は1両を出して四両とし、「二両ずつ両人に褒美としてつかわす。二人とも三両を懐に入れるべきところが二両になったのだから、各々一両の損。奉行も一両出したから一両の損。これ呼んで三方一両損である」との名裁きを申し渡して、一件落着。

     * * *

 金を落とした吉五郎、拾った金太郎。この噺に登場する両人は、いずれも奇特な人物だ。ほとんど非常識といってもいい。もしも大金を拾えば、得をしたと思うのが人情だし、仮に届けてもらえば、なるべく謝礼を値切ろうとするのも、通常(なみ)の人間の心持ちではないだろうか。ちなみに、現行の法律では、落し主は拾得者に5~20パーセントの報労金を支払うべしとされている(遺失物法28条)。

 奇特といえば、越前守もそうだ。判決に際して、裁判官自ら出費するなどという話は聞いたことがない。現在においても、民事事件の訴訟をするには、一定の費用を裁判所に納めなければならないが、それは当事者が負担する。

 訴状に貼る印紙代(たとえば、訴額1,000万円なら印紙代5万円)や、裁判所が書類を郵送するのに使う切手代(東京地裁では、被告1名の場合、6,400円)については、まずは訴え出る原告が払う(簡易な訴訟費用の計算機として、http://www5d.biglobe.ne.jp/Jusl/MinjiJiken/MinsoHiyouhou2.html)。詳細は、民事訴訟費用等に関する法律と同規則に定めがある。なお、これら費用を最終的に誰が負担すべきかは、判決のときに裁判所が決めることになとっている。

 ただし、弁護士費用はこれに含まれておらず、依頼した各当事者が負担しなければならない。弁護士費用を詳しく知りたいときは、弁護士会に問い合わせてみよう。

 裁判はしたいが、その資力がない場合には、日本司法支援センター「法テラス」に裁判費用立替えの審査を申し込んでみるという方法もある(http://www.houterasu.or.jp/service/hiyoutatekae/)。

     * * *



 さて、『三方一両損』の続きだが、お裁きの後、越前守のはからいで膳部が出た。二人が喜んで食べようとすると、
越前守「両人いかに空腹じゃからとて、あんまりたんと食すなよ」。
両人「へェ、多かぁ(大岡)食わねえ。たった、いちぜん(越前)」……。



【楽屋帳】
 京都所司代、板倉勝重・重宗父子の事蹟を集めた『板倉政要』(元禄以前の成立)中の逸話「聖人公事の捌き」が講釈の「大岡政談」として通俗化され、さらにそれが落語に。文化年間から口演されている。昭和に入っては、八代目三笑亭可楽が得意とし、その形が現行のものとなっている。かつて小泉元首相が、医療制度改革を提案するに際して、医療機関・患者・保険者のそれぞれに応分に負担するという主張を「三方一両損」という言葉を用いたが、この噺をパクったものである。

『新・落語で読む法律講座』連載開始

2010-12-11 08:04:21 | 落語と法律
 古典落語を題材に、現代の法律を読み解こうと、これより不定期で『新・落語で読む法律講座』の連載を開始したいと思います(皓星社刊『落語で読む法律講座』の改訂版)。

 法治国家である以上、法律に基づいて公平に権利を実現し、義務を負うことが保障されていなければなりません。したがって、難解と思われがちな法律も、私たちの日常生活にとけこんだものとして理解される必要があります。一方、落語の世界は、奇想天外で抱腹絶倒の展開やあるいは情緒たっぷりな筋立てに、喜怒哀楽の機微といった人間くさい思いや悩みを描き出します。そのあたりに法律と落語の交錯を認めることができるように思います。

 この連載によって、落語のよさを再確認し、また、多少なりとも法律を身近に感じていただければ、誠に幸いです。乞うご期待。

講義録:会社とは(1) ~企業と会社

2010-12-01 00:00:00 | 会社法学への誘い
 最近「会社とは何か」とか、「会社は誰のものか」などといった議論をよく耳にします。広く世間の注目を集めるような会社関連の事件が増え、日本経済新聞にも『会社とは何か』と題する人気記事が連載されていました。そこで、これから『会社法学への誘(いざな)い』と題して、「会社とは何か」、さらには、株式会社の基本構造ということについて連載させていただきます。

 第1回の話題は、「企業と会社」です。
 会社とは、企業形態のひとつですが、厳密にいえば、会社=企業ではありません。企業とは、営利を目的として活動する組織のことをいいます。たとえば、ある商品を安く仕入れて高く売るなど、継続的・計画的な経済活動を行い、利潤を追求する組織が企業です。

 利潤の追求のための企業活動は、いつでも誰でも起こすことができます。たとえば、駅前の魚屋さんや八百屋さんには、店主が一人で経営しているところも少なくありません。このように個人が継続的・計画的な経済活動を行うことも可能でありまして、これが個人企業というものです。要するに、企業は必ずしも会社であるとは限らないのです。

 個人企業の場合、その主体である営業主は、仕入れた商品など、事業のための財産を自ら所有しています。また、経営に関する事項は営業主が一人で決定し、獲得した利益もすべて営業主が自らの手中に収めます。その反面、事業に失敗し、損失が発生すれば、これも営業主が一人で負担しなければなりません。また、事業を拡大しようと思えば、一人ですから、資金的にも労力的にも限界があるでしょう。

 たとえば、一人の個人が100万円を出資して起業するよりも、100人が集まり、各々100万円を拠出したほうが、合計1億円の資本を結集できるわけですから、その分だけ大規模な事業を展開することも可能となります。また、有限責任の原則が適用される場合には、個人の負担や危険も100万円に限定できます。

 ここでいう有限責任とは、出資した企業が借金まみれで倒産したとしても、出資者は出資した金額だけをあきらめれば、それ以上の追加負担を求められる責任はないものです。出資金額までの責任しか負わないことから、これを有限責任と呼んでいます。

 有限責任の話はさておき、一人で起業し、事業を行うことには限界があります。そこで、次には、事業の拡大や負担の分散のために、複数が共同で企業経営にあたることを検討するようになるでしょう。こうして、共同企業形態では、利益追求という目的のもとに出資者が集います。たとえば、AがBを出資者として誘い、共同事業を営むことを合意すれば、A・B間に「組合」契約が成立し(民法667条1項)、A・Bともにその組合の構成員、すなわ「組合員」となります。ここでは、各組合員がお互いに契約によって結びつき、一種の団体を形成します。しかし、組合という共同経営形態では、単なる組合員相互の契約関係があるにすぎませんから、結局のところ、組合の活動=組合員自身の活動ということになります。

(次回に続く)