菅原貴与志の書庫

A Lawyer's Library

法律英語の特色(8)

2013-03-25 00:00:00 | 国際法務

国際法務入門 第31回
 類義語の重複

 英文契約書では、同義語・類義語を重複して使用する例が多い。以下は、その例である。

・authorize and direct(授権する)

・covenant and agree(合意する)

・each and all(すべての)

・final and conclusive(最終の)

・from and after(~以降)

・made and entered into(作成・調印した)

・null and void(無効の)

 英文契約書を読解・審査(review)するに際しては、こうした重複使用に慣れるしかないが、一方で、自らが契約文を起案(draft)する場合には、なるべく重複使用を避けた分かりやすい英語(plain English)に心がけるべきであろう。


(次回に続く)

『遠山政談』 この桜吹雪が目に入らぬか

2013-03-17 00:00:00 | 落語と法律

新・落語で読む法律講座 第26講

 石町二丁目の越中屋では、若い奉公人が大勢いてちょっかいを出すため、なかなか女中が居つかない。そこで、さがしだしてきたのが、とてつもない醜女のお染。さすがに店の奉公人も手を出さない。
 ところが、ある晩のこと、番頭の身寄りで若党の佐造が、酒に酔って、お染に手をつけた。さんざん金品をせびったあげく、妊娠までさせてしまうが、お染から夫婦になってほしいと迫られ、佐造は困ってしまう。店の者のてまえはあるし、世間体もあり、また、主人に顔向けもできない。

 とうとう佐造はお染を殺害しようと企てる。
 加賀の屋敷内の友だちに預けるのだと偽り、お染を五斗俵に押し込んで、和泉橋から神田川に突き落とした。夜釣りから帰るところの二人連れが、米俵だと思って開けて驚く。
 翌日、河原に様子を窺いにきた佐造が召し捕らえられ、時の町奉行・遠山左衛門尉の裁きを受けることになる。

          

 この噺、『遠山政談』と題してはいるが、かんじんの遠山金四郎が登場してくるわけではない。もし遠山の金さんが出てきたならば、おなじみの悪代官と町娘が対決するお白州の場面となるだろう。

悪「お奉行様、私にはまったく心当たりのないことで」
娘「ちがうんです!わたし、見たんです。この人たちがお染ちゃんを……」
悪「よもやこんな小娘の世迷言をお信じになるつもりじゃ……おい、小娘。そこまで言うのなら証拠をここに出してみなさい」
娘「証拠と言われても……あっ……そ、そうだ金さん……お奉行様、金さんが全部知っています。遊び人の金さんを探してください」
悪「あっはっはっは。ええ呼んでもらおうじゃありませんか、その金さんとやらを」
悪人たち「そうだそうだ、金さんをここに呼べ! おおい、金さんはどこだあ」
奉行「…オイ、うるせえなあ…ちったあ静かにできねえのか。おうおう悪党ども、そんなに見てえ証拠なら見せてやる…冥土の土産に目ン玉ひんむいて、よおく拝みやがれ…あの日、見事に咲いた遠山桜…ウヌら…この桜吹雪、よもや見忘れたとは・・・・・・言わせねえぞ!」

       

 ここでの遠山金四郎は、「遊び人の金さん」として事件を内偵・捜査し、「遠山左衛門尉」の立場から、悪人どもに厳罰を下す。つまりは、裁判官であるとともに、警察官であり、また検察官でもあるのだ。

 しかし、現代の刑事訴訟は、そのような仕組みになっていない。
 裁判が公平であるべきことは、いわば裁判の生命である(憲法37条1項参照)。そこで、訴訟手続の面での公平な裁判を担保するために、裁判官と検察官は、まったく別個の組織に属し、その機能を分化している。
 また、検察官と被告人の両当事者ともに、十分な主張と立証ができるような平等の機会を与える建前となっている(当事者対等主義)。

 さらには、公判がはじまるまで、あらかじめ裁判所が事件の内容にタッチすることなく、白紙の状態に保つようにも配慮されている。これを予断排除の原則という。
 たとえば、起訴状には、裁判官に事件についての予断を生ぜしめるおそれのある書類などを添付できないし、その内容も引用してはならない(刑事訴訟法256条6項)。公訴提起には、起訴状一本をもってしなければならないのである(起訴状一本主義)。

 戦前の旧刑事訴訟法当時には、遠山の金さんほどではないにせよ、起訴と同時に一切の捜査書類と証拠物が裁判所に提出され、裁判官はあらかじめその内容を精査していたから、事件に対する十分な心証を抱いて公判に臨んでいた。このようなやり方は、検察官には有利だが、すでに裁判官が有罪の予断をもっているおそれがあるため、被告人の側にとって不利な場合が多い。そこで、現行法においては、起訴状一本主義を中心とする予断排除の原則を採用したのである。

          

 ところで、この「この桜吹雪が目に入らぬか」という大いなるワンパターンこそが、いまだ根強い時代劇人気の秘訣である。「善いモンはいい、ワルイ奴は悪い」との徹底した勧善懲悪。この分かりやすさが見ている側に心地よい安定感となって伝わるのだ。しかし、現実の世の中、そんなに単純ではない。


 都内のある駐車場で傷害事件が発生した。駐車料金を精算する出口付近で、先行車両の運転手が、後続ドライバーの顔を数発殴ったのである。加害者は無職の若い男。被害者は青年歯科医。新聞の社会面をかざるほどの事件とはいえないが、もし記事風に書くとこうなるのだろう。

「警視庁某署は、東京都板橋区○○、無職甲野太郎容疑者(24)を傷害の疑いで逮捕した。調べによると、甲野容疑者は今月17日午後5時ごろ、練馬区○○の遊園地「○○ランド」の駐車場で、横浜市鶴見区○○、歯科医乙野次郎さんの顔面を数回殴打し、全治一週間のけがを負わせた疑い。」

 この記事をみれば、「人様に手をあげるなど、とんでもない。そんな粗暴な奴にはキツイお灸をすえてしかるべき」との感想をもつのが普通ではなかろうか。これだけを読めば、である。しかし、事実はそう単純ではない。

 植木職人として修業中だった甲野は、この不況のために失職。病弱な若い妻と4歳になったばかりの娘をかかえて、失意のまま郷里へ帰ることにした。苦しいばかりで、なにひとつ楽しいことのなかった東京での生活。この街の最後の思い出にと、甲野は、元の職場の先輩からオンボロの軽自動車を貸してもらい、家族を連れて遊園地に出かけた。1枚のフリーパス券を交互に使って娘を乗り物にのせ、3人でやきそばやソフトクリームを食べる。この貧しい一家にとっては、ささやかにぜいたくな一日を過ごした。

       

 帰路につくために甲野が軽自動車を駐車場から出すとき、その事件は起きた。甲野の車が徐行して直進中、突然T字路の横から頭を出してきたのが白いベンツである。この運転手(乙野)が、クラクションを鳴らし、「薄汚い車で、私の前を横切るんじゃない!」と大声で神経質そうに叫んだ。しかし、一時停止を無視したのは乙野のほうだ。その後ベンツは、甲野を威嚇するように、ぴったりと後続追跡してくる。

 駐車場の出口ゲートのところで2台が停車したとき、乙野はベンツを降りて、甲野の軽自動車の窓ガラスをドンドンと叩き、「おい、出てこい! お前ら、私の高級車をキズつけても弁償なんかできんだろう」
と血相を変えて怒鳴りつづけた。
 助手席では、妻のひざの上に抱かれた愛娘が、おびえたように父親を見上げている。

 今日の思い出を台無しにされてはならない……小さくうなずきかえし、甲野は車外に出た。
 乙野は、車内の幼児に一瞥をくれた後、真正面から甲野を見据えた。
「こらっ、サル!車を運転するなんぞ、百年はやいんだ」。小柄な甲野は、猿顔といえなくもなかったが、妻子の面前で「サル」呼ばわりされ、堪えがたい屈辱感におそわれた。
 乙野は、自分のあごを突き出すようにして、「なんだ、私を殴るのか?殴れるものなら、殴ってみろ。お前のようなチンピラになめられてたまるか。サルめ!」と挑発するように言った。
 車内の娘が泣きだしたと同時に、甲野のなかで何かがプツンと切れた。次の瞬問、甲野の握りしめた拳が乙野の顔面にとんでいた。

 乙野は、警察署でも、横柄かつ高飛車で一方的であった。「さっそく歯科医師会の顧問弁護士と相談する。ただでは済まない。私は被害者だ」。そう言い放った乙野は、甲野の行状を悪しざまに申し立て、彼には多額の損害賠償を要求し、かっ、警察には厳罰に処することを強く求めた。取調べにあたった警察官さえも、加害者の甲野に同情したという。

       

 殴った甲野が正しいなどと一言うつもりは毛頭ない。しかし、しかしである。妻子の面前で「サル」呼ばわりされた甲野の気持ちはいかばかりであったろう。だれがこの家族のささやかな思い出を奪えるというのだろうか。
 このケースでもそうであるが、事件の多くは、一方(加害者)だけによって引き起こされるわけではない。事実を解明し、真実をみきわめるためには、他方当事者(被害者)にも目を向け、彼が事件発生にいかなる影響を与えたかもさぐる必要がある。ただ「善いモンはいい、ワルイ奴は悪い」だけでは、名奉行はつとまらないのだ。

 さて、『遠山政談』に話を戻すと、お染を俵に入れ川に捨てる場面などは、落語らしからぬ(?)凄惨な筋立てになっている。しかし、人間の性を表現するのが落語なら、こうした噺があることも仕方ないと思う。


【楽屋帖】
 昔ながらの因果モノ仕立ての「お白洲もの」で、遠山金四郎の裁きの中にあった実話をもとに、四代目三遊亭圓生が作った噺といわれる。舞台は現在の日本橋本石町。

商売は私事ではございません

2013-03-09 00:00:00 | 伝える言葉

◆伝える言葉(15)◆


 商売は私事(わたくしごと)ではございません。 (松下幸之助)



 経営の神様といわれた松下幸之助が、名古屋工業人倶楽部の招きを受けて、『企業の利益が社会を支える』と題した講演を行った。昭和36年5月、松下電器産業株式会社の社長を退いた4ヵ月後のことである。
 そのなかで、当時の松下会長は、次のように述べている。
「自分が投資する金はだれの金かというと、それはやはり社会の金である。多くの人を集めて仕事をさせるということは、天下の人を集めることである。一人といえども一銭といえども本質的に自分の人、自分の金というものはないと思うんであります。
 社会繁栄の便宜のために、個人の資産というものを認めておるにすぎんのであります。
 そう考えてまいりますと、資金を投資してくれ人を集め、収益をあげないということは、これは許されない」(PHP総合研究所『松下幸之助発言集Ⅰ』207頁)。

講義録:質疑応答

2013-03-01 00:00:00 | 会社法学への誘い

 以上で、私のお話を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。せっかくの機会でございますので、もしご質問やご意見があればお受けしたいと思います。

○司会 時間も過ぎておりますけれども、せっかくでございますので、若干の時間、質疑応答をいただきたいと思います。ご意見、ご質問を承りたいと存じます。
なお、ご意見、ご質問のある方は挙手をして、それでお願いをいたします。

○アベ YCキャピタルのアベと申します。
ただいま非常にわかりやすくて非常に深いお話をいただきまして、大変参考になりました。ありがとうございます。
私は会社をしばらく離れて、今は政治とか経済の方に中心を置いているので、ちょっと基本的なことを勉強させていただきまして、大変ありがたかったです。
ただ、これはマスメディアの問題ということですが、ちょっとそれを先生に二つほどお伺いを、せっかくの機会ですからお教えをいただきたいというふうに思っております。
実は、やはり今度の会社法改正の時に、ご存じのように、マスメディアでは資本充実責任、資本金ゼロでもいいというふうなことが、これは是か非かというふうなことが問題になりました。あとは、会社は誰のものかということで、今先生が一応趣旨を説明すると、アメリカの株主のものと。株主利益、株主の利益を最大にするということが会社の本質なんだということが、アメリカ流の考え方が大分席巻したわけでございます。若干私どもも異論を持っているわけですが、今後の会社法の改正について、またこれを是正すべきであるというふうなことも聞こえてきますが、今の点を含めまして、今後の会社法、さらなる発展なり是正・改正という動きの簡潔なところをせっかくの機会ですからお教えをいただきたいというふうに思う次第でございます。

○菅原 はい、大変にいい質問をありがとうございました。
ご質問は2点と伺いました。
1点目は、平成17年の改正時に、従前は株式会社になるためには1,000万円、有限会社なら300万円という最低資本金というルールがあったわけですが、これを撤廃しています。この最低資本金制度の撤廃の是非についてどう思うのかという点ですね。
それから、2点目は、会社法の仕組み上、会社の所有者である株主利益の優先、いわゆるアメリカ流のウォール・ストリート・ルールといいますか、投資家保護が色濃くなっているようだが、それが本当にいいのか。今後ほかの考え方はないのかというご質問であったと理解してよろしいでしょうか。

1点目は、最低資本金制度の廃止はメリットとデメリットの双方があったと思います。資本金が0円でも会社を設立できることは、起業や新規事業の進出には非常に良い制度なので、経済の活性化にもプラスに働くでしょう。ただし、資本金が0円でも、印紙代などの設立費用は要りますから、まったく「ただ」で会社ができるわけではありません、30数万円は必要です。
マイナス面は、資本金も計上できないような手持ち資金で会社を設立すること自体が、決して健全だとは思えないことです。また、安易な会社設立には悪用の懸念もあります。総じて、私は個人的に、最低資本金制度の撤廃には問題が多いのではないかと思っております。
少し前のことですが、資本金1,000円くらいで「振込め詐欺」に悪用するためのダミー会社を何社も設立したという事件がありました。死体なき殺人事件としてニュースになりましたが、東京都内のマンションの1室で、殺人の痕跡は残っているのだけれども、部屋の住人である被害者の死体が見つからないのです。調べてみると、そのマンションの部屋を本店所在地とした会社が複数出てきました。どうも振込め詐欺に利用するためだったようでありまして、これなども会社法を悪用した事例でしょう。
責任経営の実現するためには、基本法たる会社法で最低限の資金調達を義務づけ、経済の活性化という政策目的には、時限的な特別立法で対応するのが本筋ではなかったかと思います。

次に2点目ですが、会社の仕組みからいうと、やはり観念的には株主をオーナーと考えることになろうかと思います。しかし、会社の事業活動かかわる利害関係者(stake holder)は、株主や投資家マーケットばかりではありません。会社は、取引先、従業員、地域社会、顧客、競争相手など、取り巻くステークホルダーとの利害調整をそれぞれ図りながら、事業経営しているのが実態です。こうした利害関係の全般について、会社法の規律に取り込むのか、会社法のフィールド以外に任せるのかという議論があります。おそらく今後の会社法制の見直しにおいても、議論の一つになるのでないでしょうか。
結論から申し上げれば、必ずしもウォール・ストリート・ルールが日本の企業社会にはそのまま当てはまらないというのが、いまや共通の認識ではないでしょうか。お答えになっているかどうかわかりませんが、ちょうど最低資本金制度を時間の関係で省略もしたため、ご質問いただきましてありがとうございました。よろしいでしょうか。

○トザワ 本日は、大相撲の話なども交えながらの大変おもしろくもわかりやすい会社法のお話をご講義いただき、大変ありがとうございました。私、トザワと申します。
本日のお話の中で1点だけちょっとご意見を申し上げさせていただきたいことがございまして、僭越ながら発言をさせていただきました。
会社の概念についてなんですが、私は社団性というものはちょっと認めるべきではないと考えております。というのは、私は旧商法の時代には物心もついていないような若輩者であるということもあるんですけれども、現行の条文では、会社は社団であるという定義がまずないというのが最大の原因なんですが、現在の条文では、社員が1人となったことは会社の解散事由にもなっておりませんし、一人会社というものも設立することができますし、潜在的社団論ということを言われている方もいらっしゃるんですけれども、設立当初からの一人会社の社団性は潜在的社団論では説明できないと思いますし、ひとりぼっちでやっていこうという人とか、柔軟な機関設計とかを考えるのが今般の会社法の制度趣旨でもあるのかなということなどを考えるのと、条文にないものはどうかなというような現実的な考え方もございまして、ちょっと生意気ながらご意見させていただきました。

○菅原 ご意見いただいてありがとうございます。
そういう考え方がおそらくだんだん増えてきていると思いますし、おっしゃるとおりだとも思います。それでもなお、私が個人的に、社団性の本質を失っていないのではないかと思っている理由は、簡単にいうと二つあります。
一つ目は、確かに「社団」の文言は消えましたが、社団の構成員を意味する「社員」という表現は残っているため(会社法581条以下)、条文上も社団性が完全になくなったわけではないという点です。
それから、二つ目は、法人格の受け皿、権利義務能力の主体としての受け皿としては、やはり社団が想定されているのではないかということです。
ただ、今ご意見をいただいたとおり、条文にはない社団性の部分にいかほどの意味があるかという実質論はおっしゃるとおりですし、社団性は会社の本質的要素ではないと断言する見解もあります。そういう意味で、ご議論自体は正しい方向性ではないかと思います。

○トザワ ありがとうございました。

○菅原 ありがとうございました。よろしいでしょうか。
それでは、マイクを司会の先生にお返しする前に、一言だけ御礼のご挨拶をさせていただきます。今日は多少雑駁なお話にもなりましたが、用意してきた内容について一応お話しできたつもりでおります。90分間という長丁場、お聴きいただきまして本当にありがとうございました。
ぜひ皆様方、健康には十分にご留意いただき、ますますご活躍されることをお祈り申し上げます。こういう機会を賜り、大変光栄に存じます。皆様のご清聴に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

(完)